逆境社員

製本業者

左遷先で、インド人も吃驚

「インド、ですか……」


山本忠志の声は、自分でも気の抜けたものだと感じるほどだった。問い返したところで意味がない。異動通知ではなく、左遷――そう言い切っていいだろう。


「そうだ」

部長の河野陽介が口を開く。その声は、冷たいビジネスライクな響きだ。

「現地事業所では営業活動を中心に、現地スタッフとの連携を強化してほしい。お前のこれまでの購買経験も生かせるだろう」


河野は書類を机に置きながら、あくまで合理的な判断だと言わんばかりの態度だった。だが、忠志にはその裏にある意図が透けて見えた。『本社にいてほしくない』ただそれだけだ。


「インドですか……」

再びつぶやくと、課長の加藤元が続けて口を開いた。

「山本君、この機会を前向きに捉えるんだ。現地では君の裁量が大きくなる。日本とは違うやりがいがあるはずだよ」


加藤の言葉は一見親身に聞こえるが、内心で「手に負えない存在を厄介払いできてホッとしている」のだろう、と忠志は感じた。


忠志は静かに「承知しました」とだけ答え、会議室を後にした。



飛行機から降りた瞬間、忠志を包んだのは、日本とはまるで違う湿度と喧騒だった。

空港の出口を抜けると、クラクションと人々の活気が混じり合う音に耳が慣れるまで少し時間がかかった。

しつこくタクシーと言い寄ってくるインド人を邪険に扱っていると

「山本さん、こちらです!」

と、現地事業所のスタッフらしい若い男性が笑顔で手を振っている。

名前はヴィクラムと言ったか。日本語が得意だという事前の説明通り、発音はスムーズだったが、少し気になる訛りがある。


「長旅、お疲れ様です!さっそく車を用意していますので、事業所へ向かいましょう」


連れられた車は、日本の清潔で整備されたタクシーとは違い、少し古びている。それでも笑顔で運転するヴィクラムの様子に、こちらから文句を言う気にはなれなかった。


事業所に到着すると、そこには日本本社とはまるで違う光景が広がっていた。

壁のペンキはところどころ剥がれ、デスクの上は書類で溢れ返っている。スタッフたちは動き回りながらも楽しそうに談笑している。


「山本さん、これが私たちのチームです!」

ヴィクラムが紹介したのは、男女混合の10名ほどのスタッフ。全員がにこやかに手を振ってきた。忠志は軽く会釈しながら「よろしくお願いします」と声をかけたが、その後の英語でのやり取りに少し苦戦した。


業務の説明を受けるうちに、忠志は違和感を覚え始めた。

納期に対する意識が薄い。品質の管理はずさん。そもそも日本本社の指示を無視して独自に進めているプロジェクトが多い。だが、それを叱責するわけにもいかない。ここは日本ではないのだ。


さらに、赴任から2週間が経ったある日、いつものようにオフィスに出勤すると、スタッフのヴィクラムが不安そうな表情で近寄ってきた。


「山本さん、日本本社からメールが来ています。少し見た方がいいかもしれません」


忠志がメールを開くと、そこには冷たく短い文面が並んでいた。


件名: WEB会議未参加について


山本様

昨日実施されたWEB会議にご参加いただけなかった件について、本日午前中に説明を求めます。以下、会議に参加されていたメンバーにも周知済みです。

• 河野陽介 部長

• 加藤元 課長

• その他購買部および営業部主要メンバー多数


なお、山本様のインド赴任に伴い、連携不足が顕著であるとの指摘を受けております。次回以降、会議参加について徹底するようお願いします。



忠志は頭の中が真っ白になった。


「WEB会議?何の話だ……?」


そもそも会議案内のメール自体が届いていなかった。それどころか、会議の開催自体を知らされていなかったのだ。それなのに「参加しなかった」という理由で、日本本社の多くのメンバーに名指しで周知された挙げ句、責任を追及される――忠志は胸の奥に怒りが湧き上がるのを感じた。


「日本にいるときから、こういう扱いを受けることはたまにあったが……ここまで露骨なことをするとは」


心中で吐き捨てながらも、冷静を装い、すぐに状況を確認するために加藤課長へメールを送った。だが、返事は来なかった。


その日の午後、ヴィクラムが気遣わしげに声をかけてきた。


「山本さん、何かありましたか?顔色が良くないように見えます」


忠志は一瞬迷ったが、事情を簡単に話した。ヴィクラムは眉をひそめ、「そんな……」と漏らした。


「私たちがサポートできることがあれば、遠慮なく言ってください。山本さんが困っているのは、私たちにとっても大きな問題です」


ヴィクラムの言葉に、忠志は救われる思いだった。ここでは少なくとも、信頼できる仲間がいる。日本本社では理解されないかもしれないが、この場所で自分を支えてくれる存在がいることを感じた。



赴任してから数週間後、ある日突然、日本本社からメールが届いた。

「新規部品の試作プロジェクトを現地で進めてほしい」という内容だった。顧客はティア1メーカーの大手であり、この案件が成功すれば事業所全体の評価が大きく向上する。


「急ですね……でも、やるしかないか」

忠志はプロジェクトを引き受ける決意をした。


まず、部品の仕様や要求品質を整理し、現地スタッフと共有する。

しかし、彼らは最初、あまり積極的ではなかった。何かを伝えるたびに「それは無理だ」と返される。


「日本本社では、これくらい当然のようにやっていた……」

だが、ここはインドだ。日本のやり方を押し付けても意味がない。忠志は徐々に、自分の考え方を柔軟に変えていくことにした。


プロジェクトが進む中で、トラブルが頻発した。

必要な部品が手配されていなかったり、品質テストで予想外の不具合が発生したり。

しかし、そのたびに現地スタッフが自主的に解決策を考え始めるようになった。


特に印象的だったのは、ヴィクラムがトラブル発生時に言った言葉だ。


「山本さん、少し時間をください。私たちでなんとかします」


そして数時間後、ヴィクラムは解決策を持って戻ってきた。それは今いる人員総出でとりあえず部品を全数確認すると言う、日本本社では考えられない大胆な方法だったが、それが功を奏した。


数週間の努力の末、部品の試作は無事に完了し、顧客に納入することができた。

納品後、現地スタッフ全員が喜びを分かち合い、感謝の言葉を述べた。


「山本さん、ありがとう!あなたがいなかったら、このプロジェクトは成功しなかった」

ヴィクラムの言葉に、忠志は少しだけ照れくさい気持ちになった。


「いや、みんなが頑張ってくれたおかげだよ」

そう返しながら、忠志は久々に「やりがい」を感じていた。



プロジェクトの成功を受け、忠志は日本本社に報告書を送ることになった。

報告書の末尾には、こう書き加えた。


「現地スタッフとの連携が生み出した成功でした。次のプロジェクトでも、このチームと共に成果を出していきたいと思います」



そうだな、もう少し頑張ってみるか。こいつらの食い扶持くらいは稼いでやらないと。

来た時の、冬のデリーのような空模様は、夏のケララのようにまぶしく輝いていた。

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