#2
押鐘桔梗は旅をしている。
旅に出たきっかけは二つ。
一つは、突如として記憶を取り戻したことだ。
登校途中。その日も校庭から響いてくる咆哮に日常を感じつつ、桔梗は慣れた通学路を歩いていく。
神代高校は全寮制の学校である。
桔梗のように女子高生――女子型高等生命体へと変じた者たちは、基本的には全員が神代寮に寄宿することとなる。
女子高生とはそういうものと決まっている。
同じような時間帯に同じ通学路を通い、揃って神代高校に向かう。一般常識と基礎学問を修めながらも高等生命体らしい獣性を発揮し、異常事態を引き起こす。
女子高生という集団の一員となって、女子高生としての三年間を過ごす。
桔梗はその一年目。
冬風が冷たさを増す十一月のことだった。
一切の前触れなく、激しい頭痛が桔梗を襲った。
今までの生で味わったことのない強烈な痛み。このままだと倒れる、直感した彼女は急いでその場にうずくまった。
両手で頭を押さえつける。
体感で二十秒ほど経った頃、急速に痛みが引いていった。桔梗は立ち上がり、手を二、三度握り直す。
一瞬とはいえ倒れそうなほどの痛みがあったというのに、不調は完全に消えていた。
良かった、で済ますには異常が過ぎる。
頭痛の原因となりうる要素があっただろうかと記憶を探り、情報を整理しているうちに彼女は気が付いた。
思い出せる情報が増えていたのである。
具体的には女子高生になる前、生まれてから十五年間の記憶。
家族、あるいは友との、楽しかったり辛かったり悲しかったりする思い出の数々。
今まで自分がどこで生まれ、どこでどのように育ってきたかという経歴。
通常何の抵抗もなく引き出せて然るべきそれらが、今まで思い出せない状況であったという事実を、桔梗はここで初めて認識した。
要するに、彼女は記憶喪失でありながら、記憶喪失だという自覚がこれっぽっちもなかったのだ。
周囲の女子高生たちに確認してみると、皆、桔梗が体験したこととまったく同じ内容を口にした。
記憶を失くしていたことに無自覚だった。
どうして自分の過去を忘れていたのか分からない。
症状は、女子高生に共通して発生していたようだった。
ともあれ、記憶の戻った女子高生たちにとって、帰巣本能が指し示す先は高校の寮ではなく生まれ育った自宅である。
女子高生は下校を始めた。
桔梗の属する一年生だけではない。二年、三年と寮暮らしをしてきた女子高生たちも、本来の居場所を思い出したとばかりに下校していく。
全女子高生たちが一斉に、放課後のチャイムを待たず、各々の家に帰り始めた。
桔梗も他の生徒と同様、記憶を頼りに自宅へと帰っていった。
家族はいなかった。
これが旅に出たきっかけの二つ目。
女子高生になる前――まだ一年も経っていない――は父と母で三人暮らしをしていた。兄弟姉妹はいない。両親はどちらも同級生の親と比べて高齢ではあったが、煙草も酒もやらず、健康そのものといった具合で暮らしていた。
女子寮に入ってからの期間で劇的に生活が変わっているとも考えづらく、どうせ夫婦水入らず穏やかに過ごしているだろうと想像していた。
桔梗が自宅にたどり着いたとき、父親も母親も不在だった。
女子高生になる前の生活が続いているとすれば、仕事からは帰っている時間だったから、別件で外出しているのかと思った。買い物か、外食か。もしくは趣味の散歩かもしれない。
加齢に伴い、両親が外に出る機会は少なくなっていたが、まったく出掛けないというほどではなかった。
外出自体にそう違和感はない。待っていればそのうち戻ってくるだろう。
……しかし。
冷静な自分が、その考えを即座に否定した。
家に着くまでの四日間。自動運転の電車やバスを乗り継ぎ、田舎道を歩いてここまで移動してきたが、その道中、人の姿をまったく見かけなかった。
高校から離れたこの土地では、女子高生とすれ違うことさえもない。
周囲は無人。
なのに、桔梗の両親だけが記憶通りの日々を続けているなんて、都合の良すぎる幻想だ。
家の隅々まで見て回る。
居間のテーブルには飲みかけのコーヒーが入ったカップ、置き去りにされた文庫本と、出しっぱなしの血圧計。台所の食器洗い乾燥機には、洗浄済みの食器が入れられたままになっている。
シンクは完全に乾いており、少なくとも数日は使われていなさそうだった。
洗面所と風呂場には乾燥しきった洗濯物が干してある。
生活の跡は残っている、のに、人がいない。
まるで、いきなり人間だけが消失してしまったかのよう。
桔梗はソファーに腰かけて、深呼吸をする。家に残された品々を眺めながら、不在の両親について思う。
どこにいったのか、何が起きたのか、どうしてしまったのか。
考えるだけ考えて、何も分からないことを理解する。
思えば、分からないことだらけだった。
自分が記憶を失っていた原因も。
突如として記憶を取り戻した理由も。
どうして桔梗の両親が、人間がいなくなっているのか。
それらの事項に関係性はあるのか。
桔梗には何も分からない。
考察するための情報が、何一つとして手元にない。
いつの間にか日が傾いていた。差し込んできた夕焼けを避けるように体勢を変える。
ソファーに寝転がると、懐かしさが込み上げた。
クッションを腕に抱いて、桔梗は眠りに落ちていった。
翌日になっても両親は戻ってこなかった。戻ってくることはないだろう、と桔梗は判断する。
押し入れからリュックサックを探し当て、冷蔵庫に残っていたペットボトル飲料を入れる。棚の奥から缶詰も回収して、可能な限り詰め込んだ。食料や飲料は多いに越したことはない。
自宅に留まり続けるという選択肢もあるにはあった。
電気水道は生きている。食料の備蓄も充分だ。近くには商店もある。
居着く気になれば、当面の間は何不自由なく過ごせるだろう。
だが、桔梗はそうしなかった。
両親のいない家に留まる意味はない、と思った。
用意を進めながら、十五年を過ごした生家を見やる。年季の入った茶箪笥。毎年正月になると身長を刻んだ柱。
障子の木枠には、家族写真が貼り付けられている。
ある程度の郷愁を感じはするものの、そこまで。住まいと決めるには至らない。
どうやら押鐘桔梗という女子高生は、自分で想像していた以上に場所に縛られない性質だったらしい。
すっかり膨らんだリュックサックを背負う。
玄関の扉を開けて、思い出したばかりの、戻ってきたばかりの家を出る。
彼女は旅に出ることにした。
――それから二年の時が経った。
桔梗は記憶を取り戻し、家族がいなくなったことで旅に出た。二年をかけて、各地を旅して回った。数多の地を巡った。
けれど、どこも同じだった。
どの地域にも人の気配はなく、寂寥たる世界が果てしなく広がっていた。
死んでいた。
終わっていた。
桔梗は物語の終焉を確信した。此処に続きはなく、先はなく、人の生きる未来はない。そう理解するに足るだけの時間が経過した。
そして、現在。
押鐘桔梗はウサギを追いかけている。
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