生誕

 神遊歴977年、菊の花が咲き誇る屋敷でエルフィールは生を受けた。

「閣下!生まれました!元気な女の子です!」

「真か!リリアーナ、よくやった!」

若くして当主になった男、メンケントの歓声は、屋敷中を飛び越え、外壁から50メートル先にある黄色に染まり始めたイチョウの樹に止まる鳥が飛び立つほどであったという。


 若い男だった。まだ20代も始めといった風の、活気に満ちた瞳をした青年だった。

 鍛えあげずとも横に広い肩幅と、引き締まった痩身は、何かの武を修めているのかと思わせるほどに男らしい。しかし、肉の付き方が、あくまで天性の肉体、鍛え上げたものではないことを示していた。


 彼は生まれてきた娘と、その子供を抱きしめた。ようやく、ようやく子供が生まれた。エドラ=ケンタウロス公爵家に子供はいなかった。本当に長らく待望していた、自分の子供。


 愛らしい娘だった。目はまだ開いていなかったし、赤い顔はさながら猿を思わせるものであった。しかし、先程父になったばかりの男は、娘が美人になると直感した。

 それはただの親バカだったかもしれないし、本当に何かが降ってきたのかもしれない。それは、彼本人にすら分からぬことだろう。

 とにもかくにも、男は産まれた娘と、何より産んだリリアーナに向けて、叫ぶかのように告げた。

「名前はエルフィール!そなたの名前は、エルフィール=エドラ=ケンタウロス=ペガサシアだ!」

 女の子とはいえ、エドラ=ケンタウロス公爵家の娘だ。男の子でなかったのは、残念と言えば残念だが。今は子供が無事に生まれたこと、母体が無事だったことを心から祝おう……メンケントは、心底からそう決めた。



 エルフィール=エドラ=ケンタウロス=ペガサシア。神遊歴977年生まれ。エドラ=ケンタウロス公爵の受け持つ領土、ディマルス近隣の領主用の館アルハンデロにて出生。

 エドラ=⁠ケンタウロスを象徴する紫の菊の花が咲き誇る中で生まれた彼女は、王家の威信が失墜している中、希望のように人々には映った。国で2番目に力を持つ貴族であったから、なおのことであろう。

「エルフィール嬢の嫁いだ男は、嵐に晴天を招くがごとく、国に秩序をもたらすであろう。」

当時、ペガシャール王国に限らず世界各地が、大陸の荒廃を嘆いていた。だから、こんな話はどこにでもあったが……それでも、エドラ=ケンタウロス公爵というペガシャール王国屈指の実力者の家に生まれた娘に沸いた噂であり、後世の彼女の活躍が非凡であったことからも、これは『王像降臨』の予兆だったのかもしれない……そう、200年後の史書『ペガシャール帝国の勃興と減衰』に記載されている。


 とにかく、エルフィールは祝福されながら生まれ、育ち……四歳になった。


「ちちうえ、およびで……えと、およびでございますか?」

「……。」

エルフィールは公爵家である。たとえ女、令嬢であろうとも勉学はしなければならない。


 歴史は後でいい、政治も軍学も後回し。最優先題目として足し算引き算と礼儀だけは教えておかなければならない。それが終われば護身用の魔術。……その上で、後回しにしている歴史や政治を、旦那を立てられる程度に覚えさせること。それが、これからエルフィに押し付けられる義務だった。


 とはいえ、四歳は早すぎるのではないか。片言で話すかわいい娘の、たどたどしい話し方に心が揺れる。

「お前に教師をつける。これから勉強しなさい。」

「おべんきょう?」

娘が首を傾げるのを見て、私は渋い顔になった。やはり早すぎるのだろうか?あと一年は待った方がいいのではないか。


「わかりまちした。ちちえうのごきたいにそえるよう、がんばります。」

どこでそんな言葉を覚えてきたのだろう。いや、誰かが話しているのを聞いたのだろうか。娘は俺の返事を、じっと見上げて待っている。ああ、本当にかわいい。

「ああ、頑張れ。期待している。」

そっけない返事しかできない自分が嫌になる。溺愛したい気持ちはあるが、流石に公爵家は敵が多い。トップが娘を溺愛していると知れば、娘を人質に取ろうとする貴族たちが多くなるだろう。


 今でも少なくはないのだ。これ以上エルフィを狙う敵を増やすわけにもいかない。心を鬼にしてでも、娘にはなるべく厳しい態度で接しなければ。

「はい!」

かわいい!……私はいつからこれほど親ばかになったのであろう?慎まなければ、慎まなければ。

 エルフィが部屋を出ていく後姿を惜しいと思いながらも見送る。視線に熱がこもっていないだろうか。愛しさがあふれていないだろうか。ほんのわずかなミスで、エルフィを狙う身の程知らずは増えるのだ。


「閣下、よろしいですか?」

「……オルギュールか。どうした?」

「アグーリオ王太子殿下とエドラ=ラビット公爵の連名で、閣下とエルフィール嬢の呼び出しがかかっております。」

「……早くないか?」

「いえ、決して早くは……申し訳ありません、早いですね。」

持ってくるのは婚約話。四歳の子供に持ってくるのは早すぎるのではないだろうか。


 どうやらオルギュールは『普通の公爵家はその頃には婚約者を決めていてもおかしくありません』と言おうとしたようだが、なぜか意見を翻したようだ。なぜだろうか。

「閣下は本当にエルフィール様がお好きでいらっしゃいますね。」

「……そんなことはない。」

身を切るような思いで吐き出した言葉に、オルギュールは笑った。

「時間がかかりすぎです。他の貴族なら見破られますよ。」

「……善処する。」

全く。こいつは俺の心を逆なでするのが本当に得意だ。とはいえ、事実だし忠言だ。わかっているから余計に質が悪い。


「はぁ。私だけを呼べばいいものを、なぜエルフィールを?」

「閣下の意思を無視してでも、エルフィール様が『うん』と言えば婚約成立ですからな。」

「何も知らぬ子供に婚約の約束をさせようと?……ドクズが。」

クズとは言えまい。立派な戦略だ、そんなこと言われずともわかっている。

 潔癖では生き残れない。……娘の教育を急がなければいけない。貴族たちの言葉を、せめて『父上がいる席でお話しください』と返せる程度までは。


 ……本当に、出来るだろうか。王太子殿下やエドラ=ラビット公爵はかなりのやり手だ。政治家としての手腕はさておき、勢力争いの手腕はずぬけて高い。……そんなことだから国が荒れるのだ。勢力争いがどれだけ上手かろうと政治の手腕がなければ国は衰えるだけではないか。

 一瞬喉元まで上がってきた不満を飲み干すように立ち上がる。よし、大丈夫。大丈夫だ。こうなればやけだ、娘の成長にかけて、ぎりぎりまで時間を稼ごうではないか。

「紙と筆を。」

「ハッ!」

オルギュールがニヤニヤと笑みを浮かべている。思惑が見抜かれているようで気持ち悪い。いや、確実に見抜かれているのだろうが、そういう問題ではない。私の気分の問題だ。

「そのニヤニヤ笑いを引っ込めろ。他の貴族なら首が刎ねられても文句は言えんぞ。」

「他なら、ということは閣下は刎ねないのでしょう?だから問題ありませんよ。」

屁理屈を。しかし、確かにこいつは有能だし、私は「私の着に障ったから」という理由で人を刎ねるつもりもない。私をよく知っているが故の行為だ。文句の言いようもあまりない。


「はぁ。何ヵ月時間を稼げるだろうか。」

私は少々憂鬱な気持ちで筆を執った。




「エルフィール様は非常に勤勉であらせられます、閣下。」

「勤勉?」

「はっ。読み書き計算は、勉強を始めて一年とは思えないほどの速度で学習しております。先日も、私が勉学のために彼女の部屋を訪れたところ、彼女は書庫の神話の本を読んでおりました。」

私は呆然とした。書庫の本に児童向けの本はない。基本的に、小難しい、10歳くらいになった貴族嫡子が学をつけるために読むような本しか置いていないはずだ。

 それを、まだ5歳の私の娘が、読んだ?

「本当なのか?」

「は。……信じたくはないのですが。」

頭の出来が違ったのだろう。私が5歳の時と言えば、勉強したくなくて、教師から逃げ回っていた記憶がある。

「ふむ。娘は優秀だ、と。いいではないか、優秀な女。ただでさえバカみたいな輩がバカみたいに勢力争いを始めているのだ。少しでも交渉材料は多い方がよい。」

「……そうですね。」

私が娘を道具のように扱う発言が出たからだろう。教師役に当てた男が驚いたように目を見開いている。それほど私は親ばかに見えるのだろうか?


 本心を語るなら娘を政略の道具になど使いたくはない。だが、それが出来ない人間に貴族足る資格はない。だからこそ私は、娘を道具のように扱う発言を、意識的に行えなければならない。

 とはいえ、娘が優秀であり、政務を執れるかもしれないというのはいささか以上に問題だ。嫁の貰い手がいなくなる。さすがにそこまで優秀ではないだろうし、そこまで優秀に育てるつもりもないが……どうだろうか。

 夫より優秀な嫁を貰いたがる貴族などいない。……いや、だが親が優秀であれば子供も優秀に生まれる可能性も高い?どうだろうか。

 だが、息子が義娘の傀儡になる可能性があるとなれば……うん、無理だ。

「まぁ、考えても始まるまい。もうよいぞ。」

「は!」

教師が下がる。私は、そっと天井を眺めた。


「娘が幸せになれるなら、私はそれでいいのだが。」

「優秀な女を欲しがる男などいないと……。」

「だよな。」

疑う余地がないから呻いている。あるいは時代が違えば。

「最悪、うちの部下にやればよい。オルギュール、娘は優秀らしい。王都に行くぞ。」

「早くないです?」

「息子より優秀だと思えば、奴らが掌を返す未来が見える。いつ行こうとも構わなくなった。」

「嬉しそうですな。」

わかるか、この野郎。うちはもうエドラの勢力争いに巻き込まれながら生きるのは真っ平なのだ。逃げることは出来ないだろうが、その渦中に娘を放り込むのがこの一度限りなら、それでもいいだろう。


「私は先に行く。後からエルフィとともについて参れ。」

「……承知いたしました。」

エルフィと一緒に王都など向かってみろ。私がエルフィを可愛がらないはずがない。そんな無様を晒すわけにはいかないだろう?


 だが、後から、思ったのだ。今はさておき、この後少なくとも12年間、私はずっと後悔することになった。


 最初からエルフィと一緒に動いていれば、エルフィの行動を制限していれば、あそこまで狂った所業に走らなかったのではないだろうか、と。

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