海に沈むジグラート12
七海ポルカ
第1話
鐘の音が鳴っている。
よく聞き慣れた、心地いい音色。
そっと瞳を開くと、自分の置いた手の指先に、月明かりが当たっていた。
深夜であることが分かる。
体勢を少し変え、身体を丸めるようにして、眠り直そうと目を閉じ、
ふと、
数秒前に確かに鐘の音を聞いた気がした、と思った。
(どうして、こんな深夜に鐘なんか鳴ったんだろう……?)
まだぼんやりとした頭でそんな風に考えた。
――――【ジィナイース】……――――
ベッドの上で飛び起きる。
涼しい夜風が、窓から入ってきている。
「……――」
ぱち、ぱちと音がした。静かに足を寝台の床に下ろして、窓辺から見下ろすと、駐屯地の中央に焚かれた火が見えた。何人かの見張りが広場に立っているが、穏やかな夜だ。
ネーリはベッドに戻ろうとして、部屋の入り口の扉まで歩いて、そっと開いてみる。
ここは竜騎兵団団長であるフェルディナント個人に与えられた騎士館だ。だからここは彼や彼の客人の為に使われるのが普通だが、フェルディナントは最初から一階には副官などに部屋を与え、他の騎士たちの居住地としても使っていた。
彼は基本的に執務室と寝室の二つがあれば事足りたからである。
深夜ということもあり、館は寝静まっていたが、奥の部屋の扉の下からは明かりが漏れていた。
フェルディナントの執務室だ。
歩き出して、数歩してやめた。
反対側へと歩き出す。
一階に降りるとそこは夜勤の騎士が数人いつもいる。
ネーリが姿を見せると、すでに随分仲良くなった彼らが、おや、という顔をした。
「ネーリ様。どうしましたか?」
「あの……ちょっと目が覚めてしまって……夜風に当たって来てもいいですか?」
ああ、と騎士は穏やかに笑う。
彼らはここでは、ネーリの自由を奪う権限は与えられていない。
「今日は風が涼しいですからね」
騎士館を出ると、ネーリは歩き出した。騎士館の隣にある倉庫は、フェリックスの待機場所だ。だが、彼は外にいる方が好きらしく、いつも倉庫の前の樹の木陰で休んでいる。
今も、そこにいた。
瞳が開いている。
「君も眠くないの?」
静かに呼びかけてネーリは側に腰を下ろした。大きな体に寄り掛かる。
竜というのは、大変皮膚が固いので、体温なんて伝わってこないのかと思ったが、こうやって寄り掛かると意外なほど温かい。剣や弓を弾くほどの外皮を通して、ここまで熱が伝わって来るということは、逆に相当体温が普段から高いのではないかと思う。だとすると暑いのは苦手なのだろうか? それとも普段から体温が高いから、熱さに対する耐性が高いのか、どうなんだろう。
まだネーリには竜は謎めいた存在だった。そしてそれが理由で、とても魅力的に見える。
本当に不思議な生き物だった。神聖ローマ帝国にしか生息しない、まさに生きる伝説である。
両脚を伸ばした。
「竜って約二年間も卵の中で過ごすんだってフレディが言ってたよね。卵の中でも段々と、外の音が聞こえるようになるのかなあ。二年もずっと音の世界だけで……退屈じゃなかった?」
フェリックスは穏やかな気配でそこにいる。
「そんなに長い間音だけ聞いてたら、あの音は何だろうこの音は何だろうってそれは、気になって好奇心旺盛になるよね」
竜の聴力は人間の何倍も優れていると聞いた。
「……ね、さっき何も、聞こえなかったよね……?」
フェリックスの顔を振り返って聞いてみたが、彼はゆっくり瞬きをしている。
そうだよね。
ネーリは小さく息をつく。
気のせいだ。
思い込もうとする。
(僕はもう、【ジィナイース】じゃない。だからもう誰も僕をその名では呼ばない)
呼ぶ人はこの世界にはもう一人もいないのだ。
「君たちは何百年も生きる個体もいるって言ってた。もしかしたら、【シビュラの塔】がいつからあるのか、知ってる子もいるのかな……」
しばらくフェリックスに凭れかかって目を閉じていると、それまで葉に留まった蝶のように静かだったフェリックスが少し身じろいだ。気付いて瞳を開くと、首を上げている。
何だろうと思うと、足音がして、数秒後現われたのはフェルディナントだった。上着を着てないが、まだ勤務中の格好だ。ただ、解いたスカーフを、首に掛けているのであらかた仕事は終わったのだろう。少し風に当たりに来たという感じだったが、フェリックスの側にネーリがいると思っていなかったのか、一瞬驚いて足が止まった。
騎士館の中にいた騎士たちは、特にネーリのことは言わなかったらしい。
「ネーリ。……どうしたんだこんな夜中に……眠れないのか?」
「眠ってたけど、目が覚めちゃって。少し外を歩きたくなったから」
少し心配そうな顔を見せたが、ネーリがそう言うと彼は「ああ」と表情を和らげる。
ネーリはフェリックスの顔を見上げた。
「いま、フレディが来る前にフェリックスが気付いてた。フレディの気配が分かるんだね」
フェルディナントが、フェリックスの首のあたりを押さえてやる。
「嬉しそうに首を上げてたよ」
本当にフェルディナントが好きなんだなあと思っていると、見上げたそのまま、彼と目が合った。フェルディナントの顔に感情が出る。
今朝のことがすぐに、脳裏に蘇ったのだ。
街道脇に着地したフェリックスからネーリを抱えるように降ろすと、フェルディナントはそのまま草の上に横たえ、覆い被さった。夢中で口づけながら彼の身体を探っていると、しばらくして鐘の音が聞こえてきた。
いつの間にか朝陽が射し込んでいて、身を起こすと、シャツが大きく乱れたネーリが、フェルディナントを見上げていて、彼はすぐに「すまない」と口にしていた。
今日一日、明日の飛行演習再開に備えて竜の状態を確認したり、ルートなどを確認したり、【有翼旅団】について、全騎士にくれぐれも内密のことにしろと命じながらもこれを捜索する、と王宮からの命令を伝えたり、例のスペイン駐屯地から持ち込まれた遺体をヴェネトの墓地に埋葬したり、家族に返せる遺品は返したりと、これでも色んなことがあったのだが、一応の全ての仕事を終え記録を書いていると、ふとした瞬間に、あの時のネーリの表情が思い出されて、羽根ペンを握る手が何度も止まった。
あの時のネーリの表情……。
(ひどく、美しかったな……)
フェルディナントが「すまない」と口にした感情が何だったのかと言われると、多分、こんなことをして、という意味で言うのが正しいのだろうが、あれは違った。思わず口に出たのは、身勝手にも自分の欲情に巻き込んで、という懺悔ではなく、こんなところですべきではなかったと、我に返ったからなのだ。こんな美しい人に、こんな道端で、こんなに突然に言い寄るべきではなかったという、条件反射の言葉だった。
フェルディナントは元々出世を優先としていたので、恋愛をさほど人生において重視してこなかった。彼は貴族だったので、エルスタルが存在した時は、然るべき時に然るべき相手に会うだろうと考えていたからだ。同じ、貴族だからという理由で、要するに恋愛感情は脇に置いて、女性と付き合うことはあった。経験は少なかったが、彼は別に女を全く知らないわけではない。だがその時々で見せる女性の表情は、自分に対して戸惑ったり、悲しそうだったり、怒っていたりして、かなり悪い印象の方が多い。
フェルディナントは、触れるまでは女性には好ましく思われる。
礼儀正しくて丁重に女性を扱うので、彼女達は深い仲になったらもっとそれは特別になって行くのだろうと自然と期待するらしい。
フェルディナントは、逆だった。触れるようになると、より慎重になり、陰に籠るようになる。何故もっと愛してくれないのかと言われて、恋愛にもちゃんと線引きをしたいんだと答えたことがあった。その時の令嬢は、「冷静に線引き出来る感情なんて、恋愛じゃない」と言って泣いて去って行った。
そんなことはないとフェルディナントは思った。
彼の両親は仲のいい両親ではなかったが、貴族として、色んな夫婦というものは目にして来た。貴族の当主とその妻。彼らの結婚にはきちんとした冷静な線引きがある。その枠組みの中で、夫と妻として、寄り添い合っているのだ。 結婚に求める同じものを、恋愛にだって求められるというのが、フェルディナントの考え方である。その方がずっと自然だ。
好きだと思ったら走り出して行く恋愛なんて、貴族の恋愛の仕方じゃないし、軍人の恋愛の仕方でもない。彼はずっとそう思って生きてきた。
でも今朝の自分は――。
間違いなく感情で走り出していた。
彼自身が軽蔑するような、軽率な生き方。
今まで見た、女性との恋情じみたやり取りの中での、彼女達の不安げだったり批判めいたものだったり、悲しみ、怒りの表情、すべて頭に過ったが、その時のネーリの表情はそのどれも違った。
このままどうなるの? という僅かな驚きは感じたけど、こんなところでやめてほしいとか、自分を非難する感情はどこにも見えなかった。
ただ瞳を開いて、フェルディナントの与える何もかもを、驚きながらも受け入れようとする……ような顔に、彼は見えたのだ。都合よくそう見たわけではなく、そう思うほど、ネーリの心がすぐそこに開かれているのを感じた。
朝陽が射し込まなかったら、一体あそこでどうなっていたのかと自分に自答するくらいだ。赤面する。
(俺はあそこが星のある夜だったら、あのままネーリと……)
あんな場所で抱こうとしていたなんて、失礼だったと本当にそれは反省している。
(いや、ここが神聖ローマ帝国だったら、間違いなく家に連れ帰ったんだ)
でもさすがに駐屯地では気が引くし、かといってネーリが身を寄せるからといって教会で抱くのも気が引ける。あの時の感情はもっと率直にネーリを欲しがったが、理性が働けば働いたで、その辺りは非常に悩んだだろう。
フェルディナントはなんという非礼をしてしまったんだと思うのに、ネーリが鏡みたいな澄んだ瞳で自分を見て来ていたから、戸惑うのだ。
普通の令嬢ならこんなところで押し倒すなんて! と平手打ちが来てもいいはずなのに、あの時のネーリの表情は……。
「……フレディ?」
ハッ、とした。
フェルディナントの真似をしてフェリックスの反対側の首筋に伸ばした手を置いていたネーリが、こちらを見上げている。
「ご、ごめん。ボーっとした」
「……今朝のこと、考えてたの?」
ぐっ、と詰まる。
ネーリの澄んだ瞳は見上げて来る。この目は誤魔化せない。
竜の瞳に似てるのだ。
人間よりも遥かに勝る身体能力と、古代から続いて来た彼らの血族に備わった、大いなる本能。一番最初に竜の前に立つとき、少しでも怯えや偽りを抱えていると、見透かされると言われている。
人間よりも彼らは遥かに勝っている。
その彼らが、騎竜になる意味を、竜騎兵はきちんと理解をしなくてはならない。
身体能力で劣っていても、何かではこの人間には自分に勝るものがある、と理解されなければ、彼らは人を乗せて飛んではくれない。
偽りを許さない、竜の瞳のようだ。
強くて、無垢で、いつだってこちらに誠実と真実を求める。
「……その、……、悪かったなと思って……、あんなところで」
ネーリは瞬きをした。
「いいんだよ。フレディ、団長さんだから駐屯地の家ではああいう風に感情出すの苦手なのも分かるし、僕も棲みつく家を持ってないから……」
理解を示してくれたのは本当に嬉しいが、それは後付けだ。今まで何となくはそういうことは考えていたけれど、正直今朝は、感情だけだった。罪悪感が生まれそうだ。
ネーリはこんなにも自分を信じてくれている。
「……あのねフレディ、ぼくも、ずっと今朝のこと考えてたんだけど……」
ネーリとは日中は会わかなかった。彼も絵を描きながら、筆が止まったのだろうか?
「…………ぼく、フレディが好きだよ」
思わず彼を見下ろした。
「でも、……いいのかなって……、だってフレディは立派な神聖ローマ帝国の将軍さんで、竜騎兵団の団長で、爵位も持ってるんでしょ? だったら、きっと近いうち結婚もしなくちゃいけないし……でも、僕どうしても、フレディが今ヴェネツィアにいるからって、ヴェネトに住む僕と、遊びで、今日みたいなことしたいと思う人じゃ、ないような気がするんだ。でも、フレディ……神聖ローマ帝国の家に来ていいって言ったよね……。あれって、……どういう意味なのかなって……ぼく、フレディが神聖ローマ帝国に来て、絵を描いてくれないかって言ってくれた時、うれしかった」
フェルディナントは驚く。
「ちゃんと、嬉しかったよ。そうしてみたいなとも思った。でも……、……ううん、いいや……。……大したことじゃないから……」
急にネーリは話すのをやめた。
「ネーリ」
フェルディナントはネーリの前に行き、膝をついて彼の手を取る。
「……何か思ったんだろう? お前がそういう顔で、何か思ったなら、きっとすごく大切なことだ。俺はお前には、これでも率直に話してる。自分の考えや、気持ちも。だからお前も、何か俺に対して思ったなら口にしていいんだ」
「……フレディ、僕、今が好きだよ」
ネーリは言った。
「いま、君とこうやって一緒にいられて、話したり、会えたり、……触れられることも嬉しい」
彼の言葉は率直だ。何の偽りもない。だから慎重で、疑い深い性格のフェルディナントは安心する。偽りがないのだ。でも、彼が話すべきではないと抱え込んでいる何かがある。
天真爛漫で大らかな性格のネーリが、時々こうして言葉を彷徨わせる。
だがそれが何かは、まだ全く分からない。
「でも神聖ローマ帝国に行って、それから全てが変わるのは怖いんだ」
フェルディナントはネーリの手に力を込めた。
「今ここで、フレディが任務が終わったから国に帰る、お前を連れて行かないよと言っても、多分僕は頷ける。仕方ないなって思える。……でも神聖ローマ帝国に行って、ある日もう一緒にはいられないって言われたら……それは……怖いんだ」
「どうしてそんなことを考えるんだ?」
フェルディナントは一つの手でネーリの手を握り、もう片方の手で、彼の髪に触れた。
優しく、撫でてやる。
「だってフレディは貴族だよ。僕はただの画家だし、いつかフレディが誰かを選んだ時に、今朝みたいなことあったら、きっとその人も傷つく」
フェルディナントは目を瞬かせて、何と言えばいいのか……という顔をした。
「つまり、俺が神聖ローマ帝国に呼ぶだけお前を呼んで、自分が結婚したら悪いけど邪魔だから出て行ってくれないかと家を追い出すと思ったのか?」
「う……ん、そういう、意味じゃないけど……」
ネーリは困った顔をした。
「……でも僕、今が好きだから、君との今も好きだから、全てが変わってしまうのは嫌だ」
「ネーリ」
フェルディナントはネーリをゆっくり両腕で抱きしめる。
「言っただろ。神聖ローマ帝国に行ったって、お前はなにも変わらないでいい。お前の為に俺の家に美しいアトリエを作るから、そこが気に入ったらずっとそこで絵を描いて欲しいんだ。どこに行ってもいいと言ったのは、お前が束縛されるのを嫌がると思ったから言ったまでだ。神聖ローマ帝国に行っても、ヴェネトにいつでも戻れるようにするし、失ったなんて思わなくていい、そう思ってもらいたいから言った。俺は、『誰か』を選ぶことはないよ」
ネーリは驚いた顔をした。
そうか、そういうことを気にされていたのかとフェルディナントは理解して、小さく息をつく。だが、ネーリの方が確かに正しい。
フェルディナントが将軍で、爵位を持っていて、恋情めいた眼差しを送る画家に家に来ないかと言ったら、普通の場合画家は、性別に関わりなくよしこれで自分がその家の正妻になったとか、全てを手に入れたんだとか、結婚するんだとは絶対に思わないだろう。
確実に愛人であり、妾の立場になる。
勿論フェルディナントには、そんなつもりはなかったけど。
「……ネーリ。俺はお前が好きだ」
抱きしめたまま言った。
「今まで、愛してみようと思って努力した人はいるけど、俺は全部、駄目だったんだ。お前の絵を見た時、胸が震えるくらい、感動した。絵なんか山ほど見て来たはずなのに、俺の記憶には何一つ残ってない。そういう俺が、お前の絵を見た時驚いて立ち尽くしたんだ。
あまりの衝撃に描いた人がどんな人なのか気になって、アトリエに足を運んでた。お前に会った時……、」
一糸まとわぬ姿で、あどけなく自分を見上げて来た時の顔を思い出す。
あの顔もきょとんとしていてとても愛らしかったけど、今朝のはもっと印象に残っている。あの時の顔は、ネーリのフェルディナントへの思いは、全く無かった。当たり前ではあるが。
でも今朝の表情には、彼のフェルディナントへの感情が出ていた。
……多分、『愛情』と言ってしまえるもの。
明らかに欲情めいた手で身体を探られ、熱は目覚め始めているのに、そこにちゃんと、フェルディナントへの愛情があった。だからあんなに、美しい顔に見えたのだと思う。驚きながらも優しかった。
「確かに地位も得たし、爵位も持ってる。貴族には家を継いでいく義務はあることは承知だけど。……俺の場合は遥かに、愛することが出来る人が側にいて、共に生きて行ってくれることが大切なんだ。お前に屋敷に来てほしいと言ったら、お前にしか俺は言わない。 他の『誰か』なんて、選ばないよネーリ」
「でも……ぼく、男だよ。子供は生めない」
「そ、そんなこと承知の上だ!」
ネーリはフェルディナントの腕の中で驚いた。
「承知の上なの?」
「あ、当たり前だ。なんだよ……そのことを、そんな顔で、悩んでいたのか?」
「だって、貴族は、家を継ぐとか、名前を残すとか……重要だって聞いたから……」
「確かに大切だよ。でも、俺は別にいいんだ。戦功を立てて、軍人としての名を、国に残せばいい」
家を色んな努力で相続していく。
歴史を重ねていく。
父と母は不仲なのに寄り添い続けた。
家の為だ。
――そうして努力し続けてきた。
その家の歴史が、一撃で滅ぼされた。
何の理由もなく。
ある日突然。
【エルスタル】にある、数多の名門貴族の歴史も、一瞬で焼き払われた。
あれがこの世の現実なら、愛する者を選ばず、家の繁栄を願って愛のない結婚をすることに、一体何の意味があるんだと思う。
幼い妹が生まれた意味が、フェルディナントの父と母の、まだ失われてない本当の絆と愛の、意味だった。その彼女も、殺されたのだ。きっと【エルスタル】の幸せを継いで広げていくのは彼女だったのに、それも潰された。
だからフェルディナントは、喪失感と絶望の中で、ネーリに会うまでは、いつか誰かを選べばいいんだと、愛に対しては思うようになっていた。狂おしいほど愛してなくても、いつか国にとっての貴族の家、その価値が、相応しい相手を勝手に選んでくれると。
でもヴェネトに来て彼は自分で見つけた。
選びたいものを。
それは、奇跡的なことなのだ。
もう誰も愛せないと思っていたから。
「お前にちゃんと恋をしてる。ただの画家じゃない。お前の絵は俺の心に光を取り戻してくれた。俺にとってお前は妾でも愛人でもないんだ。お前がもし女性なら、とっくに跪いて結婚を申し込んでる」
ネーリは言葉を失った。
「……なんだその顔は……」
フェルディナントが腕の中のネーリの顔に半眼になる。
「今、本当に驚いた顔をしたな?」
「驚くよ。だって……。……家は? フレディにもお母さんがいるって言ってた。その人は、フレディが結婚して、子供が出来て、家を継いでいってくれることを絶対祈ってるはずだよ」
――王妃の顔が過った。
母親は、子の幸せを願うはずだ。……例え、どんな手を使っても。
「いざとなれば、養子でも取ればいい」
フェルディナントは言った。
「いい加減な気持ちで言ってるんじゃない。家を継いでいくことが、母にとってそんなに重要なら、養子を迎えるよ。母の為に。でも俺を救うことはあの人にも出来ないことなんだ。ネーリ。お前にしか無理なんだ」
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