薬屋さんが多すぎる
カミオ コージ
(短編No.1)薬屋さんが多すぎる
僕は昔、植物だった。
柔らかな土に根を張り、朝露を吸い、太陽の光を浴びながら、ただそこにいるだけで満ち足りていた。風が吹けば身体が揺れ、世界の静かな調べに耳を澄ます日々。言葉も欲もないその静けさは、どこにも傷がなかった。
けれど、僕はある日、人間になった。
人間の形を与えられ、言葉を覚え、欲を知り、罪というものを知った。言葉は柔らかな根を切り裂き、欲は太陽の光を曇らせた。静かな満足は消え、心には飢えが生まれた。
☆
ヨーコさんに出会ったのは、そんな傷つきやすい人間の世界で、自分の中の「植物だった頃」を取り戻したいとどこかで願っていたからなのかも知れない。
彼女と初めて会ったのは、近くの図書館で行われた植物研究のイベントだった。夏休みの自由研究のための題材を探していた僕は、小学生の息子に付き添って参加していた。一方、彼女は二人の子ども、幼稚園児の女の子と小学生の男の子を連れて参加しており、子どもたち同士が展示されていた球根をきっかけに話し始めたことで、僕たちも自然に会話を交わすようになった。
「最近、庭に花を植えたんです。でも、どうもうまく育たなくて。」
そう話す彼女に、僕はふと答えた。
「植物はね、待ってほしいときがあるんですよ。」
彼女は少し驚いたように笑った。「どうしてそんなこと、わかるんですか?」
僕は植物だったことを言おうか迷ったけれど、言わなかった。それは、笑い話にしておいたほうがいい気がした。
待ってほしいときがある。
それは植物の話ではなく、僕自身の心の声だったのかもしれない。
☆
そんな出会いから1週間ほど経った頃、僕たちは街外れの薬屋さんで偶然出会った。僕が薬を買いに寄ったとき、隣に停めた車から彼女が降りてくるのを見つけたのだ。
「偶然ですね。」
そう声をかけると、彼女は助手席の窓を開け、小さく笑った。後部座席では子どもたちがお菓子を食べながら静かに座っていた。
この薬屋さんの近くにも、最近大きな薬屋さんができていた。
「どうして薬屋さんってこんなに多いんだろう?」僕が言うと、彼女は少し考えてから答えた。
「この世界で生きるすべての人は、何かしらの痛みを抱えているの。」
痛み?
気がついたら名刺を差し出していた。
「僕はカミオカコージと言います。吹けば飛ぶような小さな不動産会社を営んでいます。ダイナミックに土地を動かすんじゃなくて、小さなアパートの管理業務なんかです。何かあればご連絡ください」
彼女は少し驚いた様子だったが、「ありがとうございます。」と言って、僕の名刺を丁寧に財布の中にしまった。
彼女の抱える痛みとは何だろう?数日間、僕はそのことを考えていた。
☆
それから何日かしてヨーコさんから会社のメールに「植物の話を聞かせてもらえませんか」といった連絡が来た。
そのメールには、こんなことが書かれていた。
「庭の花が少しずつ育ち始めたんです。でも、毎日忙しくて、どうしても水やりを忘れてしまうんです。植物のお話をもう少し聞けたら嬉しいです。」
僕たちは駅前の小さな喫茶店で待ち合わせをした。
「すみません、こういう話、聞いてもらえる人があんまりいなくて。」
「なんでも話してください。」僕がそう言うと、彼女は少し迷ったようにしてから、「植物のことをもっと知りたいの」と笑った。
客もまばらな静かな喫茶店。僕たちはヨーコさんが幼稚園に子どもを迎えに行く時間まで話し込んだ。
真正面で見るヨーコさんは、まっすぐな鼻筋に深い瞳を持つ人だった。その瞳には力強さがあったが、それは時折、どこか遠くを見つめているような表情に変わることがあった。肩までの髪は丁寧に手入れされているようで、揺れるたびに光を帯びて見えた。
「夫は市役所勤めで、去年部長に昇進したんです。それからさらに忙しくなって、夜は会合や飲み会、週末も地元の式典や行事でほとんど家にいないんです」
彼女は穏やかにそう話した。声には怒りや不満といった感情はなく、ただ「そういうものなんです」と事実を述べているようだった。
話を聞きたいと言っていた彼女は、その後もずっと自分の話を続けた。夫のこと、子どものこと、庭のこと―彼女は僕のことを尋ねる様子を見せなかった。それが無関心からなのか、ただ自分の話を聞いてほしいだけなのかはわからなかった。それでも、僕は彼女の話を聞いていることが不思議と心地よかった。
「上の子は小学4年生なんですけど、最近ちょっと生意気になってきて。口答えが増えて、急に大人びたことを言うようになったんです」
彼女はそう話しながら、小さく笑った。その笑顔は柔らかかったが、どこか張りつめたようにも見えた。
「下の子は幼稚園児で、よく笑うんです。でもね、笑いながら私をじっと見てるんです。何か私の疲れを見透かされているようで。」
疲れ?
彼女は疲れているのだ。
彼女はそう言ってから少し黙り、カップの縁を指でなぞった。短い沈黙の間、僕は彼女が語らなかったものに耳を傾けようとしたが、結局何もわからなかった。ただ、黙ったままそこに座っていることが、自分の役割なのだと感じていた。
「庭に小さな花壇があって、最近苗をいくつか植えたんです。でも、芽が出たばかりなのに、枯れそうな花もあるの」
それから彼女は、笑みを浮かべながら行った。
「庭の片隅にヒガンバナを植えてあるんです。毎年、この季節になると必ず咲いてくれるんです。水やりを忘れる日もあるのに、ちゃんとあの赤い花をつけてくれるんです。不思議ですよね」
ヨーコさんと話していると、自分の中に微かに残っていた植物の記憶がふっと甦る瞬間がある。風に吹かれ、陽を浴びる葉の揺らめきのような感覚。彼女の言葉や表情に触れるたびに、その記憶がやわらかく芽吹いていく気がした。
「また、お話ししましょう。」
喫茶店を出るとき、彼女はそう言った。
「もちろん。」
☆
それから、僕たちは何度か会った。ランチをしたり、運河沿いの道を歩いたりする中で、彼女はいつもよく話した。夫のこと、子どものこと、庭のこと――話題は尽きなかった。僕が口を挟むことはほとんどなく、彼女が一方的に話し続けることの方が多かった。
不思議だったのは、それを退屈だとか、鬱陶しいと感じることが一度もなかったことだ。むしろ、その時間は妙に安らかだった。彼女の話を聞いている間、僕の中のどこかがふっと静かになるのを感じた。彼女が話す声や、時折見せる遠くを見つめるような仕草――それらが、理由もなく心地よかった。
彼女にある得体の知れない疲れや痛みのようなものに僕は次第に惹かれていった。
関係を持ったのは、それからさらに2週間後のことだ。
ある日の午後、僕たちはランチをしながら珍しくアルコールを飲んだ。僕は黒ビールを、ヨーコさんは白ワインを飲んだ。食事をする間、僕たちはずっと手と手を触れ合っていた。レストランを出てから街外れのホテルに入った。昼間の光がカーテンの隙間から差し込む部屋で、僕たちは3時間のうち2時間をいつものようにいろんなことを話し、1時間を身体を重ねることに使った。
彼女の肌は温かかった。その温もりは、太陽を浴びた植物の葉の裏側のようだった。柔らかく、壊れそうで、それでいて確かに命が宿っている。彼女に触れるたび、僕の中の「植物だった頃」の記憶が静かに蘇った。風に吹かれる葉の感触、土の湿り気、光に満たされる感覚。何も求めず、ただそこに存在していた頃の自分。
「あなたって不思議。」
ヨーコさんが小さく呟いた。
「不思議って?」
「触れられてるのに、触れられてないみたい…違う。触れられてないのに、触れられてるみたい、かな。」
僕は応えなかった。ただ、彼女の髪の香りや、わずかに汗ばんだ肌の匂いが、土の匂いのように感じられていた。僕の中の植物の記憶が、彼女に触れるたびに静かに芽吹いていた。
☆
その日の夜、家のドアを開けた瞬間、息子の声がリビングから聞こえた。
「パパ、お帰り。見て、今日の図工の作品!」
色とりどりの紙が貼られた小さな模型がテーブルに置かれていた。それは家だった。小さな庭には、一本だけ大きな花が植えられていた。
「うまいね。」僕はそう言いながら微笑んだが、声が震えていた。
その花は、真っ赤だった。チリチリとした細い花びらが外側に広がっていて、まるで庭のヒガンバナのように見えた。息子がその花をどんな気持ちで作ったのかはわからない。ただ、それが僕には妙に痛々しく映った。
模型の中にいるのは僕の妻と息子、そして僕だった。でも、そこに描かれた僕は、本当にこの家にいる僕だろうか?
僕はその花に触れようとして、ふと手を止めた。
ヨーコさんに触れたときの温もりを思い出すと、奇妙に罪悪感が揺らいだ。あの瞬間、僕は彼女の孤独を癒したかったのだ。だが、それは彼女の痛みを利用して、自分の罪を償おうとしているのではないか?
「パパ、どうしたの?」息子の声が僕の思考を引き戻した。
僕は笑顔を作りながら、模型の家をじっと見つめた。それは平和そのものだった。僕がいなければ、その家はもっと平和なのではないか――ふとそんな考えが胸をよぎった。
☆
ヨーコさんとはその後も同じホテルに2回行った。その度に僕は植物であった頃の自分を思い出した。
それでも、僕たちの関係は長くは続かなかった。
ある日、ランチのあと、彼女はふいにこんなことを言った。
「最近、友達が大変なことになってて……」
「大変って?」僕が促すと、彼女は少し迷うようにしてから言葉を続けた。
「高校時代の友人なんだけど、不倫が旦那さんにバレて、家庭が滅茶苦茶になっちゃったの。学校でも噂になってるみたいで、子どもが不登校になっちゃったみたいなの……」
彼女はため息をついて、カップを両手で包み込むようにした。
「彼女ね、泣きながら私に話してくれたの。『どうして私はこんなことしちゃったんだろう』って。最初、私はただ相談に乗ってたんだけど……なんだか、聞いてて人ごとだって思えなかったの。」
「人ごとじゃない?」
「うん。」ヨーコさんは視線をカップに落とした。「彼女の気持ち、少しだけわかる気がして怖かった。」
彼女の言葉に応えられず、僕は静かに頷くしかなかった。ヨーコさんの声は静かだったが、その奥にある震えを感じた。その震えは彼女自身の痛みのようでもあり、僕の胸の奥で小さな痛みを呼び覚ますものでもあった。
ヨーコさんの目の奥に宿るその微かな恐れは、僕にも覚えがあるものだった。
それからの数日、ヨーコさんからのメッセージは減っていった。何かが変わったのだとすぐに気づいた。以前は彼女から、短い言葉と共に、庭の花の写真が毎日のように送られてきていた。それがいつの間にか途絶えていた。
僕のほうからメッセージを送ると、しばらくしてから簡潔な返信が届くようになった。「ごめんなさい、忙しくて」「ありがとう、また時間があるときに」
そんなやり取りを重ねるうちに、僕たちの関係が終わりに向かっていることが、痛いほどわかった。
☆
そして我々は久しぶりにランチをすることになった。ヨーコさんから会いたいと言ってきたのだ。
「実はね、コージさんと会った日に、子どもたちが『お母さん、どこ行ってたの?』って聞いてきたことがあったの。」
ヨーコさんが静かにそう言った。
僕は黙ったまま、彼女の言葉を待った。
「罪悪感とかじゃないの。ただ……子どもたちの顔を見ると、あなたと会うことは、これ以上はちょっと難しいかなって思ったの。」
彼女は小さく微笑んだ。その笑みは穏やかだったが、どこか遠くを見つめているようだった。
その言葉の重さが胸に落ちていくのを感じたが、僕には何も言えなかった。ただ、小さく頷くことしかできなかった。
彼女は一度カップに視線を落とし、それからぽつりとつぶやいた。
「庭のヒガンバナ、まだ咲いているんです。」
僕はその言葉を聞きながら、彼女の続きを待った。
「あの花は。草に埋もれても、誰に世話をされなくても咲いている。」
彼女は静かに笑った。その笑みは、ほんの少し寂しさが滲んでいた。
「私も、そんなふうに静かに咲いていられたらと思うんです。」
彼女はそう言って、ふっと目を伏せた。
「ヨーコさんはいつも凛としてるよ」
僕がそう言うと、彼女はかすかに微笑んだが、少しだけ首を振った。
「そうだったらいいんですけどね。」
彼女は静かな声でそう言った。その横顔には、静けさと覚悟が漂っているようだった。
僕は何も言えなかった。ただ、彼女の言葉をそのまま受け止めることしかできなかった。
店を出るとき、彼女は足を止めた。入口のすぐ横にある小さな凹みのようなスペースに立ち、僕に向き直った。
「ごめんなさい。」
ヨーコさんの目には涙が溢れていた。
彼女がそう言ってから僕が一歩近づくと、僕たちは短いキスをした。それは、これまでのすべてに別れを告げるための儀式のようなキスだった。
ヨーコさんが雨の降る中を駐車場に向かう姿を、僕はただ見つめていた。彼女の車が見えなくなるまで、僕はそこから動けなかった。雨の音が静かに響いていた。
☆
その夜、僕はまた息子の模型を手に取ってじっとそれを見つめていた。
「あなた、それ、まだ大事にしてるんだね。」
振り向くと、妻がキッチンから声をかけてきた。エプロン姿のまま、手を軽く拭きながら近づいてくる。
「ああ。」
僕が短く答えると、彼女は椅子に腰を下ろし、模型をそっと手に取った。
「この花、いいね。あまりにも大きすぎるけど、一本あるだけで、庭全体が優しく見える。」
彼女はそう言いながら、根の部分を軽く指先でなぞった。その仕草には、無意識の優しさが滲んでいた。
「そうだな。」
僕は答えながら、彼女の横顔を見た。その穏やかな表情に、ふと胸が詰まるような感覚がした。彼女の言葉や動作からは、優しさや慈しみが自然と感じられた。それは、ヨーコさんが抱えていた疲れや痛みとはまったく対極にあるものだった。
そして僕はヨーコさんの庭に咲くヒガンバナを持った。
妻は模型をテーブルに戻し、微笑みながら言った。
「こういうの、ずっと取っておきたいね。きっといい思い出になるわよ。」
僕はその言葉に答えず、ただ小さく頷いた。妻の声の柔らかさが、心にじわりと染み込んでくるようだった。
☆
僕には頭の中に植物だった頃の記憶が、今ははっきりと蘇っている。誰にも触れられず、風に吹かれて揺れる日々。それは孤独だったけれど、穏やかだった。誰もきづつけず、何も傷つくことのない孤独。
僕は今でも時々、いろんな薬屋さんに行く。本当に薬屋さんが多いのだ。店内を歩き、ただ棚を眺めるだけの日もある。
棚にはいろんな薬が並んでいる。頭痛に、胃痛に、捻挫に、肩こりに――それぞれの痛みに応じた薬が、ずらりと詰め込まれている。
僕は手近な棚から小さな箱を一つ手に取ってみる。「ひどい頭痛にすぐに効く」と書かれた文字をぼんやりと眺めながら、これが誰のための薬なのかを考える。この箱が、誰かの痛みを和らげてくれるのだ。
そして僕はヨーコさんの言葉を思い出す。
「この世界で生きるすべての人は何かしらの痛みを抱えているの。」
僕はヨーコさんの中にあった痛みを、さらに深くするだけだったのではないか。僕はヨーコさんに対しても妻に対してもまた罪を犯しているのではないか?
薬屋さんの灯りはまぶしいほどの蛍光灯だ。けれど、それは痛みを和らげる光ではなく、むしろ人間にある無限の痛みを、白々と照らし出す光のようにも思えた。
そろそろ植物に戻ろうかな、と僕は思う。罪のない世界。柔らかな土に根を張り、風に吹かれ、光を待ちながら、ただ静かにそこにあるのだ。
世界には痛みが多すぎるのだ。薬屋さんが多すぎるように。
薬屋さんが多すぎる カミオ コージ @kozy_kam
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