第19話 ああ、綺麗だから好きなんだ

 抱え込んでいたものが一つ解消され、ナギが炭酸を飲もうが髪を湯船につけようが何も言われない個室風呂で過ごした夕方。その勢いで早めの食事と少し贅沢して林檎酒シードルを摂った夜。


 そこから体を覆う疲労感とアルコールの浮き上がるような感覚に逆らうことなく布団に入ったのは、普段の数時間は早い時刻だった。


 だからだろうか。まだ夜更けだというのに、ユキは目を開く。わずかに差し込む月明かりでは、天井に見えるのは闇ばかりで見ていて面白いものでもない。そのまま彼女は目を閉じようとし、ふと隣の部屋が気になった。


 厚紙を幾重にも重ねたような薄いドアの向こうでは、ナギが寝ているはずだ。それが布団なのか、壁に持たれているのか。後者だったら、布団に引きずってやったほうが良いだろうか。


 そんなことを考えながら、ユキはゆっくりとドアを滑らせる。徐々に広がる隙間から見えた先の布団は、薄く広がっているだけで誰もいない。


「ん、起きていたのか」


 刀を抱くようにしながら壁にもたれていたナギから、声を掛けられる。カーテンを開けた窓からこぼれた月光の仄かな色が、彼女の横顔を照らしていた。洗ったばかりの黒髪は月光と混ざり合って艶やかな色となり、どこか物憂げな目は思わず見つめてしまう輝きを放っていた。


 舌打ちをするユキに、ナギは不思議そうに問う。


「ナギの顔を見てなんだそれは」

「別に。ちょっと悔しくなっただけだ」

「そうか」


 一度は頷くも、そうか? と首をひねるナギ。気にするな、と言ってユキは彼女の隣に腰を下ろす。


「お前も目が覚めたのか?」

「ん、少し違うな。ナギは、月を見ながら考えていた」

「考える? 何をだ?」

「それは……色々だな。今日あったこと、昔あったこと。これからあること。布団の中で考えていると、面倒になって最後は寝てしまうから、こうして月を見ている」

「……少し失礼なこと言っていいか」


 いいぞ、と許しを得たユキは、遠慮することなく思ったままを口にする。


「お前に今日明日昨日を想う感性ってあったんだな」

「……それは、だいぶ失礼なやつじゃないか。ナギが同じこと言ったらユキは怒るだろ」

「それは、そうだな。うん、ごめん。ちょっと言い過ぎた。というか、ここで寝ている時はいつもそうしていたのか?」

「いや、今日が初めてだな」

「……謝って損したと思うのは傲慢か?」


 さあな、とナギは言って月へと目を向ける。そうして彼女は、独り言のように続ける。


「一人でいた時は、よくこうしていた。家の中に獣が入り込んでくるかもしれないから、弱いナギは夜明けまで起きていたんだ」

「……落ち着くっていうのは、昔を思い出すってことか?」

「どうだろう。昔のことはそんなに覚えていないな……ああ、けど死にかけた時は覚えている」

「死にかけたって、何があったんだ?」


 軽く聞き返してから、いやそんな風に言って聞くようなことか?と思い直すユキ。語り手のナギ自身が平然と言うものだから、つい大したことではないだろうと思ってしまったが、わざわざ覚えているくらいだから相当な危機だったはずだ。


 息を止めてナギの言葉を待つユキ。ナギは、変わらず気楽な調子で続ける。


「大きな種がある実を食べていたんだが、その時いきなり雷が鳴ったんだ」

「……なあ、それで種が喉に詰まって死にかけたとか言うつもりじゃないよな」

「良くわかったな。ユキは頭がいいんだな」

「お前を知っていたら8割の人はわかるだろ……」

「他には……狼が首に噛みついてきたこともあったな。まあ、それくらいだ」

「いやそっちのほうが大事だろ!? よく生きていたな!?」


 種が喉に詰まったよりも余程衝撃的なエピソードをさらっと言い出すナギに、ユキは深夜だというのに大声を上げてしまう。慌てて口を抑える彼女を、ナギはおかしそうに笑う。


「そんなに驚くようなことか? 山で生きてればそういう奴もいるだろ?」

「いや、いるかもしれないけど……そんな今日の天気みたいに軽く話すことじゃないだろ」

「そう言われてもな……その時のことはよく覚えていないし。どうして生きているのかもよくわからない」

「わからないって……何でだよ」


 ナギは、当時の記憶を絞り出すようにこめかみを押しながら言う。


「噛みついてきた狼を何とか殺したまでは覚えている。けど、いつの間にか倒れて……次に起きたら傷は治っていた。妖精は『水』がどうこう言ってたが……何のことかはわからない」

「妖精が治したのか……?」

「わからん。けど、ナギは生きているんだからいいんじゃないか? こうして月を眺めることも出来る」


 それだけで済ませて良いことでは無いと思うが、当事者のナギがわからない以上ユキに言えることもない。出来ることといえば、無頓着な彼女に溜息をつきながら月を見上げるくらいだ。


「月を見るのが好きなのか?」

「ああ、綺麗だから好きなんだ。ぼんやり光っているのを見ていると、落ち着いた気持ちになる」

「私は……少し不思議な気持ちになる」


 窓から見える月は、落とした皿のように欠片が円を成している。それが当たり前で、不確かな記憶でもそれを見上げていたことは覚えている。なのに、そうではなかったという微妙な違和感が拭いきれない。月は、あのように歪だっただろうか。


「丸い月か? ずっとずっと昔はそうだったらしいな」

「ヒトが生まれる前……だったか」

「観察と計算?するとそうなるらしい。丸い月は、もっと綺麗なんだろうな」

「ああ、そうだ……なんて、見てもいないのに答えるのもおかしいか」


 なら、この違和感も気のせいなのだろうとユキは納得する。深い夢から覚めた直後に現実と夢が曖昧になるようなものだろう。夢が一瞬だけ現実を上書きするが、顔を洗ってしまえば『そんなわけがない』と消えてしまう程度のもの。


 ナギは、ユキの横顔を見ながらつぶやく。


「同じ月を見ても違う気持ちになるんだな」

「それは、そうだろう。傾向はあっても完全に一致するわけじゃない。違う人間なんだから」

「そういうものか。ナギは、明日も頑張ろうって気になるけど、ユキはどうだ?」

「明日『も』か……お前は前向きだな」


 見慣れているようで見慣れていない月を仰ぐユキは、自身の心に問いかける。初めて見上げた月は、不安になるものだった。バラバラの欠片が漂い集まってはいるが繋がっていない。今の自分を見せられているような苛立ちを煽るもの。自分は、水面の月のようだった。


 けれど、今はわかっている。揺らめいてしまえば消えてしまうとしても、月が消えてしまうわけじゃない。あの月も離れてしまっているようで見えない力で繋がっている。だから、自分からそうしない限り放り出されることはない。人の社会で生きるというのは、そういうことのはずだ。


 だから、どうして月が割れているのかは、重要なことじゃない。どうだっていいことだ。大切なのは、そこからどうやって選んでいくのかだ。


 すぐ隣にはナギがいる。答えの出ない自問自答を続ける泥のような夜とはまるで違う。感じるものが違っても、向いてる先は同じだというのが、自分でも意外に思うほどに心を落ち着かせる。


「そうだな……今は、私もそう思いたいな」


 触れ合う肩から伝わるのは熱だけではなく、それを許容できるという繋がりでもあった。


 そうさせてくれるのが、誰のおかげかというのは――堂々と言えるほど子どもでも大人でもないけれど。この囁きはきっと届くだろう。


 何も言わず月を見上げるナギの耳は、頷くように揺れていた。

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