水始涸

 水始涸みずはじめてかるる。夏場にあった湿気が無くなり、乾燥が警戒される頃合いになった。空気の清澄はいよいよ極まり、風景の秀麗も極まっていく。

 滲むことのなくなった秋の景色において、最も待望されているものと言えば、月である。今年の中秋の名月は先日だったが、今日は満月。折節の里でも二日連続で月見ができると浮かれた空気が漂っている。無論、私もその一人だ。秋の月が美しいことは周知の事実、秋の区画に住む者の誇りだ。


「でも、折節の里の方が何かを見る時って、基本的に酒を飲む口実では」


 見事な月を見上げていたら、隣から梓くんの無粋な声がした。声色や調子が無粋な訳ではないし、単に思ったことを言っているだけなのだが。


「全員が全員そうだと思っちゃいけないよ、梓くん。中には風雅な心を持った住民だっている。里の外から来た者にだって、ほら、作家先生がいるんだから」

「自分がそうだとは言わないんですね」


 でかでかと「酒」の字が書かれた、信楽焼の狸でもおなじみの徳利を片手に持っている以上、それは言えない文言である。里の住民の多くはこういう徳利を一つは持っていて、花見や月見の際には酒樽から酒を頂戴し、各々で飲むのだ。里に顔馴染みがいる外部の者、葛籠のような者でも、今回はきちんと持ってきている。


「きみも一つくらい持てばいいのに、これ。持ち出すだけで浮かれ気分になれるぜ」

「そうですね、そのうち」

「きみちょっと酔ってるな、普段ならそうほいほい頷かないだろ」

「そんなことないですよ」


 などと言いながら盃を空にしているあたり、梓くんにしては珍しく酔っている。月をよく眺められるのもそうだが、外に出てきて正解だった。夜風が程よく酔いを醒ましてくれるだろう。

 秋分の村の開けた丘陵地には、折節の里の至る所から、多くの住民たちが集っている。敷物を敷いて酒を飲む者、近くにあるお堂や小屋で芸術を嗜む者、屋台を出して一稼ぎする者、屋台を出していても趣味の範囲でやっている者。淡い金の光を注ぐ月の下、いずれも楽しそうに月見の宴というか祭りを楽しんでいる。


「ただいまー、色々売ってて面白かったわ!」


 美しい月と和やかな宴を交互に眺めていたら、出店を見に行っていた面子が戻ってきた。可愛らしい林檎飴を持って帰ってきたアメリだが、何故か鹿のお面も携えている。角まで立派に作り込まれた見事なものだ。誰かが趣味で作ったのだろう。


「ニシキ。宝石嬢に変な影響が出ているぞ」

「何だよ、私がいつでもみょうちきりんな物を買うと思うな。第一その鹿のお面は、アメリが良いと思ったから買ったんだろう」


 アメリについて戻ってくるなり失礼なことを言うのは葛籠だ。片手には満たしてきたのだろう徳利を携えている。あの徳利が空になったら、今度は私が酒を汲みに行く番だ。


「そうよ、ツヅラ。これはアメリが良いと思ったから買ったの。……あれ。アズサ、もう酔っちゃったの?」

「あ。おかえりなさい姉さん。酔ってないですよ。元気です、げーんきっ」

「ダメね。大人しくお水飲んでなさい」


 林檎飴をこちらに預け、竹の水筒を片手に梓くんを介抱するアメリもまた、珍しくお姉さんぶれている。……この林檎飴、齧っても良いだろうか。いや、許可を取らないのは気分が良くないし、やめておこう。


「宝石嬢も甲斐甲斐しくなったものだ。お前はまだ飲めるのか、ニシキ」

「飲めるよ。でも、とりあえずこの林檎飴が片手にいるうちは、大人しく月を眺めていようと思う」

「そうか。飲みたくなったら言ってくれ」

「きみも酔っ払い過ぎないよう気をつけたまえよ」


 おう、と生返事をしつつ腰を下ろした葛籠が、酒を注ぐ小さな音を立てている。葛籠は酒に強い方だし、自分がどれくらい飲めるかも分かっているから、介抱が要るほど飲むことはない。

 残された私は、齧られ小さな欠けを抱いた林檎飴を片手に、月を見上げる。やはり、秋の月は格別だ。春や夏のような滲みは無く、冬のような遠さもない。薄っすらと金色に、煌々と輝いて、その威容を明らかにしている。いにしえの人が団子や最中を食べたくなったのも頷ける形だ。我々も昨日、どちらのお菓子も食べたし、今もどこかの出店が出しているだろう。

 齧られる前には、月に重ねられる丸を保っていただろう林檎飴も、月の光に赤と白を晒している。それから、飴の透明な波打ちも。月に重ねれば逆光で翳るが、月蝕のようだ。ゆっくりと重なりがズレていくところも再現しようと思ったが、途中でひょいっと取られてしまった。元の持ち主が戻ってきたのだ。


「持っててくれてありがとう、ニシキ。あれ、一口も食べなかったの?」

「欠けていたら、きみに怒られるかもしれなかったからねぇ。それに、許しを得ずに食べるのはちょっと」

「あなたのそういうところ、結構好きよ。それはそれとして、美味しかったから食べて」

「じゃあ遠慮なく」


 差し出された紅白に透明の月モドキを、がじりと齧る。案外食べにくいので、現世では工夫がなされた林檎飴も売られているらしいと聞いた。後で調べて、アメリを連れて行ってあげよう。


「うん、美味しい。月の光を浴びせただけあるね」

「そんなもの浴びなくたって美味しいのよ」


 にっこり笑ってアメリも齧るので、林檎飴はすっかり月ではなくなってしまった。天蓋の月も明日から欠け始めるけれど、林檎飴みたいな欠け方はしないだろう。だからどうしたという独り言を零すあたり、私にも結構、酔いが回っているのかもしれなかった。

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