ただ、あとには屍だけを残して
和泉茉樹
第1話 名刀の噂
◆
まだ肌寒さを感じる通りは行き交う人もなかった。
名前もないような小さな集落で、四十戸ほどが肩を寄せ合うように密集している。街道からも広い間道からも離れているため、旅籠など存在しない。僕は適当な家を選んで、なんとか泊めてもらうことができた。
研ぎ師の存在を教えてもらって、日暮れ前に訪ねた。小さすぎる集落では研ぎ師は商売にならないないようで、客はいなかったし、老人が一人で店番をしているようにしか見えなかった。その老人がまさに研ぎ師本人、職人だと知った時はやや驚いたものの、言われてみれば腕は確かそうだった。
翌日には仕上がるという話だったので、翌日の昼前に改めて出かけて行った。
建物に入ると、前日と同じように老人がぼんやりと椅子に座り込んでいたが、僕を見ると目の色が変わった。
「お侍様、仕上がっております」
老人が機敏に立ち上がって奥へ歩いて行った。僕の位置からでも壁に自分の刀が掛けられているのは見えた。
「あの」老人が刀を丁寧に取り上げながらこちらを見ずに言う。「この刀でございまずが、銘が刻んでありました。蛇紋、と」
「そう」
そっけなく返す僕を振り返った老人が怯えた顔つきで話を続けた。
「東の地の、ツヅミ氏という刀鍛冶の一派が打つ刀が、蛇紋の銘を刻まれていると聞きますが……」
「そのツヅミ氏の打った刀です」
僕が柔らかく答えるのに、老人はさらに恐縮したようで静かに僕の前までやってきた。
差し出された刀を受け取り、鞘を払う。
刃は透き通るように美しい。老人の腕は確かだったようだ。
「素晴らしい刀でございます。研がせていただき、ありがとうございます」
刀を鞘に戻し、僕は腰から借りていた刀を鞘ごと抜いて、老人に手渡した。それから代金として銭を十分に手渡した。老人は捧げ持つように受け取った。
「一つ、聞きたいのですが」
こちらから話しかけると、老人がはいと低い声で言った。
「太守のナガカラ様から名刀を下賜された領主がいると聞いたのですが、なんという名前でしたっけ」
「それはクズリバ様でございます」
「本当に太守様が名刀を下賜されたのですか?」
「噂でございます。ここはクズリバ様の領地とは離れておりますから、正確なことは……」
そうですか、と答えて、僕は改めて銭を少しだけ老人に手渡した。それを老人は受け取ろうとしないので、先に考えていた方針のうちの一つを選んで、一晩だけ泊めてもらえないか、と申し出てみた。
老人は、このような狭い家ですから、とか、たいしたものもお出しできませんし、布団のようなものもございませんし、とか、断ろうとするけれど、最後には折れた。
家に上げてもらい、僕は老人に改めて礼を言った。
「無理を言って申し訳ない。どうもこのあたりには追い剝ぎが出たようで、無理な旅はしたくないのです」
「何もないところですから、悪党も旅人から奪うくらいしかできないのです」
老人は何でもないように答えるが、確かに老人の様子を見るとこの店を襲撃したり、老人を襲ったところでたいした稼ぎはないかもしれなかった。
僕がそんなことを考えている時に、やっと老人は思考が追いついたようだ。
「お侍様、その……」
先程までとは別種の怯えの目が僕に向けられる。
それに僕は微笑んで見せた。
「その先は言わないほうがよろしいでしょう」
それだけの言葉で老人は全てを了解したようだった。深く頭を下げ、食事でも用意するのか、土間の隅の竃の方へ行った。
昨日のことだが、この集落へ入る寸前、追い剝ぎが八名ほど、僕を取り囲んできた。
大した銭を持っていない、などと言っても引き下がりそうもなかったので、ある程度の銭を渡して済まそうとした。
ただ、悪党たちは満足せず、僕から全ての銭と刀を奪おうとした。
それが何を意味するかを、彼らは気付けなかったし、気づけなかったからこそうかうかと間合いを詰めてきた。
最初の一人が僕の腕を掴もうとして、逆に腕を取られて投げ捨てられた時にも、彼らには引き下がる機会があった。
しかし彼らは瞬間的に冷静さを失い、刀を抜いた。
愚かしい、と思ったけれど、こうなっては僕もまた愚かになるしかなかった。
悪党の一人が切り掛かってきた時、僕も刀を抜いて、まず一人を切った。
あとは乱戦のようなものだけど、悪党たちにとっては乱戦でも、僕にとっては一対一の連続だった。間合いを加減し、立ち位置を整えていけば、容易に状況を支配できる。
好ましい状況へ誘導すること、それが我が師の教えの一つだ。
悪党は場数は踏んでいたようだけど、斬り合いに関しては大した技量ではなかった。あっという間に八人ともが倒れていた。僕は傷一つ負わなかったし、刀と刀で打ち合う場面もなかった。
悪党たちから銭を掠め取ってもよかったが、これ以上の面倒は御免なのでそのまま放置した。人通りは少なくても数日中に役人に知らせが行くだろうし、噂も広まるのは自明だった。
噂よりも僕は刀の状態が気になっていた。たどり着いた集落に研ぎ師がいたのは偶然とはいえ、幸運に感謝し、刀を研いでもらったという訳だ。
思い返すと様々な想いが頭をよぎる。
ただ、僕が切った相手は切られて当然とは思わない。斬り殺されたくなければ刀を取るな、とも思わなかった。
人間は弱い。刀を持つことで、弱さをある意味では克服できるのだから、刀を持つことには意味がある。
重要なのは、自分の弱さを忘れないことだろう。
老人が何かの用意をしているところで、僕はこっそりとため息を吐いた。
人を切ることに負担がないわけではない。思い出したくなくても、脳裏に自然と浮かんでくる。ため息程度では拭えないものだ。
気持ちを切り替えて、老人から聞いた話を反芻した。クズリバ氏のことを知らないふりをして問いかけたが、実は知っていた。
クズリバという領主が太守ナガカラ氏から名刀を下賜されたのは間違いない。
なんとか一目、その名刀を見てみたいものだ。
ナガカラ氏ならどもかく、クズリバ氏という名の通っていない領主に仕官するのも癪だが、場合によってはそれも悪くないかもしれない。
まずはクズリバ氏の土地へ行くことだ。
老人が器を盆に載せて運んでくるのが見えて、僕は居住まいを正した。
(続く)
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