第7話 聖河の街

 午後の日差しが和らぎ始めたころ、戦馬車ラタはスヴァスティに到着した。スヴァスティの街は東西ニーラ川によって形づくられる大きな三角州の南端に位置している。その街のさらに最南端、街最大の寺院と土地を分け合うようにして建てられているのが、プラカーシャ王家の離宮である。

 離宮は現在の王宮よりも小さく、この地域の特徴だという薄赤色を帯びた石で築かれている。その内装は水を思わせる青色で統一されており、マハージヴァーラーとはまた違った美観を誇っていた。何より特徴的なのは離宮の南門である。ジャニたちが入ってきた北門は街に面しているのに対し、南門は東西ニーラの合流地点――大いなる聖河ニーラが始まる場所に面しているのだ。河岸を延々と縁どる大階段ガッタのひとつを上ってゆけば、すぐそこに門があるという寸法だ。ジャニにあてがわれた部屋からも、河でみそぎをする人々が大階段に集まっているのがよく見えた。


 荷物を置いたところで、バーラヤが街歩きに誘ってくれた。一人で出歩く勇気はなかったので、ありがたくついていくことにした。

 離宮の門から足を踏み出すや、にぎわいが一面の広がりとなって迫ってきた――少なくともジャニはそう感じた。商人の呼び声、寺院の鐘の音。風に揺れる鮮やかな花輪や旗。色とりどりの服で行き交うたくさんの人々。それらがすべて、薄赤い建物の並びを背景に、止まることなく動き続けている。

 バーラヤの後に続いて歩き始める。北門につながるこの通りは、いくつもの商店が並ぶ場所であるようだった。とにかく人が多くて、バーラヤの背後を外れたらぶつかりそうだった。

「神像、神像はいかがかね。この聖地で作られた手彫りの品だよ」

「採れたてのアムラの実、剥いてさしあげますよ」

「新物の茶だよ。淹れたてだ、寄ってらっしゃい!」

 あちらこちらから売り文句が飛んでくる。街全体が生きていて、にぎやかな音楽を奏でているようだ。どこも珍しいもの、聞き慣れない言葉、知らない匂いばかりで、自分が何人いても足りない気さえする。きょろきょろと辺りを見回しつつ、人混みの中ではぐれないよう必死にバーラヤについていった。

 結局、バーラヤは日が沈むころまで市街を案内してくれたうえ、途中で縁起物だという腕飾りまで買ってくれた。紐を編み込んで作られた五連一束の飾りだ。好きな色のものを選べと言われて戸惑ったが、離宮の内装を思い出し、それに近い青色の束を選んだ。美しく編まれた五本の腕飾りは、するりと手首の周りに収まった。


 考えてみれば「街」といえる場所を歩くのは初めてだった。

 養父と訪れたことがあるのは小さな村ばかり。ダルシャンに連れられて巨大な王都に足を踏み入れはしたが、ずっと王宮の中で過ごしてきた。それ自体、圧倒される体験であったことは疑いない。だがスヴァスティの街は異なる形でジャニを驚嘆させた。

 祭祀ではいったいどんなものが見られるのだろう。純粋に明日が楽しみなのは森を出て初めてのことだった。


  ※


 翌日の夕方近く、ジャニとバーラヤは聖河ニーラの河岸へ赴いた。離宮と寺院との間を貫く通りの南端に、街最大の階段ガッタがある。その階段を下ったところの河面には、南の下流に向かう形で木製の足場が設けられている。そこにはすでに多数の僧侶が集まり、祭祀の準備を整えていた。

聖河せいが拝礼はいれいは日没より始まります。皆、最後の支度に忙しいようですな」

 バーラヤの説明を聞きながら、ジャニは大階段の中ほど、右寄りに設けられた座席に腰を下ろした。中央通路を挟んだ区域は王族関係者のみが着座を許されるのだという。王族のおまけ扱いされることはこの一カ月半で多少呑み込んだが、うしろめたさは決して消えない気がしていた。

 気分を切り替えたくて、周囲の光景を眺める。王族用の区域こそゆったりとしていたが、縄が張られて衛兵が立つ境界線の向こうは、すでに数え切れぬほどの人でひしめきあっていた。人々の話し声や気の早い祈りの声が昂揚したざわめきとなって耳に届く。前を向けば、東西の支流がひとつとなり、大河が海へと流れ出す地点がそこにある。南へと下りゆく河の果てはとても見通せず、目でたどればやがて地平線に消えていく。東西の河岸にも多くの人が集い、さらには川の上にも色鮮やかな小舟が数多浮かんでいる。街全体が祭を心待ちにしていることが伝わってきた。

 もう一度、先ほど下りてきた大階段の上を振り返る。そこには丸太を組み上げた背の高い構造物があった。先ほど通り過ぎたときから気になっていたが、尋ねるいとまがなかったのだ。

「先生、あれは何ですか?」

「あのやぐらも祭祀に使うものです。あの上から火矢を放ち、その飛距離で今年の雨季の恵みを占うのですよ」

 そういえば占いの儀式があると教えてもらった。あれか、と感心して眺める。

「毎年、街で一番の射手が大弓を引くのです。なかなかの見ものですぞ」

 言われてみれば、やぐらのてっぺんには大きな金属製の弓が据え付けられている。ジャニが使う小弓とはまるで比べものにならない大きさだ。あれを引こうと思ったら自分が何人必要だろう。

「拝礼の射手はご幼少時のダルシャン様の憧れでもありましてな。上達してやぐらの上に立つのだと意気込んでおられましたが、スヴァスティ生まれでなければ許されないと聞いてがっかりしておられたものです」

 バーラヤの言葉にジャニは少しだけ微笑んだ。

「ダルシャン様の小さなころをよくご存じなんですね」

「まあ……そうですな。思えばもう長いこと、ご成長を見守らせていただいております。普段はあのように振舞われますが、ひとたび道場に足を踏み入れれば、今も師として敬ってくださる」

 思い返すように語るバーラヤの瞳は、どこか誇らしげだった。

「第二王子様も、先生がご指導を?」

 ジャニが尋ねると、バーラヤはかぶりを振った。

「いえ。以前申したとおり、私の母は奴隷にございます。ゆえに第二王子のアラヴィンダ殿下は――別の師の指導を仰がれましてな。私がダルシャン様とのみ距離が近いように見えるとしたら、それはアラヴィンダ殿下とそもそもあまりご縁がないためです」

「そう、でしたか……」

 尋ねたことが申し訳なくなり、ジャニはうつむく。バーラヤが西の地平線を指さした。

「おお、ご覧なさい。空が朱に染まりだした。もうじき始まりますぞ」


  ※


 日が半分ほど沈み、天が朱と紫の色に覆われたころ。

 空気を震わすような法螺貝ほらがいの音が鳴り渡った。水牛の革を張った太鼓が響き、僧侶たちの持つ燭台型の祭具に次々と赤い火が灯る。それを見計らったように、集まった人々も次々と両手を合わせ、あるいは手元の油灯に火を入れる。

 聖河拝礼の始まりである。


 僧侶たちが朗々と祝福のことばを詠唱し、右回りの円を描くように祭具を回し始めた。数多の灯火がまわるさまは壮観で、ジャニはじっと見入った。

 やがて詠唱が最高潮に達したころ、大階段の上から再び法螺貝ほらがいの音が響いた。振り向けば、そこに見覚えのある姿があった。

 美しい白馬。ヴァージャだ。そしてその背から降りたのは、華やかな服をまとったダルシャンだった。

 人々が一斉に立ち上がり、合掌する。ジャニも慌てて真似をした。

 ダルシャンは僧侶から大きな平皿を受け取り、階段を下り始める。彼が通り過ぎるのに合わせ、人々が橙色や黄色の花びらを撒いた。純白の服に縫い込まれた金糸がいくつもの灯火を撥ね返して輝く。じっと見つめていると、ダルシャンがふとジャニの方に顔を向け、黒い目を細めた。思わずそっぽを向いてしまった。

 階段の下までたどりついたダルシャンは、そのまま僧侶たちの立つ足場へと向かった。最長老と思われる僧侶の前に膝をつき、祝福を受ける。それから再び立ち上がり、足場の先端へと進み出た。彼はそこで平皿を高々と掲げる。その中には色鮮やかな花や果物、そして黄金に輝く油灯が収められていた。

 群衆が再び合掌する。ダルシャンはひざまずき、河面にそっと供物の皿を浮かせた。供物はしばらく水の上を漂い、やがて大河の流れに押されて祈祷の場を離れていく。ダルシャンも立ち上がり、両の手を合わせた。

 僧侶たちの詠唱が再び高らかに響き渡る。街の人々が口々に祈りの言葉を口にする。供物の灯火は少しずつ遠ざかっていく。それを追うように、東西の河岸からいくつもの新たな灯火が流され始めた。ジャニはただ瞠目してそれを見守った。

 ふと、人々の間から歓声が上がった。皆が向きを変えて大階段を仰ぎ、頭上で両手を合わせている。見れば、階段上のやぐらによじ登っていく人影があった。

「今年の射手です」

 バーラヤの囁き声にジャニも目を見張った。

 どうやら齢三十かそこらの男らしい。浅黒い肌が夕日に照らされ、緊張した表情が浮かび上がる。やぐらのてっぺんにたどりついて足場を構えたところで、群衆の中からひときわ高い声が上がった。

「父ちゃん、頑張れ!」

 振り返ると、すぐ近くの境界線から小さな男児が身を乗り出していた。衛兵に押し返されながらも、やぐらの上に向かって手を振り続ける。射手の男もその存在に気づいたらしい。固かった表情が和らいだ。

 決意も新たな顔で、男は聖河の下流を見つめる。大きな矢を拾い上げ、やじりを松明の炎の中に入れた。たちまちやじりが燃え上がる。占いの火矢である。

 男は火矢を大弓につがえ、全身を使って弦を引く。その重さが想像されて、ジャニは息を呑んだ。

 張り詰めた空気を一瞬で裂き、火矢が宙を飛んでいく。高く高く空をき、やがて河の中ほどに落ちた。群衆がわっと歓呼の声を上げる。結果は上々であると見えた。

 ジャニはやぐらの上の男に視線を戻す。彼も安堵の息をついたようだった。


 ――その時、だった。


「暴れ牛! 暴れ牛だ! 逃げろ!」

 突然の絶叫が耳に届く。

 続いて地響きのようなひづめの音が聞こえた。

 次に見えたのは、普通の牛の倍はあろうかという巨大な雄牛が通りを駆け抜けて現れ、やぐらに衝突する姿だった。


 やぐらが大きく揺れる。射手の男が手すりにしがみついた。雄牛は太い角を振りかざし、二度、三度とやぐらにぶつかっていく。止めようとした衛兵が次々に跳ね飛ばされる。階段下のダルシャンが剣を抜いて向かおうとし、僧侶たちに押しとどめられている。

 四度目の衝突で、木の砕ける音が響き渡った。次の瞬間、大きなやぐらは根元から折れ、階段の方へと倒れていった。

 群衆が悲鳴を上げる。朦々もうもうと土埃が上がる。

 ジャニは必死で視界から埃を払い、目を凝らした。

 階段の中ほど、すぐ近くに、射手の男が倒れていた。


 ――その体の下に、赤い血が見えて。

 考えるより先に、ジャニは男の元へと駆けた。

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