第6話 錬金釜に棲みしもの
しんと静まり返った室内は、先ほどまでの騒動など嘘のようだ。
秋の涼しい海風がマユラの乱れた髪を揺らした。
首や腕を掴まれた後の違和感はまだ残っている。だが──解呪ができた?
「やった! やったわ! 初めて魔法がうまくいった!」
私もやればできるのだと、マユラは首と腕をさすった後にふと気づいて、飛び跳ねるぐらいに喜んだ。
「これでもうここは呪いの館では亡くなったのかしら。呪殺の心配もない、私の初めての家」
マユラには今まで自宅と呼べる場所はなかった。
レイクフィア家は恐ろしいばかりだったし、アルティナ家では小間使い同然だった。
ここは安全。自分だけの場所。刃傷沙汰の呪いも解くことができた。
足取りも軽く錬金釜に向かう。この錬金釜に呪いがかかっていたのだろうか。
錬金釜はマユラがすっぽり入りそうなほどに大きくて深い。何やら歴史がありそうだ。
古の大魔道士が使っていた錬金釜という雰囲気が、釜の全体から醸し出されている。
「私の魔法も捨てたものではないわね」
自慢げに得意げに自画自賛をしてみる。
誰も聞いていないので少しマユラは調子に乗った。
調子に乗りながら錬金釜を覗き込むと、そこには──何やらまんまるいものが入っている。
『なんて……なんて……残念な魔法だ……! お前が錬金術だと!? 哀れすぎて呪う気にもならんぞ……!』
そのまんまるいものは──先ほどの呪いと同じ、渋めの男性の声で心底憤慨したようにそう言った。
「丸いものがしゃべった……!」
『丸い物ではない。よく見ろ』
「……これは、黒猫人形……? かわいいですね、ちょっと抱っこしていいですか、やだ、可愛い」
マユラは錬金釜の中にいる丸い物体を、両手で掴んで持ち上げた。
それはおそらく、ぬいぐるみである。
不恰好に大きい顔に尖った耳に小さな体。猫なのに二足歩行だ。
丸々とした金の瞳。頭にはちょこんと王冠が乗っていて、赤いマントを羽織っている。
手のひらサイズの可愛い黒猫ちゃんのぬいぐるみが、両手をぴこぴこと動かした。
「私、ぬいぐるみを抱っこしたのは初めてです。そういったものとは無縁の生活をしていましたから。可愛いですね、可愛い、可愛い」
『黙れ、残念な女め』
「こ、こんなに可愛いのに、渋いおじさんの声で喋るのはやめてください」
『おじさんではない、お兄さんだ。お前、顔を擦り付けるな。残念な女の残念な魔力が移る』
「失礼な猫ちゃんですが、可愛いので許す」
猫のぬいぐるみが何を言おうと、ひたすらに可愛い。
猫のぬいぐるみはにじにじと動いてマユラの腕の中から抜け出して、錬金釜の淵にぴょんと飛び乗り、すくっと立った。
『私はアルゼイラ。大魔法使いである』
「その名前はあまり可愛くないので、ノワールちゃんにしませんか? 黒猫ちゃんなので」
『たわけが。私の名を知らんとは』
「……ごめんなさい。知りません。フィロウズさん……ここを私に貸してくれた人が、ここは昔魔導師さんの研究所だったといっていました。それが、アルゼイラさんですか?」
『アルゼイラ様。もしくは師匠と呼べ』
師匠? と、マユラは首を傾げた。
黒猫のぬいぐるみは、小さな手──ぬいぐるみなので指のない手を、ピシッとマユラに向ける。
『先ほどの闇払いの魔法は一体なんだ。出来が悪すぎて、お前を絞め殺す手が緩んでしまったではないか。まるで肉まんから立ち上る湯気のようだった』
「美味しそうですね。肉まん、いいな。食べたいです」
『そうだな。……ではなく。あのような魔法しか使えないお前が、錬金術師になるとほざいておるのが哀れすぎて、追い出す気も失せた』
なんだか悪口を言われている。
レイクフィア家で悪口を言われ慣れているマユラは、可愛い猫ちゃんの罵倒を聞き流した。
『あまりにも哀れなものだから、この私が哀れなお前の師匠になってやる』
「猫ちゃんが、私の師匠に?」
『アルゼイラ様だ』
「アルゼイラ様は、大魔導師様。でもどうして猫ちゃんなのですか?」
『さてな。私がここに住んでいたのは、今から何年も昔のことだ。よくは覚えていないが、気づいたらこの姿だった。きっと偉大な私は、己の肉体から精神をこの体に移したのだろう』
「どうしてでしょう」
『不老不死を求めていたのだろうな』
まるで他人事のように、アルゼイラは言った。
つまり、アルゼイラは今から何年も前。もしかしたら何十年か、何百年か前に生きた大魔導師だった。
そして、肉体が死を迎えたために、精神をぬいぐるみに移した。
そんなことができるのかと疑問に思うが、それぐらい偉大な魔導師様だったのだ。きっと。
『私の家に入る不届きものを追い出していたのだが、いつの日かこの部屋に封じられていてな。長年研究室の扉は封じられていた。内側からは開けないようになっていたのだ。だが、四年前に、この家の住人が私の研究部屋に足を踏み入れた』
「死んでしまった方々の話ですか?」
『そうだな。私は研究室の扉を開いておくことを交換条件に、女の望みを叶えることにした。扉が閉じられてしまっては、私は外に出られない。扉に封印の護符が貼られていた故な。女の望みは、夫と浮気相手を呪い殺すことだった』
「は、犯人がここに」
『望まれてしまっては仕方ない。女は夫に殺されたのだから、自業自得だろう?』
黒猫のぬいぐるみは、小さな肩をすくめた。
全く悪びれていない様子である。
「その女性のご遺体はどこにもなかったそうなのですが」
『それはそうだ。男が殺して海に沈めたのだ。出てくるわけがない』
「か、かわいそう……」
ひどい話もあったものである。
とすると、その女性の復讐をしたアルゼイラはいい人ということにならないだろうか。
ならないか。うん。ならない。
ともかく。古の大魔導師様の倫理観は、今を生きるマユラとは違うのかもしれない。
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