第3話

 ラファエルの暮らす忌々しいほど豪華な迎賓館から出ると、日がもう高く、直接目に光が入って来た。一瞬目を閉じ、それを躱すとイアンは馬に乗り、急いで走り去った。

 スペインの危機だ。立ち止まっている時間は無い。



◇   ◇   ◇


 デッキブラシで通りの地面を擦り、水で流す。

 ザー……、と流れる水路を見下ろすと、水面に花が浮かんでいるのが見えて、ネーリはしばらく、優しい表情で朝日に輝く水路を眺めていた。

 蹄の音が聞こえてきた。

「ネーリ」

 振り返ると、フェルディナントがいる。

 あれから、ヴェネツィアの街を歩いて回ったが、特に大きな騒ぎも無く、人々は夏至祭の二日目を楽しんでいた。

 駐屯地にネーリを送ると、フェルディナントは一度、市街にある守備隊本部に戻り、その日はそこで過ごした。ネーリは駐屯地の騎士館で眠り、明け方に教会に戻った。午前中の掃除を手伝う為である。

 神父はまだいなかったが、ネーリは掃除を始めて、そのうち近所の子供たちが起きてきて「あーっ ネーリだーっ!」と駆けてきて一緒に掃除を始めたわけだ。

 ここは祭りの最中でもあまり汚れるような場所ではなかったので、近所の通りの前も、朝方前からネーリが掃除を始めていたので、もうほぼ終わっている。

「おはよう、フレディ」

 ネーリが振り返って呼ぶと、フェルディナントも微笑んでくれた。

「おはよう。来てたのか」

「早く目が覚めたから来たの。午前中の掃除ほぼ終わらせたから、みんな今日は夕方までゆっくり出来るかなと思って。フレディはこれから帰るところ?」

「ああ。帰って数時間眠る」

 フェルディナントは近頃、帰る時少し遠回りをしてこの教会の前を通ってくれるようになった。ネーリがいない時でもそうしてくれる時が多いので、教会自体を気にかけてくれてるのだろうと思って、ネーリは嬉しかった。

 ちなみに、子供たちがフェルディナントのことを「フレディ」や「ショーグン」と呼ぶようになったので、親たちも最近はフェルディナントが神聖ローマ帝国軍の将軍だということに気付いたようだ。

 彼らが街の守備を任せられていることは知っていたので、頻繁にフェルディナントがこのあたりに姿を見せていることに、「自分の足で街を見て回るなんて、随分熱心で律儀な将軍さんなんだねえ」などと主婦たちは感心している。

 少し話しているうちに、神父がやって来た。

 二人そろっておはようございます、と挨拶すると、神父は朗らかにおはよう、と答えた。

「すでに掃除を済ませてくれたのですねネーリ。ありがとう」

「いいえ。早くに目が覚めたので」

「そうでしたか。昨日は干潟の方で寝たのですか?」

「あ……えと、」

「そのことで、神父様お話が」

 フェルディナントは手短に、街の事件が落ち着くまでは、駐屯地の騎士館でネーリを寝泊まりさせたいという話をした。神父はすぐに、ネーリにそうさせてもらった方がいい、と助言する。

「貴方の絵には、束縛されない、自由な環境で描くことがどうしても必要でしょう。しかし、確かに貴方は絵を描くこととなると集中し過ぎて、心配なこともあります。この辺りは平和な場所なので、ついつい私も貴方が教会で鍵も掛けず寝泊まりするのを放置してしまいましたが……今街で起こっているのは窃盗のような事件ばかりではない。殺人です。何かあってからでは後悔も出来ません。折角ご厚意でそう言って下さっているのなら、しばらくは駐屯地の方で寝泊まりをさせてもらいなさい。絵が描きたければ、いつでもここに描きに来ればいいのですから」

 はい、とネーリは素直に頷いた。

 もう掃除はあらかた終わっていたので、子供たちは私が引き受けましょうと、神父が言ってくれた。ネーリは一度フェルディナントと一緒に駐屯地に戻って朝食を食べることにした。また夕方に戻ります、と声を掛け、二人でヴェネツィアの通りを歩き出す。

「水が通路に撒かれてるから……風が吹き込んで涼しいね」

 ネーリが気持ち良さそうに栗色の髪を揺らしながら笑っている。うん、と光よりも明るいネーリ・バルネチアの気配を隣に感じながら、フェルディナントも軍服の裾を風に揺らして頷く。

「あれ? フレディそのお馬さんが首から下げてるのなに?」

 小さなバッグを下げている。

「ああ……これは」

 中にあったものを出してくれた。

「時計?」

 棚の上に置いて使うような、小さな時計だ。古そうだが、でも綺麗だ。

「綺麗な時計だね。買ったの?」

「いや。持って来た。実は例の、昨日行った事件現場にあった時計なんだ」

「フレディが寄ってたところ?」

「ああ」

「この時計が……どうかしたの?」

「いや。おかしいなと思って」

 少し考えながら歩いてると、ネーリがじっと自分の方を見ていることに気付いた。これも画家の性分なのかもしれないが、彼はよく、じっと何かを見ていることがある。見つめる癖があるのだ。

 ネーリの見つめて来る時の瞳が、フェルディナントはとても好きだった。

「……殺人現場は空き家なんだ。崩れかけていて、二階にも上れないほど古い」

 ヘリオドールの瞳が瞬く。子供のように小首を傾げたので、フェルディナントはくしゃ、とネーリの髪を撫でてやる。

「つまりな、時計だけが動いてたんだよ。この装飾の感じもあの家にそぐわないしな」

「そっか。じゃあ……」

「殺されたのは薬師の所に薬を卸してた商人だったが。周囲を探っても別に繋がるようなものは見つからなかった。だがあの家が気になる。妙なんだ。立地はいいのにあんな古い家を誰も取り壊そうとしてないし。まるで……」

「『誰かが意図して残そうとしてる』みたい?」

「時計があったからな。俺は何者かが密談の為にあの場所を使ってたんじゃないかと思ってる。だからもう一度あの家を捜索するつもりだ。何か手がかりを見落としてたかもしれないし」

「そうか……そういうのを本当は警邏隊の人達がする仕事なんだよね」

「俺たちも巡回の合間に捜索していたから、完璧には見れていない部分があるかもしれない。今日の夏至祭最終日が終われば、もう一度入ってみる」

「そうなんだ。……どんな家だろ? 僕も見てみたいなぁ」

 フェルディナントはネーリが持っていた時計を受け取る。

「だめだ」

 これははっきりと彼は拒否した。

「今の話聞いて気になっちゃったよー」

「そうか。でもダメだぞ。怪しい密売場所かもしれないし、本当の殺人現場だ。お前にはそぐわない」

「フレディにだってそんな場所そぐわってないよー」

「俺は街の守護職だから行くしかないんだ」

「ぼくヴェネツィアの画家だからそんな家どんな場所か知りたい」

「どんな理由だダメだ。お前はフェリックスのことを『好奇心旺盛だ』などと言えないぞ」

「ちょっと外から見るだけならいい?」

「ダメだ。あんな場所にお前の見るべきものは何もない」

「フレディが時計のこと話したから気になっちゃったんだよ」

「お前が時計のことを聞いたんだ」

「フレディー」

「だめだ」

「うーん……わかった」

「……。」

「……。」

「…………。」

「……。」

「……ちょっと待てお前今、あとで散歩がてらこっそり見に行けばいいやなどと考えたな?」

「えっ⁉ そそそんなことはないけども何で分かったのフレディ」

 フェルディナントは額に青筋を立てる。


「フェリックスに括りつけておくぞネーリ!」


「わかったわかった見に行かないよー!」

 ネーリが子供みたいに笑いながら駆け出していく。

「まったく……!」

 人をとても安心させるかと思えば、とても心配にもさせる。

 あんな人間は初めてだ。

「フレディ ぼくフェリックスにごはんあげてみたい」

 少し離れたところからネーリがもう一度顔を出し、手を振った。腕を組んで眉を寄せていたフェルディナントは表情を緩めた。



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