ローズジャムとクロテッドクリームの贅沢

采火

ローズジャムとクロテッドクリームの贅沢

 わたしの少女時代を喩えるのならば、それはまっこと素朴なスコーンのように、どことなく味気ないものでした。


 そんな味気ない日々を、まるで華やかなジャムと上品なクリームを添えた贅沢な品に変えたのが、留学先で出会いました、ロザリー=スノーフィードという少女でございます。



 ✥   ✥   ✥



 文明開化の音がますます鳴り響く頃、日本の室町より続く公家一門の分家にて生まれたわたしは、十三になるまで祖国で楚々と育ちました。


 その頃の日本といえば、外つ国との交流もぐんっと増えて、英国かぶれのハイカラな女学生がガス灯の夜のもと、かかとの高いおくつを履いて闊歩していたものでございます。


 そんな潮流の中、わたしの両親は古き伝統を守るべき公家の一門の末でありながらも、新しき時代の風を恐れない、風変わりな人たちでございました。彼らはやがて本家より勘当されることを覚悟で船に乗り、英国へと渡るのですが、その船には当然、一人娘であるわたしも同乗することとなりました。


 ですが英国へと渡りました後、大変困ったことに祖国より帰還命令が下ったのでございます。


 なんでも北方におわしました帝国が南下政策を進め、祖国へとその魔の手を伸ばしてきたのだとか。一門では下の下におりましたわたしの両親も、世界見聞を頼りにされての帰国となったそうです。


 それはその通りでございまして、一門の方々が理解しておりましたように、わたしの両親は先見の明のあるお人たちでございました。大陸の国々の文明力を高く評価しておりましたから、万が一、大陸の端にちょこんと浮かぶだけのちっぽけな祖国が焦土に変じることも視野に入れているほどでありました。


 故にわたしは齢十三にして、単身欧州に取り残され、永世中立を謳うお国の、花が咲きほころびはじめるばかりの少女が集う寄宿学校へと入学することとなったのでございます。




 祖国を出るまでのわたしと云えば、両親の英国かぶれのために、閉塞的な一門の中でははみ出しものの一人でございました。


 友人と呼べるような友人は近所に住みついておりましたおたぬきさんくらいなもので、年頃の女子とのお遊びやおしゃべりとはとんと縁がなく、むしろ一門の集まりがある時などは年の近い男子に、


「やいやい、この舶来むすめ」

「墨染めひいな」


 などと揶揄されることも、しばしばございました。


 英国紳士のような成りをする父と貴婦人としての装いをする母から生まれたわたしは舶来のものだと見立てられ、ご先祖さま譲りの自慢の黒髪も、彼らには墨染めされたすが糸にしか見えなかったのでしょう。


 そのようにして育ちましたので、わたしはひどく口下手な性格となりまして、なかなか思うように心を伝えることは叶わず、また話を聞いてもらうということにも慣れぬような娘となってしまったのです。


 そんなわたしが一人、祖国より遠く離れた土地に置いていかれるのはひどく寂しく、たったひとつの命を黄泉比良坂へと送るよりはという両親の優しさを理解することもできず、当時は随分とお恨みしたものです。


 というのも、両親のおかげで語学だけは堪能ではありましましたので、日常生活を過ごす程度でしたら、さほど問題はございませんでした。ですがそんなわたしを苦しめたのが、欧州の風習とも呼べばよろしいのか、寄宿学校の女生徒を主人とする、お茶会サロンだったのです。


 わたしはその寄宿学校にて唯一の東洋人の生徒でございましたので、入学したての頃などはあちこちのお茶会にお呼ばれしておりました。ですがその大半はわたしの控えめな態度に興ざめしたようで、そのうち「東洋のからすは鳴き方を知らない」などと噂されるようになり、わたしは祖国にいた頃と同様、常に一人で過ごすようになったのです。




 寄宿学校での生活はそのように始まりまして、わたしは大変退屈しておりました。


 それこそ麦飯と塩しか並ばないひもじい食卓のように、今の楽しみもなく、先の歓びもなく、ただひたすらに同じような日々を粛々とこなすだけ。


 そんな日々を、まるで夜の嵐を越えた朝、雨戸を開けた時に見える、あのきらきらとした雨露の風景のように変えてしまったのが、ロザリーでございました。


 わたしの半年あとに入学したロザリーという少女は、大変社交的で、十人いれば十人が声をそろえて「愛らしい」と言うような容姿をしておりました。


 秋にさざめく黄金の稲穂のような髪に、上等な有田の磁器に見えるような鮮やかな瑠璃の瞳、白粉要らずでさらさらとした真白の玉のような肌。


 もちろんわたしも彼女を愛らしいと評する人間の一人でございまして、宣教師より教わった聖書に描かれる天使の絵姿に近いものを感じたほどでした。


 そんな愛らしいロザリーと、「鳴き方を知らない東洋のからす」であるわたしが接点を持つことになったのは、ひとえに寄宿学校という性格の鳥籠にて、二人部屋の同室になったからでございます。




 ロザリーははじめ、入学した頃のわたしと同じように、あちこちのお茶会にお誘いされておりました。


 太陽のような明るい陽射し色の髪を持つ妖精のような少女たちが、寄宿学校の庭園で、わたしの知らないさまざまの菓子を並べておしゃべりに興じるのを遠くから眺め、少し妬ましく思ったこともございました。しかしながら、そこに墨染めのひいなが入りこむ余地はもうすでになく、もう少し、わたしも社交性を身につけるべきだったと後悔したことを覚えております。


 畢竟、わたしもまた、ロザリーと友人になりたかった。


 彼女がお茶会で何を見聞きしたのか、夜な夜な気になって眠れないこともしばしば。同室であるのに、最初の一週間は必要最低限の会話だけしかなく、わたしは彼女にどう思われているのか怖くもあったのです。


 言葉がなくとも生活は成立するもので、わたしはその内に、この天使のような見目の少女も、わたしを舶来品やひいな、からすと揶揄する彼らと大して変わらないのだろうと思うようになっておりました。今思えば、それは彼女に対してのあまりにも酷い侮辱であったと反省しております。


 わたしたちの関係が変わる切欠となりましたのは、ロザリーと同室になりまして半月ほど経った頃のことでした。


「アリスのお茶会をしませんか」


 寄宿学校の誰もが寝静まった夜半、ロザリーはそう言うと、彼女の書き物机にちょこんと置かれていた封蝋を熔かすためのキャンドルに火を灯したのです。


 わたしは彼女の言うアリスがなんなのか分かりませんでしたが、どうも細々としたキャンドルの灯りを頼りにするお茶会に興味をそそがれました。誘われるまま寝台を抜け出し、同じように燐寸マッチをすると、自分の書き物机にありました封蝋のためのキャンドルに火を灯したのです。


 それが、わたしとロザリーの、二人だけの夜話のお茶会のはじまりでございました。




「アリスのお茶会とは、どのような作法なのですか」


 生まれてこの方、自分から話題をふるということに慣れていないわたしでございましたが、そんなわたしがお茶会でまず、いの一番で口にしたのがその言葉でした。ロザリーの言うアリスのお茶会というものにおいて、どのような作法が求められるのか、それだけが気がかりであったのです。


 これはまた、わたしをからすと揶揄した女生徒たちのお茶会での二の舞いを踏まぬための、わたしなりの歩みよりであったのですが、今思うと、大変間抜けな言葉であったと笑い話になるようなものです。なぜならアリスのお茶会は、作法も何もない、気違いのお茶会だったのですから!


「アリスのお茶会は何をしても許されるのよ。だからそうね、葡萄酒の代わりに冷めた紅茶で乾杯をいたしましょう。おやつの時間ではないけれど、こっそりとくすねてきたスコーンもあるのよ」


 浄瑠璃の瞳を細めて茶目っ気たっぷりに笑うロザリーの水差しには、驚いたことにすっかり冷めた紅茶が入っておりました。香りはもうほとんどございませんでしたが、祖国の茶とも麦湯とも違う、紅茶特有のすっきりとした味わいがあり、いっとう特別に思えたものでございます。


「スコーンにはローズジャムとクロテッドクリームを添えるのが一番贅沢で美味しいいただき方なの。でもね、さすがにジャムもクリームもくすねてくるのはできなかったわ。味気なくてごめんなさいね」


 それまで天使だ妖精だと思っていた愛らしい少女から「くすねてくる」なんて言葉が飛び出してきたので、わたしは自分の語学能力が狂ってしまったのかと耳を疑いました。されどロザリーはわたしの疑問を否定するかのように二度も繰り返し、わたしはようやく見かけだけではない、彼女の本質というものへ触れたことに気がついたのでございます。




 ロザリーとのお茶会は、有り体に言えば質素なものでございました。


 入学した頃に味わった紅茶の温かみはなく、茶卓ティーテーブルに並べられた宝石のようなお茶菓子もなく。


 ですが、値踏みをするような視線や、話題に乏しいわたしから何かを引き出そうとするような強引さもなく。


 ただただ、針子時計のコチコチとした音が蓄音機で流れる音楽のように感じるほど、穏やかでひっそりとした時間でございました。


 そのお茶会でわたしはロザリーと訥々と言葉を交わし、たくさんのことを教えてもらったのです。


「不思議の国のアリスを知っている? わたしのお祖父様のお友達が書かれたお話でね、その物語ではアリスはうさぎと帽子屋とやまねこと、永遠に続くお茶会をするのよ」


 今でこそわたしもアリスを知っておりますが、当時のわたしは英国の文学をそれほど嗜んでいたわけではございません。


 ロザリーの話すアリスのお話は、お伽草子のように不思議の出来事にありふれたもので、すっかり話を聞き終えた後にはいつか読んでみたいと、アリスの魅力に魅せられていたくらいでございます。


 そのアリスを発端に、わたしとロザリーの夜半のお茶会はお互いの好きな本の話を教えあうというものとなりました。


 わたしが話すものは、主にお伽草子に始まり、源氏物語、竹取物語など。近年発刊された文藝雑誌の内容は、まだ覚えていられるほど読みこんでおりませんでしたので、子供の頃より馴染み深いものが中心となりました。


 対するロザリーは不思議の国のアリスからはじまり、マザーグースの詩をいくつも諳んじましたし、シェイクスピアの四大悲劇の情緒的な感想を述べ、彼女の祖国ではシャーロック・ホームズという探偵を主人公にした読み物が流行っていることも教えてくれたものです。


 毎夜、わたしたちは冷めた紅茶と、時にはロザリーがくすねてきたお茶菓子、あるいは寄宿学校の厨房にいる女中と仲良くなって貰い受けたというおやつを添えて、寮監様に気づかれないようにおしゃべりを重ねました。


 そのうち夜だけではなく、寄宿学校での授業が終われば、わたしたちは手を取り合ってお茶会に誘ってくれる同級の少女たちの目をくぐり抜け、祖国の古書店よりも蔵書が少ないだろう図書館で読書をするようになります。銘々、本を手に取り、じっくりと読んで、その夜には読んだ本について語り合う。話題というものはこうして生まれていくのだと、わたしは生まれてはじめて得た友人に対して、今でも感謝の気持を抱いているほどでございます。




 そんな青春の歓びを知ったわたしに、終末のラッパ、五線譜の楽譜に終止符なるものを打ったのが、約三年越しに送られてきました両親からの手紙でございました。


 両親の手紙には帝国との戦争は祖国の勝利で終結したこと、迎えをやるので帰国すること、帰国しましたら、年頃となりましたわたしに良縁があるので、婚約の支度をはじめる旨がしたためられておりました。


 わたしはそれをそっと、寮の自室の書き物机の引き出しへとしまい込みました。先生方や寮監様には、不備なく退学できますよう手配をすすめていただきましたが、どうしても同室であり、唯一の親友とも呼べるロザリーにだけは、話し出すことができずに日々が流れていきました。


 わたしはもやもやとした気持ちを胸の奥でじゅくじゅくに熟していたのですが、ロザリーは持ち前のその社交性ゆえか、おそらくわたしの不自然さに気がついていたのでしょう。


 ある日の放課、ロザリーがわたしの手をとって導いたのは、いつもの図書館ではなく、入学したての頃によく出入りしていた、中庭にある日当たりの良いあずまやガゼボのひとつでございました。


 いつもなら多くの女生徒で賑わうその場所は、その日は不自然なほど人気がございませんでした。湯気の立つ温かい紅茶が淹れられており、さらにはローズジャムにクロテッドクリームも添えられた焼き立てのスコーンが並べられて、わたしはひどく戸惑いを覚えたものでございます。


「夢から覚めた後の、アリスのお茶会をしませんか。今日は温かい紅茶もあるし、焼き立てのスコーンもあるの。もちろん、わたしの一番好きなローズジャムとクロテッドクリームを添えてね」


 夢から覚めた、という言葉はひどくわたしの胸へと突き刺さりました。


 今までが夢のような出来事だったのかと問われれば、本来のわたしからしてみれば、たしかに夢のような日々だったことでしょう。


 わたしはお茶会の席につくと、ロザリーに勧められるまま、スコーンを手に取り、ローズジャムをすくい、口にしました。はじめて味わったローズジャムは、ふっと鼻孔の奥から春の芳醇な甘さを伝え、とても素晴らしい味わいでございました。その上、この特別なローズジャムは、わたしの胸の奥で熟しきっていたものを誘い出してしまったのでございます。


「故郷より手紙が届きました。じきに迎えが来るので、帰国するようにと」


 ひとたび口にしてしまえば、なんとも呆気ないものでございました。


 わたしは寄宿学校を出てしまうけれど、ロザリーにはまだ寄宿学校での生活が続くのです。ただそれだけのこと。


 ロザリーはただいつものように、本の話をする時と変わらない穏やかな声色で、わたしに言葉を贈ってくださいました。


「寂しくなるわ。わたし、あなたのいない生活なんて、もう忘れてしまったもの」

「わたしもです。ロザリー、貴女に出会えてよかった」

「ねぇ、ここを出ても、お手紙は送れるのかしら?」


 お手紙という言葉に、わたしの頬は自然と緩んでしまったものです。


 きっとロザリーは、夜毎に灯して秘密のお茶会を愉しんだあのキャンドルで、わたしに綴るお手紙へとのせる封蝋を熔かしてくれるのでしょう。


 ですがわたしは、悲しいことに、そのお手紙を受け取れる自信はなかったのでございます。


「とても嬉しいですが、お手紙が届く頃には、わたしの名前が変わってしまっていることでしょう」

「それはどういう意味なのかしら」

「結婚するのです。この海の向こうにある祖国にはまだ見ぬ婚約者がいるようで、わたしは帰国後、お相手方のお家に入ることになるでしょうから」


 お手紙では相手の方のお名前は書いてありませんでしたので、今のわたしにはロザリーに帰国後の所在を教えて差し上げることはできなかったのでございます。


 期待させることこそ悪だと思い、そう伝えましたけれども、ロザリーはなかなかに諦めが悪く、また前向きな思考の持ち主でしたので。


「それなら、落ち着いたらお手紙を頂戴ね。あなたが教えてくれたゲンジモノガタリを添えてくれると、もっと嬉しいわ」


 それであれば、わたしの消息が分からなくとも、後からロザリーに伝えることは可能でありました。ですのでわたしも良案であると、ロザリーと約束を交わしたのでございます。


「きっとお手紙を送ります」

「待っているわ、わたしの大切な親友My best friend。今日までの日々を決して忘れない」

「わたしも。あなたが一番贅沢で美味しいと言っていたローズジャムとクロテッドクリームのことだって」

「まぁ」


 その時のロザリーの笑顔は、まるで凛と咲く純白の薔薇のように大層可憐で、今もなお、昨日のことのように思い出されるものでございます。


 その日の放課は中庭のあずまやガゼボを貸しきり、温かい紅茶の香りをくゆらせて、華やかなローズジャムと上品なクロテッドクリームを添えたスコーンで、最初で最後の贅沢なお茶会をいたしました。


 どうしてそのお茶会が最後となったのか。


 別れというものは大変呆気なく、この翌日には祖国からの迎えが来て、わたしは寄宿学校を出ることとなったのです。


 ロザリーはその日、寄宿学校の授業を抜け出して、わたしの見送りに来てくれました。わたしは迎えの者に馬車に乗せられるまで、繰り返し彼女の方を見ては名残惜しく手を振り返したものでございます。


 そうして帰国後、わたしはすぐにロザリーへと手紙をしたためましたが、その手紙の返事が返ってくることは、終ぞ、ございませんでした。



 ✥   ✥   ✥



 わたしの少女時代を喩えるのならば、それはまっこと素朴なスコーンのように、どことなく味気ないものでした。


 そんな味気ない日々を、まるで華やかなジャムと上品なクリームを添えた贅沢な品に変えたのが、留学先で出会いました、ロザリー=スノーフィードという少女でございます。


 ですがわたしの少女時代は最後、贅沢を味わい尽くしてしまったせいか、やはりまた、味気ないものに戻ってしまっておりました。


「ですが、あの頃のわたしがいるからこそ、今のわたしがいるのです。ねぇ、ロザリー?」


 帰国後にお会いした、わたしの婚約者となった方は大変できたお人でございました。口下手でありましたわたしは、三年もの異国生活で自分の意志をはっきりと示せるようになっておりましたので、控えめで楚々とした大和撫子を娶りたいと言われてしまったらどうしようかと悩んでいた日々すら、懐かしく思います。


 その後、わたしたちは恙無く結婚いたしましたが、我が背の君はほんとうに寛大な方でございました。


 時代が変わり、女性のさらなる社会への台頭が始まる頃、わたしが書籍の翻訳の仕事につきたいと話したのを、笑って許してくださるような方だったのですから。


 そんなわたしの手元には今、一冊の本がございます。


 著者・ロザリー=スノーフィード。

 訳・夏目雛菊。


 その一冊の本を抱え、潮風にリボンとレースをあしらいました洋風のコートのすそをはためかせていると、頭上で出航の汽笛がなるのが聞こえてきました。


 これから遥かなる大陸を目指す船が一隻、大海原へと滑り出していくことでしょう。


 わたしはふたたび、船上の人となりました。


 もちろん、わたしの我が儘を笑顔で叶えてくださる素敵な旦那様も隣にいらっしゃって、これから二人で、わたしの青春を探しに英国へと向かうところでございます。


 もう一度、ローズジャムとクロテッドクリームの贅沢を味わうために。

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