第10話 図書館
古い本の匂いを胸に吸い込みながら、私は本棚の前を歩いた。クロエが言ったように、それほど広い建物ではなく、壁面に本が並べられただけの、小さな町の図書館といった風情だ。
のんびり読書なんて許されない生活を送っていたから本に縁はなかったけれど、もともと嫌いではない。
「何を読んだらいいんだろう。クロエ、お勧めはある?」
「聖女様はこの国の歴史について知りたいとおっしゃっておられましたよね。でしたらこれはいかがでしょう。入門書で、貴族が通う学園の中等科では必ず習うものです」
「へぇ、この世界にも学校があるのね」
「はい。13歳から18歳までが通います。研究者を目指すものはさらに上の高等科に進むこともありますが、多くの貴族子女は18歳の成人の歳に卒業していきます」
「じゃあ私の世界の中学校とか高校と同じね。クロエも学園に通っていたの?」
「……はい。ですが、私は縁あってこちらの修道院にお世話になることになりましたので、卒業はしておりません」
学園に通っていたということは貴族であったということか。けれどそれを中退して修道院に入る、というには何か事情があったのかもしれない。気になったが、出会ってまだ1週間で立ち入るには憚られた。それに今の私は彼女の主人ということらしいから、私が質問したら、彼女はたとえ嫌な記憶であっても話さざるを得なくなってしまうだろう。
クロエお勧めの歴史書と、ちょっと興味があった魔法の本を借りた。2冊あれば数日はもつかなと図書館を出ようとしたとき、本棚の端にある本が目についた。古い書物は紺色や焦茶など、暗い背表紙が多いのに、その本は淡いピンク色をしていた。
思わず手に取ると、クロエが「まぁ」と顔をほころばせた。
「マナーの初級本ですね。懐かしいですわ」
「クロエ、読んだことあるの?」
「もちろんです。これは貴族の、特に女性たちが必ず一度は目にする本として有名なのです。女性というより、少女向けでしょうか。学園に入学するより前の年齢の子どもたち向けですわ。イラストがとてもかわいらしくて、マナーの勉強は退屈でも、この本を読みたいから頑張ったという少女たちがたくさんいますのよ」
クロエが言う通り、表紙には子うさぎとドレス姿の少女が一緒にお茶を楽しんでいるイラストがあった。不思議の国のアリスのようでかわいらしい。なぜ子ども向けの本がこの図書館にあるのかというと、貴族ではない女性が修道女として出家する場合もあるからだそうだ。王家直轄地で王族の受け入れもしている修道院として、そこに属する修道女たちにも最低限のマナーは求められる。マナーなど知らずに育ってきた者たちが一から学べるよう、教本として置いてあるらしい。
「ねぇ、これも借りていいかな」
「聖女様がですか? これは子ども用ですが……」
「マナーなんてない世界から来ちゃったから、私にもちょうどいいと思うんだ。この世界に残るって決めたなら、こういうのもちゃんとした方がいいのかなって思って」
「確かに聖女様は王族と同列の高貴なお方です。この先王族の方々と会食なさる機会も巡ってくるでしょうね」
「へぇ、食事のマナーっていうのもやっぱりあるんだ。私、適当にナイフとフォーク使ってたかも」
「聖女様のマナーは間違ってはおられませんよ。給仕をさせていただいた私が保証いたします」
「でもきっとクロエの方が上手なんだろうなって思う。そうだ! クロエ、私にマナーを実地で教えてくれない?」
「実地、でございますか?」
「そう! ほら、食事やお茶の時間、私ひとりだけ特別扱いでお部屋でいただいているでしょう。クロエが一緒に席に着いてくれたら、私はあなたを見て学べるじゃない」
「そんな……聖女様と同席なんて恐れ多いことでございます」
「でも、私の勉強のために必要なんでしょう?」
「それは……」
「私の勘なんだけど、クロエはいいところのお嬢様だったのではない? クロエとカミーラ院長の立ち姿は、ほかの修道女たちとは一線を画しているというか、2人が突出して綺麗なのよ。だから、クロエから教えてもらったら、私も上達するんじゃないかと思って」
「それは……」
何か言いあぐねるクロエを説き伏せ、その後カミーラ院長にもお伺いをたてたところ、あっさりと許可がおりた。
こうしてこの世界に召喚されて以降、初めて誰かと食事を共にすることになった。
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