第2話
『お前にはもう何も無い』
ネーリは押し黙った。
フェルディナントの声は響くけど、同じくらい、あの声も響く。
何故なら、あの人の言う通りになったからだ。
祖父は死んで、自分に何も残さず、兄に全ての遺産を与えた。
だからお前にはもう何も無いと王妃は言った。その通りだ。確かに一緒にはいたのはネーリだが、彼は最後はヴェネト王宮に戻って死んだ。
何かをたくさん残してほしかったわけじゃないけど、こんなにも、一瞬で何もかも無くなるとは思っていなかった。それくらい幼かったからだ。
ネーリが祖父の庇護だけで生きていると、祖父も知っていただろう。それでも、何も残さなかった。王宮にいるのが相応しくないなら、それこそ、どこかの家に預けるなんなり、してくれていたら。……自分は世界でたった独りなんだなんて思わなくても良かった。
でも、王家の管理下に置けるローマの城に戻る以外、一切の援助はしないと王妃が命じたので、ローマに戻らなければ家も、金も、ネーリには何もなかった。
何も持たないままローマに行くより、彼は、何も持たないままヴェネトに残ることを望んだ。本当の孤独から、逃れるためにだ。
誰も一緒にいてくれなくても、ヴェネツィアは、愛着をネーリに持たせてくれる存在だったから。
祖父は自分と一緒にいたが、最後には別れることを選んだのだ。
そう思うしかなかった。
きっと王妃が、あとのことはちゃんとすると考えたのだろう。
自分は王妃に存在を委ねられ、そして王妃はネーリの存在を疎み、拒絶した。そうなることを、祖父は予見しなかったのだと、そう思うしかなかった。
祖父は、在るべき所に戻って、亡くなった。
王妃が何故【ジィナイース】の名に拘るのかは分からないが、会ったことのない兄と、自分は双子だから、多分双子の兄弟の存在が明らかになると、継承において争いごとが起きるから、だから自分を抹消しようとしてるのだと思う。
だから名を奪った。
名を奪われたネーリは、もう何者でもない。
この世に唐突に生まれたから、過去の縁もない。
ネーリもいつか、誰かに会いたいとは思っていた。
でも、自分を愛してくれるというより、必要としてくれる人だ。
ネーリは大きな秘密を抱えている。吹聴したら、命を奪われる秘密だ。これから未来永劫、誰にも話すことは出来ない。だから例え愛した人がいたって、ずっと偽ることになる。
本当の名前さえ、伝えられない。
……不誠実な人間だ。
でも絵は、描きたいものを描けた。絵だけが、自分の真実だ。
自分の絵が好きだと言ってくれる人だけに、自分の本当の気持ちが伝えられる。
そういう人が、自分の絵を愛してくれたら、それは自分を愛してくれたのと同じことだ、と思おうと、ネーリは考えていた。
そういう人たちに絵を贈りながら、過去じゃなく、未来に【ネーリ・バルネチア】という画家がいたと伝えて行けたら、幸せだとは思っていた。
そういう人に、いつかは会って行きたいと思っていたけど。
誰かと恋愛をして、相手の家族に会って、全てを曝け出して生きることなんか、絶対に無いとネーリは思っていた。覚悟をし、諦めた。諦めれば、楽になったからだ。一人でヴェネトを彷徨ってる間も、じっと一人で毛布で包まりながら街の家々に灯る明かりを見た時、羨んだり泣いたり、欲しがったりせずに済んだ。
(あれは、僕には絶対に手に入らないものだ)
諦めて自分から切り離せば、それはただの、ヴェネトの美しい景色の一つになった。
おかげでネーリは、夜に灯る温かい家の灯さえ、愛しく思って絵に描ける。
……フェルディナントは、ずっと昔ネーリがとっくに諦めたものを、真っ直ぐな瞳で与えて来ようとする。
【シビュラの塔】の光が過る。
何故、今、シビュラの塔が発動しないのかは分からない。
そんなにヴェネトにとって憎い敵は大陸にいないからだとネーリ自身は思っている。
三つの国を消滅させ、ヴェネトはフランス・スペイン・神聖ローマ帝国を事実上、属国に置いた。この事実があれば、これ以上の犠牲は必要ないと、王宮が判断してのことだと思っている。
自分の前に開かれた黄金の扉。
それなら双子の兄の前にも必ず開かれるはずだ。ネーリは自分だけが特別だなどと、思えるほど、満たされた人生を歩んで来ては無かった。
自分に出来ることは兄にも出来る。
……怖いのだ。
自分が勝手なことをすれば、【シビュラの塔】はまた輝くかもしれない。
フェルディナントが神聖ローマ帝国の将軍で、大貴族なら、公人過ぎて、きっと王妃はネーリが彼の側にいることを、忌々しいと思うだろう。
知られてはいけない。
離れることを命じられるだろうし、拒めばきっと、また絵の時のように何か警告が来る。
それすら拒んだら。
ネーリにさえ、あれは、予想すらしたことのない、恐ろしい光が走った夜だったのだ。
本能的に、思っていた。
シビュラの塔は優しくて温かく、自分を見守ってくれるものなのだと、本能的にネーリは感じ取っていたのだ。あんな凄まじい、残酷なことをするものだと、少しも思っていなかった。でもその、現実だと思えないような、残酷なことが行われた今、ネーリの心は怯えていた。
(僕が、シビュラの塔の扉を開いてしまった……)
そしてシビュラの塔が輝き、火を噴いた。
もし、神聖ローマ帝国が、失われた三つの国と同じようなことをされたら。
「……ネーリ?」
フェルディナントは気づいた。……震えている。こんな暑い夏の夜なのに、凍えてるみたいだ。
「部屋に戻ろう」
フェルディナントはネーリをそのまま、抱き上げた。彼は腕の中でじっとしている。
騎士館に戻ると、騎士たちが一瞬こちらを見たが、何も聞いたりはせず、慌てて敬礼をした。
「今日はもう休む。お前たちも明日の飛行演習に備えておいてくれ」
フェルディナントはそれだけ言うと、ネーリを抱きかかえたまま二階に上がった。
ネーリのための寝室ではなく、自分の寝室に連れて行く。
寝台にそっと寝かせて、毛布を掛けてやり、フェルディナントはネーリの手を握った。
額に唇で触れる。
「……ネーリ。
俺の言葉がもし信じられないなら、お前に指輪を贈るよ。
俺は誰にも贈ったことがないし、お前以外に贈る気もない。
それで、お前を大切にするとか、
お前と一緒に生きていきたいって意味には、受け取ってもらえないかな」
ネーリのヘリオドールの瞳が、フェルディナントを見つめてくれた。
まだ少しだけ不安げだ。
……それはそうかもしれない。
名門貴族が、十五歳の少年に愛を誓って、誰が本気だとすぐ思うだろう。
でも彼には信じて欲しいと思う。
彼は、物事の真理を見抜く慧眼がある。
それを持つ、画家だ。
だから自分の心も、見抜いて信じて欲しい。
「あんなところで、お前に手を出したことは、反省してる。でも、俺の言ったことは忘れてもらわなくていいし、お前を抱きたかったことは本音だ。お前を愛してる」
ヘリオドールの瞳から、少しだけ不安げな色が消えた。
「……もう一回言って」
フェルディナントは目を瞬かせた。
それからすぐに、空いた方の手で、ネーリの柔らかい頬に触れた。
「愛してるよ」
一つ一つの言葉が、陰りを消していく。
「……フレディ」
「好きだ、ネーリ」
フェルディナントは言葉と共にネーリの唇に、重ねた。
ネーリの手も、フェルディナントの頬にそっと触れて来る。
「お前が好きだ……」
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