第8話 命の際
「抜いては駄目!」
衛兵たちがぎょっとしたように振り向く。普通であれば知らない兵士のすることに口を挟める自分ではない。けれど今はそんな場合ではなかった。
「そこは
「……何?」
「それに意識もない。頭も体も強く打っているはずです。乱暴に動かさないで!」
すべて養父の教えだ。忘れるはずもない。絶対に守らなければならない。
だが衛兵たちには伝わらなかったようだった。
「知ったように何を言う? 下がっていろ、女!」
「でも!」
ジャニが言いつのろうとしたときだった。
「その女の言うとおりにせよ!」
よく
「衛兵ふぜいが医術の心得ある者に口を出すな。そのような暇があるならば、街の医者を増援に呼んでこい!」
「……承りました!」
衛兵の一人が立ち上がろうとしたとき、再び大きな音が響いた。数名がかりで抑えられていた暴れ牛がとうとう人を振り払ったのだ。
階段下の老僧侶が声を上げた。
「殿下! 聖牛を殺しては――」
だがダルシャンは振り返ることなく抜き身の剣を握り、その
ジャニは体を起こし、震える息をつく。ややあって、自分にべったりと血がついているのに気づいた。
――射手の傷からの出血が止まらないのだった。
「父ちゃん! 父ちゃん!」
涙まじりに呼ぶ声。見なくても声の主の見当がついた。
縄の下をくぐり抜け、衛兵の静止を
男児は意識のない射手にすがりつき、わあわあと声を上げて泣き始めた。
……目の前で、愛する父親が死んでいく。
それは、地の底が抜けるような絶望だ。
ジャニもその絶望を知っている。二度と治らぬ傷として、この胸に抱えている。
――心は決まった。やるしかなかった。
「ダルシャン様、衛兵のお二方。応急処置をします。射手の方が万が一にも暴れないよう、両腕両脚を押さえてください」
言ってジャニは、手首の腕飾りに口をつける。五連のうちの一本を歯で噛みちぎり、できた紐で邪魔な髪を結い上げた。
ダルシャンは横たわった射手の脚を無言で押さえる。戸惑っていた衛兵たちも後に続いた。残った一人は医者を呼びに走っていく。
泣いていた男児が不安そうに身を起こした。ジャニは少し考え、男児の目を見て言った。
「みんなと一緒に、お父さんの腕を押さえてください。できますか?」
男児はしばらくじっとジャニの顔を見つめ、それから頷いた。左の腕を押さえようとするが、その構えはどうにも頼りない。そこに浅黒い大きな手が添えられた。いつやってきたのか、バーラヤが加わってくれたのだ。
ジャニは大きく息を吸い、射手の胸の傷に向き合った。刺さった木片はジャニの片手になんとか収まる程度だ。途方もなく大きい傷というわけではない。しかしそれなりに深い。しかも位置が危険だ。
左の手のひらを上向け、そこに炎を灯した。衛兵たちが瞠目する。無視して右手を木片に添えた。一気に引き抜き、間髪入れずに燃える左手で傷を覆い、噴き出す鮮血を押しとどめる。右の手にもすぐ炎を出し、重ねて傷を押さえ込んだ。
激痛に射手が絶叫した。
男児が泣きながら父親の腕に体重をかける。バーラヤがその背中を押さえ込むように抱く。胸がひどく痛んだ。炎が揺らぐ。大きく膨らんで、ジャニの鼻先を舐めた。
(――集中しろ)
自分に言い聞かせる。ダルシャンを助けたときのことを思い出す。あのとき発した炎は木立を駆け抜けて、倒木だけを焼いた。自分の炎は狙ったものだけを焼くことができる。できるはずなのだ。
(閉じろ――閉じろ)
断たれた筋肉を、血管を思い描く。それらを熱で焼き切り、固く閉じる。熱で出血を止めるのだ。
必要なものを焼いてはいけない。この人の命を燃やし切ってはならない。ただ焼くべきものにだけ、五感を統一する。周囲の音が聞こえなくなる。
長い、長い時間のような気がした。けれど、きっと一瞬だった。
指の間に粘つく感触がなくなり、手を放す。
――痛々しい火傷と引き換えではあった。けれど、射手の出血は止まっていた。
「医者を呼んでまいりました!」
衛兵の声がする。白髪の老人が階段を下りてくるのが見えた。
※
医院に運び込まれた射手は再びふつりと意識を失った。ジャニは老医師およびその助手とともに治療に加わった。
状況は芳しくなかった。胸の傷だけでなく骨にも損傷があるとみられる。射手は時折覚醒しては痛みに
月が中天にかかったころ、医師が射手の額に手を当てて眉根を寄せた。
「発熱がひどい。出血は止めねば死んでいたが、いかんせん火傷による消耗も激しいな」
ジャニは唇を噛む。火傷を負わせたのは自分だ。何とかせねばならないと頭を回転させた。
「……グルタクマーリーの
視線が助手へと向かう。若い助手は困りきったように眉を下げた。
「それが……グルタクマーリーの葉、ちょうど切らしてます。カスカサも残り少ないです」
医師が唸った。
「街と群生地の往復は、馬でも朝までかかるぞ。それまでもつか……」
その言葉を聞き、ジャニは外へ飛び出した。暗闇の中、離宮へ走って戻るつもりだった。けれど声をかけられ、思わず足を止めた。
「ジャヤシュリー嬢! いかがした」
「――先生」
バーラヤが油灯を持って歩み寄ってくる。きっと射手の具合を気にして待っていたのだろう。
「私の薬草袋を取りに行こうと……」
するとバーラヤはかぶりを振った。
「なりませぬ。患者のそばで治療をお続けなさい。袋は私が取ってまいりましょう」
そう言い残すや、バーラヤは離宮に向かって走り出す。ジャニはふらふらと膝をつき、その背中に手を合わせた。
「ありがとう、ございます……!」
バーラヤはいくらもせずに戻ってきた。老齢にもかかわらず息ひとつ乱していないのは、さすが熟練の戦士というべきだろう。スヴァスティへの旅路でいっぱいに満たした袋を、ジャニは抱きしめるように受け取る。
「グルタクマーリーとカスカサ、少しならあります。私の先生が持ってきてくださいました。これでもたせて、その間にもっと採ってきてください!」
「おお……! すばらしい」
医師が袋の中を探り始める。助手の顔もぱっと晴れた。
「では、夜に走れる乗り手を探しませんと。先生、心当たりは?」
そのとたん、医師の表情が暗くなった。
「マハンタは今、病気だ。ハリも街を離れている」
「では……」
誰もいない、ということなのか。三人はその場に立ち尽くした。
そこに、迷いのない声が響いた。
「俺が行こう」
ジャニは驚いて振り返る。入口に立つ人影は、冷ややかに細い三日月の光を背にしているせいでよく見えない。けれど一歩医院に踏み入れば、胸に飾られた炎の紋章が油灯の光にきらめいた。
「――ダルシャン殿下!」
「殿下、このような場所においでになられては……血は
助手と医者が揃って狼狽する。ダルシャンは眉をひそめた。
「礼節や
「はっ……!」
医院の二人は額を床に擦りつける。ジャニはダルシャンの顔を見上げた。
「……ダルシャン様」
この人が手伝うと言い出すとは夢にも思わなかった。自分のことにしか興味のない人だとばかり思っていた。よく見てみれば、彼は祭祀のときと同じ服装のままだ。純白の布にはところどころ黒ずんだ血痕がついている。
ダルシャンはジャニを見下ろして目を細める。その黒い光がいつもより柔らかいように見えたのは、気のせいだろうか。
「ヴァージャの駿足を知らぬお前ではあるまい? 任せておけ。夜が明ける前に戻ってやる」
長い指が頬を撫でる。心臓がどきり、と大きく鳴った。乾いた血を拭き取ってくれたのだと、ややあって理解した。
ジャニはダルシャンから目を逸らし、医師の持つ袋の中に手を入れて、目当ての薬草二種を取り出した。
「……こちらがグルタクマーリー。これがカスカサの実です。青い実だけを取ってきてください」
「いいだろう」
ダルシャンは薬草を受け取って
「――どこに生えている?」
「はっ! 街の北、街道をひたすら進んだところに、グルタクマーリーがまとまって生えております。そこから一ナーリカ〔注:約半時間〕ほど行けば、カスカサの花畑がございます」
ダルシャンは頷き、何も言わずに医院を出ていった。
ジャニは戸口に立ち、闇の向こうへ去っていく背を祈るように見送った。
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