第2話
「まあ、ラファエル様。来て下さって嬉しいわ」
池のほとりに立ち、花の浮かぶ水面を見ていたラファエルが振り返る。
彼は長身を屈め、優雅に会釈をした。
王妃セルピナ・ビューレイが取り巻きの女性たちと別れ、歩いて来る。
「少し庭を歩いて話しませんこと?」
「光栄です。妃殿下」
ラファエルは微笑み、王妃に対して膝を折り、腕を差し出した。
ヴェネトに来てから、優雅な毎日を過ごしながら、ラファエルは王家の茶会やら夜会やらに足しげく通い、期待された、凄まじい外交力を発揮し、すっかりヴェネト王宮に受け入れられていた。
今やラファエル・イーシャは、ヴェネト王宮の華だった。
今までは【シビュラの塔】を起動させ、世界の中心となったヴェネト王国に取り入ろうと、世界中からたった一人の世継ぎの君であるジィナイース・テラに挨拶をしに来る貴族令嬢たちがヴェネト王宮の華だったが、人好かれする明るく温和な雰囲気で、多国語を操り、どんな国の令嬢とも会った瞬間から心を通わせることの出来るラファエルは、今、ヴェネト社交界では一番の話題の中心なのである。
彼の来城を一番喜んでいるのは王妃セルピナであり、これも異例のことだったが、王妃の意志で、ラファエルは夜会では王太子ジィナイースの側にいるよう命じられ、挨拶に来る令嬢達をエスコートし、通訳や、王太子との会話が上手く弾むような助けをする、そういう働きを求められた。
ラファエルにとっては、気張る必要すらない、まさに自分の為にあるような役目だったので、彼は難なくこの使命を果たして見せた。
王太子ジィナイース・テラは、世継ぎの君としての、義務的な社交性は持っているが、彼個人としては決して、ラファエルのように人との触れ合いや、やり取りを好み楽しむ性格をしていないらしく、どちらかというと内向的なタチだった。
その為、令嬢の緊張を和らげ、二人が話しやすいような話題を探りつつ、王太子との会話に繋げるラファエルの存在は、夜会を苦手としていたジィナイースが今までよりも明らかに、様々な人間と会話をし、社交界というものを学べているようだ、と王妃は喜んでいるのである。
今や、王妃セルピナは「ラファエル殿を我が国の外務大臣にしたいほど」と冗談めかしながらも公言するほどで、誰の目にも王妃の、このフランス総司令官への親愛ぶりは明らかだった。
ちなみにラファエルは、母国でも年上の女性に大層気に入られることは珍しくないので、正直な所、自分の今の状況にも、さほどの驚きも無かった。
彼の副官のアルシャンドレ・ルゴーだけは、悲観的な性格が災いして、あまりにも上手く行き過ぎの何もかもに、「これは何か悪いことの前触れだ……そうに違いない……」と見えないものに怯えてよく分からない何かに毎日警戒をしていたが、楽観的なラファエルは彼を見ていてとても面白いので好きにさせている。
ラファエルから言わせてもらえば【シビュラの塔】は確かに人知を超えた古代兵器かもしれないが、ヴェネトの人間は自分たちと同じ人間だ、ということである。
別に不思議なことは何もない。
「この前の夜会はとても月が美しゅうございましたね。ついラファエル様を引き留めてしまいましたけれど。館の方が心配なさらなかったでしょうか」
「とんでもない。うちの館の者は、私には放任なんです」
「まあ。信じられませんわ」
「……妃殿下には、お気に障るかもしれませんが」
ラファエルは穏やかにそう前置きをした。王妃はくす、と笑う。
他国の人間だが、最近は何かと自分の前では媚び諂う人間が多い中で、ラファエル・イーシャは非常に自然体だった。
媚び諂うようなことはなくても、自分や、王太子や、ヴェネトという国を尊重してくれていることがラファエルからは伝わって来るし、そこにいるだけで人の視線を惹き付け、夢中にさせる素質があるのに、決して奢った顔をしない。
「実は、私は波の音が苦手で」
「まあ。そうなのですか?」
「ええ。船に乗ったことがなかったのです。ですから海に憧れは小さい頃からありましたが、ヴェネト王国に来る船では眠れなくて困りました……。海は外から見ると非常に美しいですが、実際海の中に浮かぶと、印象が違うものですね。用意していただいた迎賓館は部屋も庭も美しくて気に入っているのですが、あそこも波の音が豊かに聞こえますから……王宮は波の音が届かず、久しぶりに子供のように眠りました」
ラファエルは苦笑する。
「安易でした」
王妃の笑う声がした。
「何故お笑いになるのです?」
「まあ、何故って。あなた。わたくしは確かにヴェネト王妃ですけれど……だからといって普通の女でもあるんですのよ。わたくしも波の音は苦手なのです」
「そうなのですか?」
ラファエルは思わず聞き返す。
なんだ言っていい話題だったのか。
「ええ。子供の頃は王宮ではなく、離宮の方で過ごしたのです。離宮は四方を海に囲まれていたから、波の中ですわ。嵐の日など、轟音のように波が島に叩きつける音がして、恐ろしくて。……波の音は、幼く無力だった子供の頃を思い出すから、今も好きになれませんわ」
「そうでしたか。いや……ヴェネト王国に住まわせていただいておきながら波の音が苦手などというのも失礼だと思い、黙っていたのですが」
「そんなことはありませんわ。言って下さればもう少し場所は考えましたのよ」
「いえ。とんでもない。住み慣れて来た我が家で、素晴らしい迎賓館だと本当に思っています。波の音も、大分慣れてきましたし、御心配には及びません」
「この間使っていただいた王宮のお部屋は、ラファエル様の為にこれからも整えておきましょう。好きな時に泊まりに来てください。ぐっすり、眠りたい時に」
王妃はそんな風に言った。
王宮に私室を用意されるなんて、どんな賓客扱いだよ。
このひと結構真剣に俺のこと好きなんじゃないかなあ、などと暢気に考えつつ、ラファエルは今度いつか本当に泊ってやろうと思っていた。この大胆さが、細心の副官を震え上がらせるラファエルの恐ろしさである。彼は遠慮というものを、全く知らなかった。
他所から来た者の中で、今のヴェネト王宮でぐっすり気持ち良く朝まで寝れる人間など、この地上で恐らく彼だけであろう。
だがラファエルの見たところ、王妃セルピナは気位は高いが、気を許した人間には率直であることを求める傾向があった。何もかも膝を折ってみせても、彼女は人間性に退屈し、興味を失う。この、貴方を尊重していますという意思表示と、所々に持ち前の人々を魅了する自由でいて伸びやかな人柄を見せていく匙加減が重要だ。
王妃がここまで言ったのなら、時折泊まりに行かない方が失礼に当たるというものだ。
近々本当にお邪魔しようとラファエルは微笑んだ。
「ありがとうございます。では、ぜひまた月の美しい夜に」
「ええ。ぜひ。残念だわ、私に娘でもいたら、貴方のような方に喜んで引き合わせたかったのですけれど」
おっと。
調子に乗っていたらかなり危険な話が出てきた。これだから油断してはいけない。
以前イアン・エルスバトと話した通りの話題が出て、ラファエルは内心警戒した。
「貴方が城にいてくださればどんなに心強いか。近々、スペイン海軍のイアン・エルスバトを城に呼び、ジィナイースの護衛を頼むつもりですのよ」
ラファエルは青い目を瞬かせた。
意外な名前が出た。
スペインの陽気な知り合いは、ラファエルが目論む必要もなく、初対面の挨拶をする時に王妃に対して遅刻をし、それは不興を買ったと城に出入りするご婦人たちから聞いていた。
(バカな奴だなあ。俺なんか別に何にもしてなくても予定通り王妃に会いに行っただけでこんなに気に入られたのに。何か仕事で重大な不手際があったならともかく謁見に遅刻して嫌われるとは)
嫌われ方が面白かったのでラファエルはぜひ近々イアン君を慰めに行ってあげようと楽しく思っていたのだが、その前提で行くと、今の話は不思議だった。
「殿下の護衛を?」
「ええ……私は、この際社交界の助言役と同じく、ラファエル様に護衛をお任せすればいいと思っていたのですけれど。参謀があの者を推薦して来たのです。まあ、神聖ローマ帝国軍には街の守備を、貴方のフランス海軍にはヴェネト近海の守備をお任せする形になって来たので、それでスペインには王宮の守備を、という話になったようですわ。戦歴は十分だそうですけれど。
ジィナイースは世継ぎの王子ですわ。あの子が自ら剣を持つ必要などないのです。私としてはあまりにも軍人めいた方に、王太子の側にはいて欲しくないのですけれど。
ラファエル様はイアン・エルスバトをご存じ?」
「名は存じ上げております」
にこやかにラファエルは笑った。
「若いのに華やかな戦歴をお持ちの方だと、フランスでも聞き及びました」
「まあ。本当にそうなのですね。会った時はそんな風に見えなかったですけど。陛下のお具合も悪い中、王太子の周囲には信頼出来る方を配置したいのです。ラファエル様がいらっしゃれば、あのスペイン将校のこともそれとなく見ていていただけるかと思って」
「一度彼と話して人となりを見てみます」
「まあ……本当ですか?」
「もちろん。それで両陛下の心配が薄れるならば、喜んで」
「嬉しいわ。貴方は人を見る目がおありになるから。彼が王太子の側に護衛として置いてもいい人間か、見ていただけると安心しますわ」
頷き、また王妃に腕を差し出し、優雅に美しい庭をエスコートしながら、ラファエルは考えていた。
イアンが王宮に呼ばれるなど、青天の霹靂だ。
参謀ロシェル・グヴェンが呼んだと言っていたが、そもそも気に入らない人間を呼び寄せて黙っているこの王妃ではない。
(イアンの奴、俺に何も仕掛けてないよななんて言っておいて、自分はなんか仕掛けたな)
何かあったに違いない。
三国の中で王太子ジィナイースの護衛を任されるというのは、かなり大きな成果だ。
ゆくゆくは王太子の名の下で作られる新しい軍隊の、総指揮官を三国の中から選びたいと、王妃は言っていた。いずれはその人間を軍務の首脳に置き、終結した三国の艦隊などの指揮権を、その人間に一任し、他国の指揮権は徐々に権限を弱めるつもりだろう。
そうなると、今の時期に王太子の警護を任されることは、その役回りに一番近い。
竜の一件で王妃の不興を買った神聖ローマ帝国と、どう考えてもこの王妃の好みではない生真面目で面白みのなさそうな将軍・フェルディナントのことは、ラファエルはとっくの昔に脳内にある「忘れ去ってもいい奴」の引き出しに放り込んでいたのだが、イアンも彼の中で大差なかったので、これは意外だった。
(あーんな奴に俺が裏を掻かれたってわけ? 嫌な感じ~。ちょーっとこれは近々、鞭でも持ってイアン君に文句を言いに行った方が良さそうだねえ)
「ラファエル様はこの前もこの庭を見ていらしたわね。お気に召して?」
「ええ。こちらの王宮には美しい庭が幾つもありますが、ここは水路の作りが一番美しい。
水に浮かぶ花を見ていると心が癒されます」
「分かりますわ。わたくしも疲れると、この庭の四阿で休みながら、水の花を眺めますの」
「波の音は苦手ですが、この庭の水音は心が落ち着きます。同じ水でも別なのでしょうか」
「ではいつでも訪ねてこられると良いですわ。貴方には好きな時に来て寛げるよう、整えておきますから。この庭は月の夜もそれは美しいのです。遅くに来られても、泊って行かれれば問題ないでしょう?」
美しい王妃は蠱惑的に微笑んだが、ラファエルはあくまでも紳士的に笑んで、彼女に対して腰を折り、優しく手の甲に唇を触れさせた。
「妃殿下のお心遣いに深く感謝いたします」
「フランスからわざわざ親愛を示す為に我が国に来て下さったのですもの。貴方は王弟殿下のお血筋の方。王族の方なのですわ、ラファエル様。それは言わば、私たちと同じ……。
この地上の選ばれし者たちの一人。特別な扱いを受けて当然の方なのです」
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