俺の髪を弄っていた手を、彼は驚いたみたいにぴくりと止めた。そして、ごく小さく微笑んだのだ。それは、家の外で見たあの影も感情もない微笑ではなくて、確かに影も感情もある、ごく当たり前の人間らしい微笑に見えた。

 「……馬鹿だな。」

 それだけ彼は言って、ベッドから立ち上がった。俺はベッドに蹲ったまま彼の背中を見つめ、シャワー使って、と言った。彼は俺を無視して服を着ると、そのまま部屋を出て行った。俺には彼を止めることもできなかった。上手い言葉が全く思い浮かばなくて。

 あの夜も、俺は涙をこらえながらシャワーを浴びた。あんなに泣きたくなった理由は、今でも分からない。でも、なんだか悲しかった。恋をしたばかりで悲しくなるのには、慣れっこではあった。俺はいつも、叶わない恋ばかりしていたから。でも、あの日シャワーを浴びながら噛み殺した涙の味は、いつもと違っていた気がする。ただ単に、また振り向いてくれない男を好きになって悲しい、というよりは、もっとなにがしかの感情が絡みついていた。

 そしてシャワーを終えた俺は、ひとりベッドに入って眠ろうとしたのだけれど、つま先の冷たさやどうしようもない悲しさに耐えられなくなり、幼馴染に電話をかけた。彼女とは幼稚園の頃からの付き合いで、高校まで同じ学校に通っていた。夜中の非常識な時間に電話をできる相手が、俺には彼女しかいなかったのだ。それに彼女は、俺がゲイだということも知っていた。まだ、男が男を好きになるのは特殊なことだ、と気が付く前から一緒にいたから、普通の会話の延長線上で、好きな男の子の話なんかをお互いしていた。

 「里砂?」

 三回めのコールで電話を取った彼女は、もうすぐ寝ようとしていたところだ、と言ってはいたけれど、話に付き合ってはくれた。しばらく近況報告や大して内容のない雑談をした後、里砂は特別な気負いを感じさせない、いつもの彼女の口調で、どうしたの? と訊いてきた。俺は咄嗟に言葉が出なかった。こうやって、非常識な時間に意味のない会話をするために電話を掛けあうのはいつものことだったし、そのときに彼女が、どうしたの? なんて俺の内心を見透かすような言葉を投げかけてきたことはなかったから。 

 「…なんで?」

 『なんとなく。』

 あっけらかんと里砂が言うから、俺はなんだか体の力が抜けて、ちょっとだけ涙も出てきてしまった。里砂には気が付かれてはいないと思う。少なくとも彼女は、気が付かれた、と感じるような振る舞いは一切しないでいてくれた。

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