第3話 母それぞれ
最低限の単位数をギリギリでクリアし、何とか卒業への見通しが立って来た年の瀬の候だった。
卒業旅行の計画を、エリちゃんが発案した。
行き先は、都市部近郊の温泉地である。
海の見えるお部屋から、一日中景色を眺めて過ごそうね!と、温泉旅館を奮発して予約の手配をするかたわら、ビジュアルからも充実させようと、色違いのお揃いジャケットを買い揃えて、ワクワクしながら出発日を待った。
湯けむりが立ち上る、素朴な石橋の欄干に手を添え、お互いにシャッターを切り合った写真のエリちゃんは、スモーキーピンクのジャケットに身を包み、柔らかな佇まいだ。
一方私は、お気に入りのビンテージっぽいブルーのそれを、自慢気に羽織っていた。
夕刻になると私たちは、イメージ通りに暮れなずんでいく大海原の、一瞬一瞬の表情を見逃すまいと、窓際のベッドの上に並んで座り、無言で目を凝らした。
空や雲が刻々と様子を変え、ささやかだけど特別なショーを繰り広げていた。
大自然にとってはただ当たり前の、取るに足らない日々のルーチンなのかも知れないが、私たちにとっては、ただただ畏れの様な気持ちを抱いて、大自然の営みに丸腰で向き合う、非日常の事なのであった。
畏怖の念が極まり、思わず一枚の毛布でお互いの頭と身体をすっぽり覆い、あたかも二人で一人になったかの様にして、それぞれの心細さを補っていたとしか考えられない、愛しいひとときであった。
予算の関係で、旅の予定は一泊であったが、日付けが変わってパワー全開の二人が名勝巡りをしていると、あっという間にお天道様が傾き始める時間帯になってしまう。
旅の終わりが近付くと、誰でも感傷的になりがちかと思われるが、私たちの場合も例外なく、終わりにしたくないという切ない感情が生まれていた。
どうして、珠玉の様な素敵な時間には、いつも終わりが来てしまうのだろう?
いつもこうやって我慢を重ねて、本当の気持ちに蓋をして生きているだけではないのか。
クヨクヨモードで俯くばかりの二人のゆく道を、力強く切り開いたのはエリちゃんだった。
「もう一泊しよう!」
言うが早いか、駅前の観光案内所に飛び込んでいた。
前泊の絶景ホテルにはもちろん及ばないが、急な思い付きにしては、上等なお宿が見つかった。
小さい頃に駄菓子屋さんで買ったアイスの棒にあたりマークが付いていた時と同じ感じの、不思議なお得感に酔いしれながら、美味しい和食に舌鼓を打つ。
厄介なのは、家の事だ。
一泊の予定で出て来ているので、急きょ連泊に変更された旨の知らせを入れたりしたら、電話口で母がどんな狼狽ぶりを呈するか、容易に想像する事が出来た。
考えるだけでも気が重い。
かと言って、一報も入れずに無断外泊する程無鉄砲な事は出来なかった。と言うより、母の発狂による被害を最低限に抑える為に、自分を守る保身の目的で、私は重い受話器を持ち上げた。
案の定のヒステリー劇場だ。
受話器を耳から離してしかめ面の私は、軽く叫んだ。
「エリちゃんが、旅館の電話番号言うから。」
受話器を押し付けられたエリちゃんが困惑しながらもお宿案内の紙を手に取り、番号を読み上げた。
「……。」黙って聞いている彼女。
「なんか言ってるよ。」と言って、私に受話器を戻して来た。
意を決して耳に当てると、ヒートアップしている母のイキり声。
後味悪く電話を切ってから、なんて言ってた?と聞くと、「あなたのお家の人も心配しているんじゃないの?そんな事して叱られないの?!」と、すごい剣幕だったそうだ。
ちなみにエリちゃんの方は、スマートな事務連絡よろしく、すんなりと穏やかにお家への連絡を終了していた。
エリちゃんは親に信頼してもらっている。
羨ましかった。大袈裟でなく彼女の後ろに後光が差している様に見えた。
それに比べて、私は全く信頼されていない。
惨めだった。
せっかく一泊追加したのに、前の日の夜のあの輝きは、すっかり色褪せてしまっている様だった。
エリちゃんのお母様について、お話はよく彼女から聞いていた。
幼児教育に熱意を持って携わっておられるキャリアウーマンで、ご自身のお子さん、つまりエリちゃんのしつけに関しても、ピリッと締まって一本筋の通った対応をなさっている方だという事だった。
そんな訳で、お会いする機会に恵まれた時は随分緊張した物だ。
ところが、実際にエリちゃんがお母様と私を引き会わせてくれた時の印象は、思っていたよりずっと優しい笑顔が眩しい、明るいお母様だった。
まだ思春期の延長線上にいる様な私たちの青臭い語りにも、おそらく一抹の不安を抱かれながらも、鷹揚に耳を傾けて下さっていた。
「お母さん、素敵だね!バリバリお仕事されてるって感じ!」
「普段はあんまり話さないから、この前は良かった。ありがとうね。」
母と娘の関係というのは、どこのお家でも一筋縄では行かないという事だったのか。
のびのびと天真爛漫に見えていたエリちゃんでさえ、お母様について語る時は、瞳にしばし影が宿る様な気がした。
そしてその影の正体が、単なる母娘の関係のジレンマによる物ではないという事実に、彼女は戸惑い、悩んでいた。
「お母さん、また入院するのよ。」
いつからか、腎臓を病んでおられたお母様が、入退院を繰り返される様になったのは、私たちが学生生活にピリオドを打つ少し前の時期であった。
「今度一緒に面会に行って貰えるかなあ?」と声をかけられ、もちろん、お母様にお会いしたいし、是非、と同行させて貰ったのは、お天気の良い冬の日の午後だったか。
レンガ造りが厳かな大学病院の入院病棟の個室に、お母様がいらした。
具合がお悪いかも知れないのに、エリちゃんに続いておずおずと入室した私の姿を認めると、明るい声でご挨拶をして下さる。
エリちゃんはベッド際に歩み寄って、あれこれお母様と身辺の情報交換をしたり、お洗濯物の算段の打ち合わせをしたり。
私はお二人の邪魔にならない様に、壁際に置かれていたソファーに座った。
すると、座った姿勢でベッドの方向に視線を送る事がとても不躾で失礼な事の様に思えて来て、身体の向きを変えてみたりもしたのだが、それでも所在無い。
ついに私はソファーに横になって、身体の向きを背もたれの方に完全に向けて、眠ったフリを決め込んだ。
母娘の穏やかな会話が部屋の中に静かに響く。
母娘にしか分からない心と心の触れ合いの時間が流れていた。
お二人の控えめな声色を聞くともなしに聞いていると、私はどうにも涙が出て来るのを止められなかった。
でも、泣いているなんていう事を察してしまわれたら大変なので、懸命に気配を消して横になっていた。
「あら、寝ちゃったのねえ。」
「あ、本当。」
「疲れているのねえ。」
エリちゃんのお母様の声も語り口も、とても優しかった。
背中に母娘の視線を感じながら、両目を一層ギュッと閉じて固まってしまう。たぬき寝入りはとうにバレていたのかも知れなかった。
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