白雪に染まる

ゆうと

第1話「中学生プロ棋士、2人誕生」

 将棋。

 81マスの盤と40枚の駒を用いて行われるボードゲームの一種であり、平安時代までには既に原型が存在し、室町時代には今にも通じるルールが形作られていったとされている。江戸時代初期に幕府によって将棋の名人が正式な役職として認められ、詰め将棋と呼ばれるパズルの棋譜を幕府に献上することが慣例になるなど古い歴史を持つ遊戯だ。

 そして幕府が崩壊し、大正時代に東京将棋連盟(日本将棋連盟の前身)が結成されると、将棋及び将棋指しを取り巻く環境は大きく変わる。江戸時代の名人制度を源流とする名人戦の誕生を皮切りに次々とタイトル戦が始まり、頭脳スポーツのプロ競技として将棋指しはプロとしての地位を確立するようになった。


 それに合わせて、プロの棋士として認められる条件も明確に定められた。

 育成機関である新進棋士奨励会で所定の成績を収めて四段に昇段した者、もしくはアマチュア・女流棋士としてプロ公式戦に参加して所定の成績を収めた上で編入試験に合格した者のみがプロ棋士を名乗ることが許される。それは非常に狭き門であり、年齢制限という壁もあり多くの名も無き将棋指しが涙を流して奨励会を去っていった。

 プロへの道がそれだけ険しいこともあり、若い年齢でプロ棋士となった者はそれだけで一目置かれるようになる。特に中学生でプロとなった者は別格であり、将棋界の最高峰である“名人”を獲得し将棋界を牽引する存在になることは確実と言われるほどだ。

 中学生でプロになった者は、四段からプロになる制度が確立してから100年余りで僅か数名。10年から20年に1人という実に希少な存在であり、中学生プロ棋士が誕生したというだけで将棋界を飛び越えて世間にも大きなニュースとして報じられるほどの熱狂が生まれる。


 だからこそ、今日この日の記者会見がこれほどまでの熱を帯びているのも当然といえる。

 それほどまでに珍しい中学生プロ棋士が、一度に2人も誕生したのだから。



 *         *         *



 20××年9月、東京の千駄ヶ谷にある将棋会館。

 将棋の棋戦を主催する日本将棋連盟の本拠地でもあるこの場所は、普段はプロ棋士や女流棋士の対局が行われたり、一般人向けの将棋教室が開催されたり、将棋関連のグッズも販売されているのだが、今日は新たなプロ棋士を決める“三段リーグ戦”の最終戦がつい先程まで行われていた。


「新四段、目線お願いしまーす!」

「すみません、笑顔くださーい!」

「ガッツポーズお願いしまーす!」


 そして現在、会館の一室にて記者会見が行われている。主役は新たに四段となりプロ入りが決定した2人の新人であり、2人に指示を出すカメラマンの声が飛び交い、シャッターを切る度に小気味良い音と強烈な光が2人に浴びせられている。壁のようにズラリと並んだカメラマンが一斉に何十枚も撮り続けるせいで音も光も途切れる暇が無く、2人は常に巨大なライトを向けられ続けているような状態だ。

 今は写真撮影の時間であるが、それが終わったら質疑応答の時間に移ることになっている。なのでカメラを持たない記者は息を潜め、そのときが来るのを今か今かと待ち構えている。


「何だか凄い騒ぎですね。いつもこんな感じなんですか?」

「まさか。いつもはもっと静かだよ。――まぁ、これだけ騒ぐのも無理はないけどね」


 その中の1人、他の記者に比べるとかなり若い部類に入る女性記者・三澤の質問に、白髪混じりの男性ベテラン記者・広瀬がそう答えた。

 その視線は、カメラマンの壁の向こう側に立つ2人に釘付けとなっている。

 まるで、その光景を一生忘れないため目に焼き付けようとするかのように。


 王の駒を象った、腕で抱えるほどの大きさをしたオブジェを互いに支えてカメラに視線を向ける2人の新人プロ棋士。

 記者から見て右側に立つのは、同年代と比べると幾分か身長が低く、将棋よりもスポーツの方が似合う活発な見た目をした少年。カメラマンから指示がある度に笑顔を浮かべてはいるものの、弧を描く口元はどうにもぎこちなく、その目つきは若干の鋭さを帯びている。

 そして記者から見て左側に立つのは、その少年と同じくらいの背丈をした少女。肩に掛かる長さの黒髪に黒縁眼鏡という見た目の彼女は、少年とは対照的に終始落ち着いた笑顔なことも併せて優等生然とした印象を受ける。


「左の女の子が白鳥雪姫しらとりゆき、13歳9ヶ月。右の男の子が黒羽歩くろばあゆむ、14歳4ヶ月。学年基準ならどっちも中学2年前期で最速タイ、年齢なら白鳥新四段は最年少だ。しかも彼女の場合、女性初のプロ棋士という称号も付いてくる。間違いなく、今日は将棋界の歴史に残る日だよ」

「えっ? 女性の棋士なんて何十人もいるじゃないですか。私、その人達の取材に行ったことありますよ」


 女性記者の言葉に、先輩記者は呆れるように溜息を吐いた。いくら彼女が最近異動してきたため将棋に関する知識に疎いとはいえ、取材する側がそのようではあまり宜しくない。


「君が言ってるのは“女流棋士”だ。“プロ棋士”と呼ばれる者達とは別の制度によるもので、ハッキリ言ってプロ棋士よりもハードルは低いんだよ。彼女は今まで女流棋士が乗り越えられなかったハードルを初めて乗り越えた歴史的な存在でもあるわけだ」

「ってことは、これから彼女が戦うのは全員男というわけですか。圧倒的な男社会の中で女性1人戦うってのは大変ですね」

「別に大変なのはそこじゃないさ。これからあの2人を待ち受けるのは、天才中の天才と呼ばれる者達がその才気の全てを捧げて得た技術や知識を真正面からぶつけてくる、一切の誤魔化しの利かない勝負の世界なんだからね」


 広瀬の言葉に、三澤は改めて新四段の2人に目を向ける。

 普通に考えたらまだまだ遊びたい盛りの、それこそ将来のことなんて眼中に無い方が圧倒的に多い年代において、既に自分が生涯を掛けて取り組む仕事を決め、見えないゴールに向かって突き進むことを決めた1人の少女と1人の少年。

 そんな2人の姿に、女性記者は頼もしさと、そして一抹の寂しさを覚えた。





「やあやあお疲れ2人共! バッチリ決まってたよぉ!」

「お疲れ様です、会長」


 記者会見を終えて控室に戻ってきた雪姫達を出迎えたのは、日本将棋連盟の現会長である源義貴みなもとよしき九段だった。

 御年55歳でありながら順位戦ではA級に次ぐB級1組に長らく在籍し、下位クラスから上がってきた者が名人に挑む実力を持つか見極める“門番”として君臨している。しかし普段は勝負師としての抜き身の刀のように鋭利なオーラは鳴りを潜め、雪姫を始めとした奨励会員にも明るく接する気の良いおじさんだ。


「白鳥ちゃん! 記者からの受け答えもバッチリだったし、笑顔も決まってたよぉ! これなら明日の新聞の一面も映え映え間違い無しだな!」

「えっと、ありがとうございます。何だかまだ、本当にプロになった実感が湧かなくて……」

「大丈夫だって! みんな最初はそうだから! 君は気兼ねなく、今まで通り将棋に取り組んでもらえればそれで良いから!」


 会長はニコニコと満面の笑みでそう言って、ハハハと豪快に笑った。如何にも機嫌が良いといった感じの会長に、雪姫は機嫌が悪いよりはずっと良いと分かっていてもむず痒そうにそわそわと身を捩じらせる。

 彼がここまで機嫌が良いのは、ひとえに今回の会見が世間からの関心を大きく集めているからだろう。タイトル戦を開くにもスポンサーからの支援が欠かせない連盟にとって、雪姫達のように知名度の高い将来有望な若手といった存在は有難いに違いない。


「ちょっと会長!」


 と、2人がそんな会話を交わしていると、もう1人の新四段である黒羽が突如割り込んできた。如何にも機嫌が悪いといった感じで会長に詰め寄るその姿は、今まで溜め込んできたものが爆発したかのような勢いがあった。


「おう、黒羽くん。君もお疲れだったね」

「会長! 俺だって凄いですよね! 中学生でプロ棋士ですよ!」

「んん? そりゃまぁ、凄いわな。その年齢でプロになれる奴なんてほとんどいないぞ~」

「だったらなんで、俺はコイツのおまけ扱いなんですか!? 今日来てた記者もみんなコイツ目当てで、俺なんてついでとしか思ってない奴らばっかりでしたよね!」


 黒羽はそう言って、コイツこと雪姫をビシッと指差した。あまりの勢いに、彼女が思わずビクンッと肩を跳ね上げる。

 そして会長は、そんな彼に対して「あぁっと……」と苦笑いを浮かべる。


「いやいや、考え過ぎだって。確かに白鳥ちゃんは女性初のプロ棋士ってことで注目されてたのは事実だけど、黒羽くんだって同じくらい注目されてたのは間違い無いから」

「でも記者が最初に質問するの、決まってコイツからだったじゃないですか! その後に同じ質問を流れで俺にもしてくる、ってのがずっとでしたよ!」

「あぁ、まぁ確かにそうだったかもしれないけど……。でもまぁ、新四段の記者会見ってあんな感じだぞ? 三段リーグの1位から聞いて、次に2位に聞くって流れが」


 プロ棋士になるには奨励会と呼ばれるプロ養成機関で勝ち上がって四段になる必要があるのだが、その中でも最後にして最大の壁となるのが“三段リーグ”だ。

 半年間かけて18局を戦い、その成績の上位2名が新四段となる。それ以外にもプロとなる方法もあるにはあるが、それでも年間でのプロ入りはせいぜい4名から6名程度。将来を期待された有望株ですら三段リーグの沼に呑まれて何年も足踏みし、挙句プロになれず引退を余儀なくされる場合も珍しくない。

 そんな過酷なリーグを、雪姫も歩もたった1期で駆け抜けた。そのことも、今日の記者会見が熱狂した要因の1つである。

 ちなみに成績は、雪姫が15勝3敗で1位、黒羽が14勝4敗で2位。

 彼の最後の1敗は、最終戦で雪姫によって付けられたものだった。


「くそっ……!」


 黒羽はギリッと奥歯を噛み締めて、ギロリと雪姫を睨みつけた。今にも泣きそうなほどに悔しげな表情ではあるが、それ以上彼女に怒りをぶつけることはせず踏み留まっている。

 将棋というのは、謂わば“完全情報ゲーム”だ。自陣の駒の位置のみならず持ち駒の情報すら完全に公開されており、つまり不意打ちや騙し討ちといった状況が存在しない。将棋で相手に負けた場合、それは完全に自分のミスによるものである。

 黒羽もそれを分かっているからこそ、悔しいという感情はあれど悪戯にそれをぶつける真似はしない。将棋指しの端くれとしての、彼なりの矜持というやつだろう。


「…………」


 もっとも、恨みがましく睨みつけられるだけでも、雪姫からしたら居心地悪いことに変わりない。思わず助けを求めるように会長へと視線を向けるが、彼は苦笑いで首を横に振るのみで助け舟を出してくれない。


 ――誰でも良いから、この空気を変えてくれないかな……。


「何や、えらい贅沢な悩みやなぁ」

「――――!」


 後ろから、それもかなり近い場所からふいに聞こえてきたその声に、雪姫は反射的にバッと後ろを振り返った。

 そこにいたのは、切れ長の両目と口を弧に描いて笑みを浮かべる少年だった。身長こそ高いものの体躯は細いためか、大柄で威圧感のある印象はあまり無い。


「おぉっ、塩見くんか!」

「こんばんは、会長。――雪姫ちゃん、四段昇段おめでとう。あっちゅう間に駆け抜けてもうたなぁ、さすが雪姫ちゃんや」

「えっと、ありがとうございます……」


 元々浮かべていた笑みを更にパッと華やがせて、その少年・塩見楽しおみらく三段は賛辞の言葉を雪姫に贈った。――すぐ傍にいる歩のことなど、まるで視界に入っていないかのように。

 彼は現在、17歳の高校2年生。雪姫や歩と同じタイミングで関東の奨励会に入り、三段リーグは今回で2期目。方言から推察できる通り実家は京都の老舗の呉服屋であり、関西の研修会で将棋の腕を磨いてきたのだが、奨励会を受験する際に親戚の家に居候してまで関東本部に鞍替えしたという異色の経歴の持ち主だ。


「いやぁ、今期は惜しかったなぁ。今日2連勝できとったら、雪姫ちゃんの隣に立って記者会見を受けとったのは、そこの黒羽くんちゃうくて僕やったのになぁ」

「……塩見、俺はもう四段でプロなんだぞ。その呼び方は止めろよ」

「何や、えらい怖い顔やん。正式には、四段に昇段するんは来月なんやけど」


 挑発としか思えない塩見の言葉に、黒羽はますます目つきを鋭くさせた。

 ちなみに塩見の発言は、紛れもなく事実だった。リーグ最終日である今日を前にして、雪姫と黒羽は3敗で並び、塩見は4敗。3敗同士の2人が直接対決によって必ずどちらかは4敗となり、仮に塩見が2連勝すると4敗同士で並ぶことになるのだが、その場合は前期の成績によって決まる順位が上である塩見の方が新四段に選ばれていたのである。


「そやけどまぁ、僕にとってはえぇ思い出になったわ。何てったって、三段時代の雪姫ちゃんに土を付けた僅か3人の内の1人になれたんやさかいね」

「あのときの塩見さん、凄く強かったですもんね」

「いやぁ、雪姫ちゃんが相手やさかい張り切っとったのか、いつも以上に勘が冴え渡っとった気ぃしたわ。――まぁ、それで気力を使い果たしたのか知らんけど、そこから一気に3連敗したんが痛かったわ」


 僕もまだまだ修行不足やなぁ、と塩見はあっけらかんとした様子で笑い声をあげた。そんな彼に対し、雪姫はどう反応したものか分からない苦笑いで、会長は将来有望な若手の存在に満足そうな笑顔で、そして黒羽は先程よりも明らかに機嫌を損ねた怒り顔を向ける。


「僕も今以上に頑張れる気ぃするわ。来期で四段に昇段してみすさかい、そのときは宜しゅうな」

「はい、楽しみにしてます」

「いつかタイトル戦で一緒になれるとええなぁ。そのときは実家からとびきり綺麗な和服を贈ったるさかいな。――そっちもプロになったときは宜しゅうな、黒田歩新四段くん?」

「……ボコボコにしてやるから覚悟しろよ」

「おぉ怖い怖い。――じゃ、僕はこの辺で。会長、ほな、失礼させて頂きます」

「おう、塩見くんも来期は期待してるぞ」


 散々掻き回すだけ掻き回して、塩見はヒラヒラと手を振って部屋を出ていった。

 そんな彼の背中を、黒羽は今にも怒りを爆発させそうなほどに体をプルプルさせて睨みつけていた。

 雪姫はそこで初めて、彼の怒りの矛先が自分から塩見に移っていることに気が付いた。


 ――もしかして、私を助けてくれた?


 チラリと、会長に目を向ける。

 会長は何も答えず、苦笑いを浮かべるに留めていた。



 *         *         *



 記者会見から一夜明け、月曜日。

 将棋連盟会長であるみなもと九段の予想通り、新聞各社は昨日の新四段会見を一面記事で報道した。新聞以外にネットやテレビでも大きく取り上げられ、朝のニュース番組では過去の中学生プロ棋士をおさらいする形で特集が組まれ、その偉大なる先達と比較してどれほどの活躍を見せるか期待する声で締められることが多かった。

 期待の新人として取材を受けることは過去に何度かあった雪姫ゆきではあるが、さすがに今回ほど大規模な反響は経験が無かった。自分の顔が新聞にもネットにもテレビにも映し出され、普段観ていたキャスターや解説者が自分について話している光景は何とも不思議なものだった。


「おっ、このチャンネルでも雪姫のニュースをやってるな」

「随分と注目されてるのね」


 雪姫の自宅は、千駄ヶ谷駅と同じ路線の駅の近くにあるマンションの一部屋だ。

 普通の会社員の父と普通の専業主婦の母との間に生まれ、他に兄弟はおらず3人暮らし。世間では中学生プロ棋士&初の女性プロ棋士の誕生に沸き立っているが、今日も彼らはいつもと同じ時間に、互いに顔を向き合わせて朝食を摂っていた。


「何だか急に有名人になっちゃったなぁ、雪姫」

「よく分からないけど、色々と凄いことなんでしょ?」


 娘が映っているテレビを眺めながらそんな感想を口にすることからも分かる通り、両親は将棋についてはほとんど詳しくない。ルールに関しては駒の動かし方すら怪しく、将棋のプロがどういった世界なのかもよく分かっていない。

 2人にとっての将棋とは、娘がやりたいからやらせているものに過ぎないのだろう。


「まぁ、大事なのはこれからだよ。みんなの期待を裏切らないように精進しないとね」


 とはいえ雪姫としては、家族一丸で期待を寄せられたり、もしくは結果だけを求めてスパルタになるよりはそちらの方が遥かに気楽だ。あるいは両親がそんな感じだったからこそ、彼女はここまでの結果を出せたのかもしれない。

 そんなことを考えながら、雪姫はご飯を一口パクリと頬張った。口の中に広がる仄かな甘みに、彼女の顔が自然と綻んだ。


あゆむくんも、一緒にプロになれて良かったなぁ」

「将棋のお勉強をするのも将棋会館に行くのも、いつも一緒だったものね。雪姫も、歩くんと一緒の方が安心できるんじゃない?」

「っ――――」


 しかし両親が歩の名前を出した途端、そんな雪姫の表情がピクッと僅かに引き攣った。


「今日も普通に学校行くんでしょ? 歩くんに宜しく伝えてくれる? プロになった後も、雪姫のことを色々気に掛けてほしいって」

「……うん、言っておくよ」


 両親からも、テレビの画面に映る黒羽からも目を逸らして、雪姫は当たり障りの無いようそれだけ口にした。



 *         *         *



 雪姫の通う学校は、自宅から歩いて10分ほどの距離にある私立の中高一貫校だ。将棋の勉強に集中できるよう高校受験の要らない学校を、ということで両親とも話し合って決めた学校である。

 私立ということもあってか、勉強だけでなく部活動にも力を入れている。敷地内には練習をするための潤沢な設備が取り揃えられ、正門から見える校舎には様々な大会で優秀な成績を修めたことを評する垂れ幕が幾つも飾られている。


「わぁ」


 そしてその中に、雪姫と黒羽の名前もあった。この学校に将棋部はあれど2人はそこの部員ではないのだが、生徒が歴史的快挙を成し遂げたということで例外的に認められたのだろう。

 垂れ幕を見て思わず声をあげた雪姫だったが、断じて感動したからではない。プロ入りを決めた次の日の朝にこうして飾られているということは、前々から秘かに用意していたに違いない。そんな用意周到な教師陣に対して若干引いた気持ちもあるし、先程からやたらと感じる周りからの視線も併せて気恥ずかしいような気まずいような気持ちもあった。

 とりあえずその垂れ幕を視界に入れないよう俯きながら、雪姫はそそくさと正門を潜って早足で校舎の中へと入っていった。ここ1年半の中で最も早い動きで上履きへと履き替え、そのまま廊下を(怒られない程度に)早歩きで進んでいく。


 ――あっ。そういえば、今日は登校したら職員室に来いって言われてたっけ。


 昨日の夜に母親を通して学校から伝えられた連絡事項を思い出し、雪姫はいつもの流れで教室に向かおうとしていた足を職員室へと向け直した。

 一体何の用事だろう、と内心首を傾げながら。





『それでは昨日の対局で見事にプロ入りを決めた2年4組の白鳥雪姫さんと黒羽歩さん、ステージまでお越しください!』


 臨時の集会と称して体育館に集められた生徒達の拍手と共に登壇したのは、明らかに緊張した様子でキビキビと歩く雪姫と黒羽の2人だった。進行役も務める教師に促され、ステージの中央脇に置かれたパイプ椅子に腰を下ろす。

 この臨時集会の話を聞いたのは、つい数十分前のこと。職員室にやって来た途端その場にいた教師全員から一斉に拍手で出迎えられ、雪姫が呆気に取られている隙を突くかのように説明されたのである。既に他の生徒には話が通っているため今更断れず、あれよあれよという間に今に至るというわけだ。


『奨励会というのはとても厳しい場所であり、年齢制限に到達して引退を余儀なくされる人も大勢います。そんな中、中学生でプロ棋士になるということは大変珍しく――』


 基本的には教師の進行によって集会は進められ、2人は最後にコメントを少し添えれば良いことになっている。現在はプロ棋士についての簡単な説明も添えながら、2人の功績が如何に凄いことなのか熱弁している最中だ。

 と、雪姫がほんの少し体を寄せて黒羽へと声を掛ける。


「えっと、歩……」

「……何?」

「お父さんとお母さんから、歩に宜しく伝えてくれって言われてて……。プロになっても、私のことを気に掛けてくれって……」


 今朝の話をそのまま伝えると、黒羽は全校生徒の見守るステージの上だということも忘れて、信じられないと言わんばかりに眉間に皺を寄せた。


「……おまえ、そういうの素直に言うか?」

「えっ、言わないの?」

「俺だったら絶対に言わねぇわ――」

『それではここで、2人からそれぞれ意気込みを聞きたいと思います。――それではまずは白鳥さん、お願いします』

「あっ、はいっ!」


 思いがけず元気の良い返事をして勢いよく立ち上がり、司会役の教師と入れ替わる形でステージ中央に置かれた公演台の前へと移動した。


「頑張れぇ、雪姫ぃ!」


 と、ステージ下で体育座りしている生徒達の一画から、複数の女子生徒の声で激励が飛んできた。雪姫がそちらに目を向けると、彼女の所属する2年4組の中から主に女子のクラスメイトが笑顔で手を振ってるのが見えた。

 その光景に、それまで緊張で固くなっていた雪姫の表情が幾分か和らいだ。

 小さく深呼吸をしてから、目の前にあるマイクに顔を近づけて口を開く。


『えっと、2年4組、白鳥雪姫です。先程紹介にありました通り、四段に昇段して将棋のプロ棋士となりました。いつかプロになるつもりではいましたけど、ここまで早くプロになれたのは周りの人達の支えもあってのことだと思ってます』


 頭の中で言葉を整理するのも兼ねて、雪姫はここで一旦呼吸を整えた。


『プロにはなれましたが、凄い棋士の皆さんと戦っていくこれからが本当に大変な道のりだと思っています。とにかく今は観ている人を少しでも満足させられるような将棋を指せるよう、日々精進していきたいと思っています』


 さすがに短いかなと思いながら頭を下げると、生徒達から一斉に拍手が沸き上がったため雪姫は内心ホッと胸を撫で下ろした。元のパイプ椅子へと戻っていき、自分の仕事が終わったことで大きく息を吐いて脱力する。


『それでは次に黒羽さん、お願いします』

「――はい」

「クロぉ、頑張れぇ!」


 雪姫とは対照的に落ち着いた声で返事をした黒羽が公演台の前に立つと、先程と同じ場所から今度は主に男子のクラスメイトが激励を飛ばして手を振ってきた。

 歩はそれにチラリと視線を向け、そして正面に視線を戻して口を開いた。


『2年4組、黒羽歩です。将棋のタイトルを取ることを目標に奨励会を頑張ってきたので、プロになってタイトル獲得のチャンスを得られたのは嬉しく思っています。――ですが、中学生でプロになれたとはいえ、自分は今まったく嬉しくありません』


 思わぬ言葉に生徒達からザワザワと声があがる中、黒羽はスピーチの最中だというのに正面から顔を逸らして後ろを振り返った。


 ――えっ?


 すっかりリラックスした様子でそれを聞いていた雪姫は、突然彼がこちらに顔を向けてきたことに目を丸くする。

 そんな彼女に構わず、黒羽はこう続けた。


『三段リーグの最終戦で雪姫に負けて2位通過になったことが、とにかく悔しくて仕方がありません。いつか必ず公式戦で雪姫を打ち負かし、雪姫よりも早くタイトルを獲得することを目標にしていきます』

「ヒュー!」

「良いぞー、クロ!」


 サッと頭を下げて早足でパイプ椅子へ戻っていく黒羽に、先程激励を飛ばした男子生徒達が大きな拍手をして喝采を口にした。他の生徒達は戸惑いながらもとりあえず拍手をし、司会役の教師は若干の苦笑いと共に『ありがとうございました』と進行に移る。


 ――えぇ……。


 そして学校の全生徒の前で堂々と宣戦布告された雪姫はといえば、隣で平然とした様子で正面に顔を固定させている黒羽を戸惑いの表情で見つめることしかできなかった。





 臨時集会が終わり、生徒達はそれぞれ自分の教室へと戻っていった。1時限目は自習時間とする旨が事前に伝えられており、生徒達は2時限目の授業が始まるまでほとんど自由時間のように過ごすこととなる。


「クロ! さっきの挨拶、めっちゃ良かったぞ!」

「将棋で一番になるんだってクロの正直な想いが伝わってきたしな!」

「少なくとも、白鳥の良い子ちゃんぶった挨拶よりよっぽど良いよな」


 そんな中2年4組の教室では、男子生徒が自分の席ではなく教室の中央辺りにある黒羽の席に集まり、先程の彼の挨拶について興奮冷めやらぬといった様子で感想を口にしていた。大体が全校生徒の前で雪姫に宣戦布告したことを褒め称えるものだが、それと同じくらい雪姫を揶揄するような内容も多く聞こえてきた。

 そしてそんな彼らの中心にいる黒羽はというと、次々と掛けられる言葉に「おぅ」や「まぁ」といった具合に何とも曖昧な言葉を返していた。周りにいる彼らの誰1人とも目を合わさず、つまらなそうな表情で頬杖を突いている。


「まぁ、クロだったらすぐにタイトル取れるって! 中学生でプロになるのって、それこそ天才の中の天才って感じなんだろ?」

「そうそう。調べた感じ、一番上っぽい“名人”は全員取ってる感じだしな!」

「でもよ、それって白鳥だって同じじゃね?」

「バッカ、クロと白鳥じゃ違うっての!」


 担任の教師はまだ戻ってきていないため、誰にも邪魔されない彼らの声は自然と大きくなっていく。ただでさえ教室はさほど広くないというのに、そんなことだから教室中のクラスメイトが自分の意思に拘わらずそれを聞かされる形となっていた。


「……ったく、男子がまた騒いでる」

「黒羽くんも黒羽くんだよ。みんなの前で、雪姫に喧嘩を売るような真似をするなんて」

「雪姫は全然気にしないで良いからね、あんな馬鹿共の言うことなんて」


 なので先程から雪姫の周りに集まっている女子生徒達が、馬鹿騒ぎしている彼らに白い目を向けて呆れたような表情を浮かべていた。雪姫から男子が見えないように壁となったり、彼女に対して優しい言葉を掛けたりと、まるで彼女を守るような行動が目立つ。


「あはは……」


 一方そんな彼女達の中心にいる雪姫はというと、戸惑いを含んだ笑い声をあげるのみで特に気にしていなかった。

 そもそも黒羽の行動にしても、驚きこそあれど迷惑だのといったマイナスの感情は抱いていない。同じ将棋指しとして彼の感情はとても理解できたし、彼の自分に対するライバル意識は今に始まったことではないからだ。

 そして自分のことを悪く言う男子生徒のことも、同じくらい気にしていなかった。先程の挨拶は紛れも無く本心であるとはいえ、男の子からしたら黒羽のような挨拶の方がウケは良いだろうな、というのも何となく分かるからだ。


 ――雑誌の取材とかでも、歩との対立構造を作りたがる人とか何人かいたしね。


「将棋のプロって、今まで男しかなったこと無いんだろ? だったら対戦相手が女だからって油断してもおかしくないだろ」

「成程な。つまりクロが戦ったのは本気の奴ばかりだけど、白鳥が戦ったのは手を抜いてた奴ばかりってことか」

「ズリーよなぁ。女だからって理由だけで油断してくれるんだから」

「っ――――」


 とはいえ、そんな雪姫にだって聞き逃せないことはある。


「おい、今の――」

「今の発言、訂正して」


 黒羽が何か言おうとしていたような気もするが、雪姫が椅子から立ち上がりハッキリとした口調で言い放ったことで打ち消された。特に大きな声を出したわけではないが、先程まで騒いでいた男子生徒が一斉に静まり、女子生徒は突然積極的な行動を起こした彼女にポカンと口を開けている。

 まっすぐこちらを睨みつけながら歩いてくる雪姫に気圧された様子の彼らだったが、最初に我に返った男子生徒が代表して問い掛ける。


「な、何だよ急に。相手が手加減したから勝てたって言われてムカついたのか?」

「私のことはどうでもいい。――私の対局相手が手を抜いてた、って言ったのを訂正して」


 男子相手でも、そしてその数が多くても一切怯むことなく、雪姫は尚も自分の意見をまっすぐ主張する。


「私と歩が戦ってた奨励会は、自分の人生を掛けて将棋のプロになろうって人達が集まる場所なの。女だからなんて理由で手を抜くような人は1人もいないし、そんな奴がいたとしてあの場所に立てるほど甘い世界じゃない」

「…………」


 男子生徒の人垣の向こう側からジッとこちらを見つめる黒羽の存在を感じながら、雪姫は言葉を続ける。


「小さい頃から全てを捧げて将棋に取り組んで、それでも夢を叶えられなくて泣きながら奨励会を去っていく人を何人も見てきた。そんな人達の無念とかも背負って、私達はこれからプロ棋士になるの。――そんな人達のことを、何も知らないくせに悪く言うのは止めて」

「……う、うるせぇ! おまえなんて、偶々クロ以外の強い奴と当たらなかったからプロになれたんだろ! そんな奴が偉そうに説教すんな!」


 自分の非を素直に認めたくなかったのか、破れかぶれに放った男子生徒の発言によって、教室内の空気が明らかにピリッと張り詰めたのが分かった。その剣吞とした雰囲気は主に女子生徒達から発せられているが、当の本人である雪姫はむしろ周りの変化に戸惑い顔を左右に振ってるほどだった。


「おい、今のはさすがに――」

「やあやあ下級生諸君! ご機嫌麗しゅう……ではないみたいだねぇ!」


 黒羽が何か言おうとしていたような気もするが、教室の前方のドアから1人の女子生徒が全員に聞こえるよう大声で呼び掛けたことで打ち消された。

 入口からひょっこりと顔を出すのは、肩からトートバッグを提げた1人の女子生徒。緩いウェーブの掛かった真っ赤な長髪を背中に垂らし、赤いフレームの眼鏡を掛けたその少女は満面の笑みを浮かべているが、余所の教室にズカズカと入り込むその行動のせいか、その笑顔からは言い様の無い圧の強さを感じる。


「えっ、誰? 上級生?」

「ほら、将棋部部長の――」

「どうも~。将棋部部長やってます、5年1組、青天目律子なばためりつこでございま~す」


 教室中の生徒から戸惑いの声にも動じることなく、その女子生徒――青天目は満面の笑みを一切動かさず大声でそう呼び掛けた。この学校では中等部と高等部で区切らず通し番号で表記するため、つまり彼女は高校2年生ということになる。

 突然やって来た先輩に声を掛ける勇気が無いのか、先程まで騒がしかった教室が一気に静まり返った。このままでは話が進まないので、雪姫が小さく溜息を吐いてから話し掛ける。


「今は自習時間ですよ、青天目先輩」

「いやいや、めでたく白鳥くんと黒羽くんが四段に昇段したということで、晴れて正式に将棋部に勧誘しようと参上した次第でして。――そしたら何やら随分と話が聞こえてきましてね」

「…………」


 興味深い、の部分で青天目が男子生徒達へと視線を向けた。その無言の圧力に、ほとんどの生徒が気まずそうにフイッと視線を逸らす。

 唯一見つめ返してきたのは、自分の席に座る黒羽くらいだった。

 青天目はそれを確認すると意味ありげにフッと笑みを漏らし、雪姫へと視線を戻して口を開いた。


「だったらこの場で、あなたの実力がどれほどのものか彼らに見せてあげるのも一興かと。幸いにも、道具はこのバッグの中に揃っていますのでね」

「なんで持ってきてるんですか?」

「将棋部の部長たる者、常に将棋と共にあらねば」


 ――私、プロ棋士になるのに将棋盤持ってない……。


 雪姫が謎の敗北感に打ちひしがれている間に、青天目が黒羽へと視線を向ける。


「というわけで、どうでしょう? 彼女の実力を証明するためには、それ相応の実力者が相手でないと。――黒羽くんも、昨日のリベンジを果たすチャンスですよ」

「……良いですよ、俺は別に」


 黒羽の返事に青天目は満面だったはずの笑みを更に深くして、パンッと勢いよく手を叩いた。


「そう来なくては! さあさあ、これから新四段同士によるエキシビジョンマッチですよ! ほらほら皆さん、机を動かして!」


 青天目がそう呼び掛けると、クラスメイト達は一斉に即席の会場作りに動き出した。教室の中央に机を4脚残してそれ以外の机は端に寄せ、クラスメイトの座る椅子で周りを囲んでいく。

 ちなみに男子生徒は有無を言わさぬ彼女の雰囲気に呑まれて渋々と、女子生徒は雪姫の実力を知らしめる機会に賛同して嬉々として、という違いがあった。


「…………えっ?」


 そして当の本人である雪姫だけが周りの状況について行けず、困惑の声をあげていた。

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