ヴィル②
「そう。私はねぇ、あなた達くらいの歳の頃は、もうねぇ、毎日が地獄だったんですよ」
ヴィルさんは、遠い夢を見るように目を細めた。その表情は柔らかいのに、瞳の奥に沈む影は深く、決して拭えないものだった。
「朝から晩まで、日が昇る前から沈むまで、ただただ働いてねぇ。手のひらは真っ赤に裂けて皮が剥け、豆だらけでさぁ。それを見た学校の友達は、珍しいおもちゃでも見つけたみたいにゲラゲラと笑ってね。でも泣いてる暇なんて無くて。だって、我が家には、明日食べるものすらなかったんですから」
ヴィルさんの語りは淡々としていた。けれどその一言一言が、胸に突き刺さる。
「賄いで貰った硬いパンを汚れた麻袋に詰めて、妹と弟に分けてねぇ。私は水だけを飲んで空腹をごまかして。今思えば、あれは…人間の暮らしじゃなかったですねぇ」
「ご両親は……いらっしゃらなかったんですか?」
気づけば、僕の声が震えていた。
「嗚呼、ええ。いなくなったんでさ」
ヴィルさんは遠くを見つめる様に頷いた。
「あの日、いつも通り朝を迎えたら……家には、私と、まだ幼い弟と妹しかいなかったんでさ。テーブルの上には、金貨が一枚と上等なパンと、萎びた野菜がいくつか置かれていてね」
言葉の途中で、ヴィルさんが息を呑む。
「私たちは最初、両親が出かけたんだと思っていたんですよぉ。でも三日経っても帰ってこなかった。その時、ようやく理解したんですよ――見捨てられたんだって。子供三人が、置き去りにされたんだって」
沈黙が落ちた。言葉ではなく、空気そのものが苦しかった。
「そこからはもう、弟と妹を飢えさせないために必死でねぇ。学校なんて、贅沢だった。勉強する暇があるなら働かなくちゃならなかったんです」
「……大人は、助けてくれなかったんですか?役所とか……」
アルゲディの声は、現実を信じられないように揺れていた。
「役所に行ったって、何も変わらなかったんですよぉ。哀れんだ誰かが親戚を探してくれたくらいで、それ以外は放ったらかし。生きるか死ぬかは、結局、子供の肩に全部のしかかってくる。…大人ってのは、見て見ぬふりが得意なんでさぁ」
ヴィルさんの目が、遠い過去に沈む。
「そんな日々の中で妹が流行り病にかかっちまいやしてね。あっという間だったよ。何日も熱が下がらず、胸が苦しいって、ずっと泣いてた。
私は、夜も寝ずに背中をさすって、何度も『大丈夫だ』って言い続けた。でも……朝になったら、その小さな手は、もう冷たくなっていたんでさぁ」
言葉の温度が、しんしんと冷たくなる。
「……弟は、それでも生き残ってくれた。私がこの世界で唯一、命をかけて守った存在だったんですよ。でも、七年前……心臓の病で……」
ヴィルさんは一度目を閉じ、そっと開いた。
「金さえあれば、助けられたのに。私は、見ていることしかできなかったんですよ。苦しいって叫ぶあの子に、何一つしてやれなかったんでさぁ」
誰かの命を、手のひらから落としてしまった重み。それが、彼をずっと縛っているのだろうか。
「だから……私は、孤児院を始めたんでさ。もう二度と、誰かを見殺しにしたくなくて。せめてもの、償いとして。私に救えなかった命の代わりに…今、目の前にある命を守る。それが、私のやり方でねぇ」
僕の胸に、言いようのないものがこみ上げてきた。
――誰かを助けるために、自分を削りながら生きている人がいる。報われなくても、それでも、人を守ろうとしている。
そんなヴィルさんが、どうして幸せになれないのか。僕には、それがたまらなく悔しかった。
「……僕だって……僕だって、頑張ってるのに……どうして……」
堪えきれず、嗚咽まじりに言葉がこぼれた。
「母さんが倒れて、もう働けなくなって。僕が、代わりに働いてるんです……子供なのに……朝も夜も……それなのに、誰も見てくれない。馬鹿にされて、笑われて……!辛くて、苦しくて……でも、やめられない。……生きなくちゃいけないから……!」
その叫びを、ヴィルさんはそっと抱きしめてくれた。
「イオス君……君のような子が報われない世界は、間違っている。君の頑張りは、必ず、誰かの光になる。だから……どうか、自分を見失わないで」
ああ、ただ――。
ただ、こんな言葉を誰かに言ってほしかったのだ。
「君は偉い」「よくやってる」――それだけで、生きる勇気が湧く気がした。
「君のその手が、いつか温かくなる日が来る。私は……その日が来ると信じていますよぉ」
ヴィルさんは、僕の手を包み込み、アルゲディの方を見た。
「坊ちゃん。世界は、貴方が思っているよりずっと汚くて、不公平で冷たい。けれど……そんな世界だからこそ、温かい手を差し伸べられる人間が必要なんでさぁ」
アルゲディは、ヴィルさんの目をしっかりと見つめ、静かに、しかし力強く頷いた。
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