海風の向こうへ

銀時

第1話 羽田で見た青い空

 スーツケースを足元に置き、さかき真一しんいちは羽田空港のロビーを見渡した。行き交う人々の足音、アナウンスの声、そしてコーヒースタンドから漂う香り――東京の空気を吸い込むのは、これが最後になるかもしれない。


 四十四年間の人生を、この街で過ごしてきた。それなりに成功してきたと思う。仕事は順調で、家庭もあった。けれど、その「それなり」が、いつしか自分を苦しめていた。


 四年前、真一の生活は音を立てて崩れた。子どもができないことが表向きの理由だったが、実際にはもっと根深い問題があった。真一自身、愛したいと願いながら、いつしか妻に対して本当の意味での愛情を感じられなくなっていたのだ。隠し通せるものではなかった。最後に残ったのは、互いに深い溝だけだった。


 それからの一年間、真一は仕事に没頭し、感情を封じ込めた。毎朝の通勤ラッシュに耐え、定型文のメールを打ち、同じような会話を繰り返す。それでいて、心は空虚だった。「こんなものか」と言い聞かせる日々に疲れ果てたとき、たまたまスマートフォンで目にした一枚の写真が、彼の中の何かを揺さぶった。


 沖縄の空と海――群青と翡翠のグラデーションが広がり、どこまでも澄んだ世界。その隣には、さとうきび畑と白い砂浜が続いている。カメラ越しのその風景には、東京で目にするどんな景色よりも深い静けさと力強さが宿っていた。


 ただ、その美しさに目を奪われた。記事のタイトルも内容も、真一にとってはどうでもよかった。写真に映るその世界が、どこか遠い異国のようでありながら、彼を引き寄せる不思議な感覚があったのだ。


 それから数日間、真一の頭からその写真は離れなかった。仕事中も、帰りの電車の中でも、スマホで沖縄の風景を探しては同じような画像に見入る日々が続いた。そしてある日、心に小さな声が響いた。


 「すべてを手放すべきだ」


 東京での生活、仕事、人間関係。すべてを清算し、沖縄に移住することを決めた。

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