記憶にまつわる驚愕列伝【コラム】
ミッキー大槻
第1話:見たことのある人の顔を絶対に忘れない「スーパー・レコグナイザ」たち ― “見当たり捜査官”としても活躍か
2009年9月2日午前10時45分頃、福岡県大刀洗町上高橋の路上で輸送車を運転中、ジュラルミンケース四つに入った現金計約7200万円を盗んで逃走したとして指名手配されていたU容疑者(65歳)が、9月18日正午ごろ大阪市北区の場外舟券売り場「ボートピア梅田」で大阪府警の捜査員に逮捕された。ネットで公開されている新聞記事には書かれていないようなのだが、U容疑者を逮捕したのは、“特殊能力”を持つ捜査官だという。
大阪版の読売新聞に掲載されていた記事によると、U容疑者を逮捕した捜査官たちは、指名手配犯の顔写真数百人分を常時記憶していて、一致する顔を雑踏の中から見いだす能力を持つ“見当たり捜査官”だった。
発見当時、U容疑者は白いマスクで顔を隠していたが、わずかに露出していた目元の特徴だけで見当たり捜査官たちはその男をU容疑者だと特定したとのこと。見当たり捜査官は、たった1人の指名手配犯だけを血眼になって探しているのではなく、常に数百人分の顔を頭に入れていて、目の前の雑踏の中に一致する顔があれば瞬時に思い出すことができるわけだ。
見当たり捜査官たちは、まさしく「スーパー・レコグナイザ」と呼ぶにふさわしい能力の持ち主だ。といっても、「スーパー・レコグナイザ」という言葉を聞いたことがある人はほとんどいないだろう。「スーパー・レコグナイザ(super-recognizer)」とは、人並み外れた“相貌認識力”の持ち主を指す新語である。“相貌認識力”とは、人の顔を名前やその他の属性と関連付けて記憶し、その人に会ったときに思い出す能力のことである。
“Windows Server World”誌に連載していたコラム『人間とコンピュータのあいまいなカンケイ』で「スーパー・レコグナイザ」たちの話を取り上げたことがあるので、以下、その内容を引用しておく。
■ 無数の顔を記憶しなければならない現代人
たとえば江戸時代、農村で暮らしていた人たちは一生のうちに何人の顔を見ただろう。ふだんは自分の家族や近所の人としか接することがなく、最も人が集まる祭りのときでもせいぜい数百人の顔を見るにすぎなかったはず。
一方、現代人は学校や職場などさまざまな場所と状況で、実に多くの人の顔を覚えることが要求される。顔を見ただけで相手の名前、所属会社・部署、役職などをすぐに思い出せなければ、まともな社会生活を営めない。むろん、江戸時代でも、江戸で商売を営んでいた人には、人の顔を覚える能力が要求されたはずだ。しかし、当時の日本の人口の大部分は固定メンバーの小さなコミュニティの中で暮らしていたから、そんなにたくさんの顔を記憶する必要がなかった。
人の顔を覚え、後でその人にどこかで会ったときにその人が誰かを思い出す能力のことを"相貌認識力"と呼ぶ。ハーバード大学心理学部の研究者リチャード・ラッセル氏によると、"相貌認識力"は人類に本来備わった能力であるものの、人類の長い歴史を通じて見れば、ごく最近になって酷使されるようになってきた能力だということになる。
自分は人の顔を覚えるのが苦手だという人も少なくないだろう。筆者の場合は、場所が違っていると、知ってるはずの相手とすれ違っても気づかないことがよくある。そういう場合、気がつくとしたらたいていは相手の方である。しかし、挨拶されても(顔には確かに見覚えがあるのに)作り笑いをしてごまかす。
■ スーパー・レコグナイザはあなたの身近にもいる
だが、たとえ10年以上前にごく短い時間だけ同じ職場にいたなどの相手でも、どこかですれ違うとすぐに特定できてしまうという優れた"相貌認識力"の持ち主がいる。あるとき、そういう能力の持ち主であるNさんと道を歩いていたら、前から1人の女性が通りがかった。Nさんは、その女性の顔を見たときに、その人のフルネームとどこの職場で一緒だったかを即座に思い出したのだという。
コンビニに入っていった女性を追いかけ、○○さんでしょう?と声をかける。女性はいぶかしそうな顔で振り向く。ほら○○の事務所で一緒だったでしょう? その言葉を聞いて、女性がまだ不審げにうなずく。Nさんは当時の上司が誰々でといった詳細を次々と畳みかける。女性はようやくNさんのことを思い出したような気になったらしく、表情を崩す。その女性はNさんが10年ほど前にたったの1週間だけ同じ職場で働いていた女性だが、お互いに言葉を交わしたことは一度もなかったという。Nさんによれば、別に言葉を交わさなくても、一度見た他人の顔はなかなか忘れないという。
"相貌認識力"については、むしろ、その能力が著しく低いケースの方がこれまでよく知られてきた。"相貌失認"と呼ばれる症状である。怪我や手術などの後遺症として起こることが多い。ひどい場合など、同じ屋根の下で暮らしている親兄弟の顔すら思い出せなくなり、朝食時には初対面の人たちが同じ食卓を囲んでいるとさえ感じてしまう。これまでの研究の結果、先天的なものを含め、ある程度の"相貌失認"を患っている人は全人口の2%くらいいることがわかっている。
ラッセル氏らが心理学誌"Psychonomic Bulletin & Review"で発表した研究結果は、"相貌失認"とは正反対に相貌認識能力が抜きんでて秀でた人たちが存在することを明らかにしている。ラッセル氏らは、そんな彼ら・彼女らのことを「スーパー・レコグナイザ(super-recognizer)」と呼んでいる。前述したNさんもスーパー・レコグナイザ(以下、SRと略記)の1人であるに違いない。
■ その脅威の認識力
この研究では、SRと考えられる被験者と標準的な相貌認識能力を持つ人たち(対照群)に対し、標準化された一連の相貌認識テストを実施した。その結果、SRたちは対照群を遙かに凌ぐ相貌認識力を持つことがわかった。さらにSRたちに問診を実施したところ、彼らは既知の誰かとすれ違ったとき、自分が相手に気づいても、相手には気づいてもらえないことが非常に多いと答えている(前述したNさんが10年ぶりに道ですれ違った人を瞬時に特定した場合も、相手は全然気づいていなかったし、Nさんのことをなかなか思い出せなかった)。
このため、SRたちは、道で既知の誰かとすれ違っても、あえて気づいていないふりをすることが多いという。なんせ、SRたちは言葉を交わしたことのない相手の顔でさえ覚えている。彼らにすれば、路上でそんな相手とすれ違うことは日常茶飯事らしい。だから、わざわざそのたびに過度に反応しているわけには行かないということのようだ(前述したNさんの場合は、自分にそういう能力があることを私にわからせたくて、わざわざ遠い昔に一時だけ職場を同じくした女性を見つけて声をかけたのだろう)。
ラッセル氏によれば、SRたちは、2か月前にたまたま同じ店で買い物をしていただけの人でさえ覚えていて、すれ違いざまに特定できるという。その相手と会話を交わしていなくても同じである。自分にとって重要な相手かどうかに関係なく、たまたま同じ場所を共有していた人の顔を記憶してしまう。
ある女性SRは、5年前に別の年の店で彼女に応対したウエイトレスの姿を町で見つけて特定したことがあるという。これなど、場所が変わるととたんに相手が誰だかわからなくなる筆者には羨ましい限りだ。SRたちは、相手の髪型や髪色が変わっていても、前に見たときから相手がずいぶん年を取っていても、相手をいともたやすく認識できてしまう。
ともあれ、ラッセル氏らの研究以前は、相貌認識力は標準か劣っているかのどちらかだけに分類されていた。劣っている側の究極には"相貌失認"という症状が存在する。しかし、実際には上記のようなSRたちが存在し、人間の相貌認識力には顕著な個人差がある。ここまで幅広い個人差があるのなら、目撃証言などに際しても目撃者の相貌認識力をテストした方がよいことになる。
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上の話に出てくる“Nさん”は、後出の『人の顔と名前を覚える能力、そしてその能力が失われて家族の顔にさえ見覚えがなくなってしまう“後天性相貌失認”』にも登場し、25年中のいつ見たことのある人の顔を絶対に忘れない「スーパー・レコグナイザ」たち ― “見当たり捜査官”としても活躍か』に登場し、2025年のいつかにに発表するノベルにも登場する。
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