第18話「宵闇の誘惑──揺れる剣士の覚悟」

昼間の軍議を終えた頃、辺りはすでに夜の帳(とばり)に包まれていた。

緊急報告によると、例の大国が再び兵を動かす兆しがあるらしい。政略結婚を拒んだ王女を取り巻く情勢は混迷を深め、王国の騎士団は引き続き厳戒体制だ。

「やれやれ……厄介なことになってきたな」

執務室に戻り、溜め息をつく。叙勲を辞退したことで少しは楽になるかと思ったが、周辺国の騒動はむしろ激化する一方だ。



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「シチトラ・ハシダ様、第三遊撃部隊のベアトリクス様が面会を希望されています」

そんな声が扉の向こうから聞こえたのは、夜も更け始めた頃だ。

「こんな時間に……?」

素直に驚きながらドアを開ける。廊下には受付の騎士が立っていて、「今、談話室でお待ちです」と小声で告げた。


ベアトリクスが訪ねてくるのは珍しくないが、日中ではなく夜更けにわざわざ呼び出してくるとなると、よほど緊急の用件かもしれない。

「わかった。すぐ行くよ」



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談話室と呼ばれる場所は、騎士団幹部が打ち合わせや休憩をするための部屋。

静かなランプの光がともされ、厚手のカーテンが夜の冷気を遮っている。

扉を開けると、そこには黒いローブを軽く脱ぎ、ソファに腰掛けたベアトリクスの姿があった。

「よく来てくれたわね、シチトラ。ごめんなさい、こんな夜更けに呼び出して……。」

言いながら、ベアトリクスは杖を傍らに置き、視線を伏せる。いつも冷静な彼女が、どこか落ち着かない雰囲気をまとっているのが分かった。


「どうした? 何か特別な報告があるのか? 軍議はもう終わったし、団長からも追加の指示はなかったけど……」

そう問いかけると、ベアトリクスはかすかに唇を噛んで首を振った。

「いいえ、そういうわけじゃないの。……ただ、今後のことを考えたら、もう少しあなたと話しておきたくて。日中だとラニアがいたり、いろんな人が出入りして落ち着かないし。」


ラニアの名前が出た瞬間、やはり二人の間で微妙な感情が動いているのを感じる。

だが、それよりもベアトリクスの瞳には強い決意のようなものが宿っていた。まるで何か“急がねばならない”焦燥があるようにも見える。

「話したいこと……って、何だ? 今後の任務のことなら、また改めて隊長やレオンたちと詰めたほうがいいと思うが……」

「任務の話もいずれ大切だけど、今はあなたとわたしの話……そう言ったら、わかるかしら?」

ベアトリクスは静かに立ち上がると、ゆっくりこちらに歩み寄ってきた。ローブの下の軽装がいつもより透け感のある生地で、夜のランプ越しにかすかな曲線を映し出している。


「……ベアトリクス?」

呼びかける声が上ずったのを自覚する。彼女の表情は普段のクールさこそ保っているが、熱がこもった眼差しで俺を捉えていて、まるでその意志に飲み込まれそうだ。

「昼間見たわ。あなたとラニアのやり取り……あの子は純粋でとてもいい娘だと思う。けれど、わたしもあなたのそばにいたいという気持ちは、同じくらい強いの」


彼女の指先が、そっと俺の胸元をかすめる。心臓がどきりと震えた。

「あなたは今、騎士団長補佐としてさらなる重責を担うことになった。いつまた大きな戦に巻き込まれるかもわからない。この世界に来たあなたを、わたしはずっと見ていて……危なっかしいけど、放っておけないの。あるいは、手放したくないと思ってしまう。」

――“危なっかしい”というより、俺も想定外の昇進に巻き込まれつつある。ベアトリクスはその実情をよく知るがゆえに、何か焦っているのか。


彼女は俺の上着の襟を軽くつまみ、胸元へ顔を近づけてくる。かすかな香りが鼻をくすぐり、その艶めかしさに思わず喉が鳴った。

「あなたは、どう思っているの? わたしのこと……。」

いつになく弱い声音が、耳元を震わす。クールな魔法使いの面影は薄れ、女としての想いを率直に吐露しているのが伝わってきた。


「……ベアトリクス、おれは……。」

言いかけて、どう続ければいいのか分からなくなる。ラニアも大切な存在だ。一方で、ベアトリクスに対しても特別な想いが芽生え始めているのは確かだ。

どちらか一方を選ぶのか、それとも曖昧にするのか――そんな問いを抱えたまま、俺は彼女の視線に釘付けになる。


スッ……

ベアトリクスの手が俺の頬に触れ、まるで誘うように顔を近づけてくる。ためらう気持ちと、ここで拒んではいけないという衝動がせめぎ合う中、俺は自然と彼女の腰をそっと支えていた。

「……ごめんなさい、こんな形で。でも、わたしは後回しにされたくないの。いつまた戦場に出るか分からないし、あなたがどこかで死んでしまうかもしれない。だったら、今……わたしの気持ちを受け止めてほしい。」


切羽詰まったような思い。彼女の瞳に映るのは不安と、俺への情熱だ。

「……わかったよ。おれも……おまえのことが、気になってた。」

その言葉を聞くと、ベアトリクスはほんの少しだけ微笑んで、ゆるやかに身を寄せる。唇と唇が触れ合うまで、息もできないほどの静寂が二人を包んだ。



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淡い口づけから始まった夜は、互いの手探りのようなぎこちなさがありながらも、やがて熱を帯びた。

ベアトリクスの指先が鎧の隙間をまさぐり、俺の胸へ滑り込み、肌の体温を確かめる。そのたびに、火照りと緊張が同居する感覚が背筋を震わせた。

「……こんなふうに、あなたに触れるのって、変な気分。」

「おれだって……いつも鎧を着てるからな……変に照れる。」


ふっと笑い合いながらも、互いの距離は崩れない。むしろ、くっつくように寄り添い、刺激を求め合うように手を動かす。

ベアトリクスが軽装の布をするりと脱ぎ、夜のランプの薄明かりにあらわになる肩を見たとき、俺の喉は思わずごくりと鳴った。普段ローブに包まれた魔法使いの体つきとは思えぬほど、しなやかで女性らしい曲線。


「……じっと見すぎよ。恥ずかしいじゃない……。」

頬を染めながらも、彼女は臆することなく俺の手を導き、自分の体に触れさせる。魔法で鍛えた肌はどこか涼しげで、しかし鼓動は熱を孕んでいた。

「ベアトリクス……大丈夫か? 無理はしてないか?」

「ふふ……大丈夫。これが、わたしの意志よ。あなたのそばにいるって、そういうことでしょ……?」


言葉少なに微笑み合い、唇を重ねる。さっきまで戦略や政略結婚の話をしていたのが嘘みたいだ。どこかで罪悪感が頭をもたげるが、今は彼女の熱に応えてやるのが俺の責務に思えた。

「……据え膳食わぬは男の恥、だろ?」

先に口火を切ったのは俺。戦国ではそんな言葉もあったな……と口走ると、彼女はクスリと笑う。

「あなた、変なところで男らしいのね。じゃあ、遠慮なく味わって……。」


その声に導かれ、俺たちはソファのクッションに体を預ける。手探りの愛撫と、戸惑い混じりの情熱が混ざり合い、夜の時間がゆるりと溶けていく。

ベアトリクスの体は思った以上に柔らかく、肌と肌の触れ合いに心が昂る。魔法を使う指先は繊細に俺の体を這い、普段の戦場では決して感じられない安堵と陶酔を与えてくれる。

互いの吐息が交錯し、衣擦れの音がやけに耳に残る。あまり詳細を言葉にするのも野暮だが、男として、今の彼女を拒む理由はどこにもなかった。


「……あぁ……。」

やがて熱が頂点に近づき、重なった体温が限界まで高まっていく。息苦しいほどの衝動が波のように押し寄せ、俺と彼女は最後の理性を手放すように、深く繋がり合った。



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どのくらい時間が経っただろうか。

余韻に浸りながら、俺は静かにベアトリクスを抱き留める。彼女は乱れた息を整えつつ、俺の胸に耳を当てていた。

「ごめんなさいね、なんだか急に……。でも、こうでもしないと、わたし……怖かったの。」

「怖い……? 何が?」

「あなたが……いずれラニアのほうに行ってしまうかもしれない。それに、また戦場でいつ死ぬとも限らない……。そう思ったら、どうしてもこの想いを形にしたかったの。」


その囁きに胸が締めつけられる。俺自身、ラニアへの気持ちを整理しきれていないし、この先また大きな戦いがあるかもしれない。

「……おれも、同じだ。いつ死ぬか分からねえ。けど、おまえの気持ちは、ちゃんと受け止めるよ。今夜のこと、後悔してない。」

ベアトリクスは安心したように肩の力を抜き、そっと目を閉じる。

「ありがとう。わたしも後悔なんて……ないわ。」


抱き合いながら、静かに体を寄せ合う。

今だけは、騎士団補佐とか大国の侵略とか、そんなややこしいことをすべて忘れたくなる。ベアトリクスの髪に触れ、ほんのり甘い香りを吸い込むと、不思議と心が落ち着いた。

しかし、頭の片隅にはラニアの笑顔も浮かんでしまう。自分がどうするべきか――その選択はまだ先になりそうだ。



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夜が明けきる前、談話室を出る頃には、ベアトリクスがローブを羽織り直していた。夜のひそやかな一幕は、誰にも知られずに消えゆく幻のよう。

「また、明日から忙しくなるわね……。もし何かあったら呼んで。あなたに危険が迫ったら、わたしだって黙っていられない。」

「おう。ありがとう。おれも、おまえが危なくなったら駆けつけるさ。」

そう言葉を交わし、最後に軽く唇を重ねて別れた。彼女の頬はまだ赤みを帯びていたが、クールな表情に戻り、足早に廊下を去っていく。


――そして俺は、一人残された静かな夜の中で、ほんの短いながらも激しい時間を噛みしめる。

(戦場が待っているのに、こんな風に安らぎを得ていいのか……。けど、こうでもしないと折れちまうかもしれないな。)

そう自嘲気味に思いながら、俺は視線を巡らし、扉を静かに閉めた。


この先、再び渦巻く侵略の兆しと、王女政略問題の暗い影――。そしてラニアとベアトリクスとの関係は、よりいっそう複雑になっていくだろう。だが、夜のひとときに交わした想いは、確かに俺の中で力となっていた。

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