#5

「もう少し、待っててくれる?」


 優しそうな女が言う。


「あの子たちがいなくなるまで……」


 女が指差したのは、座の周囲を飛ぶウサギたちだった。

 連中は電波塔時点からさらに加速を続けていた。女子高生の動体視力をもってしても個体が認識できず、白い壁のようにしか見えなくなっている。

 ウサギたちの速度はついに光速に達する。ウサギという肉体は完全に崩壊し、ウサギは真に大きな光の奔流と化す。

 光は座の上空でひとつに集い、祭壇で横たわる女の身体に向けて降下する。

 ウサギだった光は女の身体に入り、ほのかな輝きを残して消失した。

 光が消えたあと、横たわる女の身体にほんの少しだけ熱が戻ったように見えた。


「ありがとう」


 女は立ち上がり、桔梗に向き直る。

 桔梗は相対している女のことを尋ねようとして咳き込んだ。彼女は長らく声を発していなかった。喉が錆びついてしまっている。

 女が近づいてきて、背中をさする。


「無理しないでね」


 咳が落ち着いてきてから、桔梗は女に尋ねる。

 貴女は誰ですか。

 おんぼろの喉から無理やり絞り出した声は、酷く擦れていた。


「私……私は、御巫みかなぎ茉希まき。……ふふ! 名前を教えるの、すごく久しぶり!」

 御巫茉希と名乗った女は、嬉しそうに笑った。

 綺麗というよりは可愛らしい印象だ。神様みたいだと思った数瞬前からイメージが自在に変化していく。

 彼女は時に女神のようであり、時に少女のようでもあった。


「っとと、名前だけじゃダメだよね。私は昔、女子高生だったの。女子高生で、巫女。神様に仕えていた」


 その自己紹介に、桔梗は困惑した。

 神様に仕えていた。巫女。

 彼女を指して神様みたいだと考えたのは単なるたとえ話だ。

 桔梗は、本当に神様がいるとは思っていない。神様は概念で、空想の産物だ。想像上にしかいない、幸と不幸の理由を出力するためのシステムでしかないはず。

 だというのに御巫茉希は、神様が実在しているような口ぶりだった。


「それで、こっちで眠っているのが」


 御巫茉希は、祭壇に横たわる女に視線を送った。

 神代高校の制服を着た小柄な女。呼吸はしていないようだが、死んでいるようにも見えない。

 かろうじて保たれている、といえば適切か。

 死にゆく身体をなんとか繋ぎ止めているような。触れればすぐにでも壊れてしまいそうな儚さを感じる。


長井ながい零路れいる。レールガン女子高生」


 レールガン女子高生。

 聞き覚えのない名称だ、と思った。


「神様だよ」


 御巫茉希の言葉が脳に届くまで三十秒を要した。

 神様だという。長井零路が、レールガン女子高生とやらが神様だと御巫茉希は言っている。

 今にも消えてしまいそうな、明日をも知れない状態の女が、神様だと言う。


 信じられない。

 信じられることがない。

 もしかしたら夢でも見ているのではないか、と桔梗は思い至る。

 あの電波塔からウサギの群れに跳びついて、けれど上空に飛び上がることなんてできなくて。この光景は落下中の自分が見ている、死の直前に見る夢なのだと思いつく。

 いわゆる白日夢というやつだ。

 ウサギの巣を探した先に誰かがいる、という願望充足的な内容がまさしく夢らしい。神様の実在を認めるよりも、遥かに現実味を帯びている。

 あるいは、もう既に桔梗は死んでいて、ここは死後の世界なのだとする。

 天国か、もしくは地獄か。

 御巫茉希という女は、孤独に嫌気が差した彼女が作り出した幻覚である。

 尤もらしい。妥当性がある。


「そうかもしれないね」


 御巫茉希は頷いた。

 心を読んだのか、と驚く気持ちと、自分で生み出した幻なのだから自分の心が分かるのは当たり前だろう、と納得する気持ちが半々にやってくる。


「でも、どれが正しいかを証明する手段はない」


 その通り。


「だから、好きに願えばいいよ」と御巫茉希は微笑んだ。

「死ぬ直前なのかもしれない。死んだあとなのかもしれない。生きてこの場所にたどり着いて、卒業という終わりが迫っているところなのかもしれない。だけど、どれだって同じだよ。何も変わらない。もうすぐ終わるか、終わっているかの些細な違い。なら、貴方が欲しい想いを願えばいいの。……私が叶えてあげる!」


 御巫茉希の提案は、とても魅力的だった。

 だが――何を願うべきなのか。

 自分は何が欲しいのか。

 桔梗は何か、欲しいものがあって旅を始めたのではない。旅に出た切欠は、両親がいなかったというだけで、積極的に両親を探そうとしていたわけでもない。

 家で籠る行動に意義を見出せなかった。それだけだ。

 ウサギを追いかけたのだって、生物を見つけたときの衝動に突き動かされるがまま。明確に理由があったとは言い難い。

 理屈は何もかも後付けで、行動は受動的。無意味なことを避けながら、流されるまま歩いてきた。

 だから、桔梗は言葉が出てこなくなってしまった。

 御巫茉希の言葉に対する答えを、桔梗は持っていなかった。

 時間は刻々と過ぎていく。


「真面目なんだね」


 目の前の女が微笑みかけてきた。

 その笑顔を見た途端、急に身体のこわばりが消えた。

 肉体と思考が緊張状態にあったらしい。

 解された肉体に続き、思考も明瞭になる。


 彼女自身が言ったように、御巫茉希が幻覚か現実かを見定める術はない。

 桔梗は思い直す。

 幻覚かもしれない相手を前に、時間を掛けて悩む必要はなかった。

 気になっていたことを解消するくらいだって問題ないはずだ。

 旅の最中に浮かんでいた疑問が蘇る。


「疑問を解消したい」


 桔梗が口にする前に、御巫茉希は言った。


「うん、いいよ。答えてあげる。私の答えを教えてあげる」


 朗らかに頷いた後、補足するように続ける。


「もしも私があなたの脳が生み出した幻覚なら、私の答えはあなたの答えでもある。もしも私とあなたが別の個体なら、私の答えとあなたの答えは違うかもしれない。同じかもしれない。どちらであるかを証明することはできない。でも、どちらであろうとも結末に差異は生じない」


 結末に差はない。何にしてもこれが最後だ、と宣言される。


「答えてあげる、代わりに……」


 御巫茉希は押鐘桔梗をじっと見つめ、しばし沈黙した。それから桔梗の頬をつつき、にこりと笑いかけた。


「そのあとで。あなたのお話を聞かせてほしいな」


 そして彼女は語り出す。

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