風花
@kiraboshiseiya
風花
荒い息遣いが、咽帰る夏の茹だった空気の中に、冷たく混ざり合った。熱を孕んだ風が、庭に植えられた花々の香りを、彼等の鼻腔に纏わりついて、彼等の思考を曖昧なものにしていく。潤んだ瞳は細められ、精一杯口を開いて、呼吸を試みる心臓に手を当てなくても、握った両の掌から伝わる脈拍で、青年の命の動きが分かる。青年の顔は影り、表情はくり抜かれてしまってよく見えない。昔見た型抜きの出店を思い出した。細い目のような形を、爪楊枝より鋭い針で少しずつ慎重に、裂いて、周りの余白を割っていく。小さな少年にくり抜かれた型抜きは見るも無惨な形へと変貌し、元の可愛らしい動物の形は見る影もなく失われてしまった。開いた口、細められた目、それらがあの日の型抜きを想起させるには十分だった。真っ黒な瞳は今何色を宿しているのか、それすらも分からない。ただ呼吸をする丘には水が伝い、それが爪の間へと浸透していく。添えられた手は、無骨で大きく、骨張っていた。華奢な体には不釣り合いなそれと自身の手を見比べる。毛が薄く、光を通して揺れていた。力を尚のこと込めた。次第に青年の喉からは声帯から発せられた空気の振動が音となって部屋中に響いた。汚い濁った声を発する青年の体は指先が震えているのが皮膚から骨を振動させ、またそれが青年の生きている証なのだと思うと、一層腕に力を入れぬ訳がなかった。それは一時間にも一秒にも感じた。不意に手を離す。青年は喉を抑え起き上がると、激しく咳き込み、規則正しく息を整えようと上下に揺れる肩の華奢さに目がいく。ワイシャツから伸びた腕が尚青白く見えるのはきっと気のせいだ。
青年は呼吸を整えると、向かい合うように膝を直した。まだ喉の調子が戻っていないのか、何度も喉から音が鳴っている。筆で一本、瓜に線を引いた青年の瞳からはまだ水が一筋頬の双丘を流れていた。湖水に流れる清らかな水が、山の頂上から流れ出ている。純白のハンカチが目元を彩る。
「急に何かと思えば。本当に貴方はいつも急ですね」
青年は顔を上げた。そこには先程までの涙目で喘いでいた男はいなくなり、清廉な涼しい風を纏った青年が笑っていた。
「ああ、喉に痕がつくかしら」
首を二、三度撫でる。白い首筋に赤い花が大きく咲いている。青年はそれをなぞる様に、確かにあった熱を確かめるように自身の首に触れた。揃えられた爪先に、生ぬるい風が漂って、生者の生臭い呼吸の匂いを、美しい花々が掻き消した。拠り所のない腕は重力に従って頭を垂れ、指の合間に汗が溜まる。輪郭をぼやかすシャツが透けて、青年はまるで幽霊のようにそこに座っていた。
ここには何もない。名物になるものも、象徴するものも、目印になるものも、これと言って何があるわけでもない、どこにでもある田舎街だ。森と、鬱蒼と茂る緑、清らかに流れる川のせせらぎが、この街を支配する音の主だ。電車は二時間に一本程、来ない時間もある、バスは一時間に一本ありこれも来ない時間がある。アスファルトで舗装された暑苦しい風景は涼しげな緑に遮られて影を落とす。蝉の鳴き声さえ聞こえない世界から隔離された場所。遮断機の警報音が耳を劈く。頭蓋骨を力強く叩き、空の真骨に高い音が響き渡る。足元が揺れ、視界が七色に変わったかと思うと、白く明滅を繰り返し、気づけば青年と同じ目線に座っていた。皮膚から感じる畳の凹凸が青々しく、森の香りが花の香りと混ざり合う。芳醇な花々は一層その色を濃くし、緑の未発達な体は茎を伸ばして天を仰ぐ。青年は揃えた足先を緩め、乱れた衣服をそのままにこちらを見た。鋭い口元に湛えた笑みは蠱惑的に歪み、赤黒いものが覗く。白に縁取られて尚発色する生温かさは楽しそうだった。開け放された障子から、お隣さんの声が聞こえた。思わず振り向くと、青年はなんでもないように立って大きく手を振って答えた。
「こんにちは」
差し込む光に照らされる。影が濃く広がって、飲み込む。逆光を背負い、斜めに空間を裂く輪郭はなめらかだ。斑に落ちた汗が蒸発して浅く荒い息と混じり、甘く肺を犯していく。
「ほら、貴方も手を振って」
風花 @kiraboshiseiya
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