第8話 肉と煙の交差点
北海道北部の広大な自然の中、塩見と茜は一台のレンタカーで山岳亭へ向かっていた。街から離れるにつれ、風景は次第に人里を離れ、目の前には雄大な山々が連なり始める。舗装された道路が終わり、砂利道に差しかかると、車が跳ねる音が静かな山中に響く。
「わぁ……すごい景色!これってまさに大自然って感じですね!」
茜は車窓から顔を覗かせ、遠くの山々を見渡しながら感嘆の声を上げた。草原の中にちらほらと咲く黄色や白の小さな花が、残雪がところどころ残る山肌と対照的に映える。
「これが北海道の“広さ”だ。東京の狭い路地では、こんな風景には出会えない。」
塩見が控えめに言った。
「でも、本当にこんな山奥にお店があるんですか?なんだか不安になってきました。」
茜が少し心配そうに尋ねる。
「名店は必ずしも街中にあるわけじゃない。むしろ、料理人が本当にやりたいことを追求すると、自然と人里離れた場所に落ち着くこともある。」
塩見がそう語ると、茜は少し納得したように頷いた。
車がさらに進むと、遠くに一筋の煙が立ち上るのが見えた。木々の間から漏れ出るその煙は、まるで道案内をするかのように空高く伸びている。
「もしかして、あれが山岳亭ですか?」
茜が指差す。
「間違いないだろう。」
塩見はハンドルを切りながら答える。
やがて車は、一軒の古びた木造建物の前で止まった。周囲には他の建物はなく、小さな集落すらない。店の前には砂利が敷かれた小さな駐車スペースがあり、その先には林が広がっている。建物は風雪に耐えてきた跡が残り、外壁はところどころ色が剥がれていた。
「これ、めちゃくちゃ雰囲気ありますね!まるで映画のセットみたい!」
茜が目を輝かせる。
「この佇まいだけで、長い歴史を感じる。」
塩見は店をじっと見つめながら言った。入口には「山岳亭」と書かれた木の看板が掛けられている。その文字は手書きで、年季が入りつつも力強さを感じさせる。
店の中に入ると、木の床がギシリと音を立てた。炭火の香ばしい匂いが鼻をくすぐり、薄暗い店内には温かな光が満ちている。広くない店内にはカウンター席が数席と、奥に小さなテーブルが一つあるだけ。壁には焦げたような黒いすすの跡があり、それがこの店が長い年月を経てきたことを物語っている。
「いらっしゃい。」
カウンター越しに現れたのは、年配の店主・村井誠一だった。頬はややこけ、目元には皺が刻まれているが、その鋭い眼光と無駄のない動きには職人としての威厳が漂っていた。
茜が元気よく挨拶する。
「こんにちは!いい匂いがしますね!」
村井は短く頷くだけで、すぐに炭火の調整に戻った。カウンター越しには、じわじわと赤く燃える炭の熱が伝わってくる。
「すみません。こちらでジンギスカンをいただけますか?」
塩見が穏やかに尋ねる。
村井は顔を上げ、「メニューは一つだけだ」と短く答えた。その声には無駄がなく、職人としての覚悟が感じられた。
「それで十分です。」
塩見が静かに答えると、村井は再び炭火に向き直り、準備を始めた。
村井がカウンター奥から羊肉の塊を持ち出し、包丁を手に取る。その動きは一切の無駄がなく、まるで儀式のように静かで丁寧だ。肉の筋を取り除きながら、刃が正確に進んでいく。
茜が思わず声を上げる。
「すごい……包丁さばきが職人そのものですね。なんだか、芸術を見てるみたいです。」
「肉を切るときの包丁の動きは、味を決める一歩だ。いい肉でも、切り方を間違えれば台無しになる。」
塩見がぽつりと言った。
村井は茜に目もくれず、黙々と作業を続ける。その後、特製のタレに漬け込んだ肉を炭火で焼き始めた。肉が炭火に乗ると、「ジュウッ」と心地よい音が響き、香ばしい匂いが店中に広がる。玉ねぎとピーマンも炭火で軽く焼かれ、その甘みを引き出していく。
「うわ……この匂いだけでご飯三杯はいけますね!」
茜が笑いながら言う。
塩見はただ無言でその様子を見つめていた。
やがて、焼き上がったジンギスカンが皿に盛られ、塩見と茜の前に置かれた。羊肉の脂がほんのり光り、炭火の香ばしい香りが立ち上る。その横にはこんがり焼けた玉ねぎとピーマンが添えられている。肉の表面には、特製タレがしっかり絡んでおり、見るだけで食欲が湧いてくる。
「いただきます!」
茜が勢いよく箸を伸ばし、羊肉を一口頬張る。
「……う、うわっ!これ、めちゃくちゃ美味しい!肉が柔らかいのに噛むと弾力があって、炭火の香りがすごい!」
茜は目を輝かせて興奮気味に叫ぶ。
塩見も静かに肉を口に運ぶ。一口噛むと、羊肉の旨味がじんわりと口の中に広がり、炭火の香りとタレの深い味わいが調和していた。
「……見事だ。」
塩見が低く呟いた。
「美味いだろう。」
村井が炭火を見つめながら言った。
「この味を出すために、何十年もかけてきた。炭の火、肉の切り方、タレの調合……どれか一つでも崩れれば、この味は生まれない。」
茜が感嘆したように言った。
「これだけ丁寧に作られた料理、こんな山奥まで来る価値ありますね!」
塩見は村井をじっと見つめながら言った。
「一つ聞きたい。この味は、誰のために作っている?」
村井は一瞬手を止めたが、すぐに炭火に目を戻した。
「……俺自身のためだ。」
その答えに、塩見は何も言わず、再び肉を箸でつまんだ。
次回予告
炭火で焼かれる一皿に込められた職人の想い。その影で見え隠れする親子の葛藤と、伝統を守り抜こうとする信念の狭間にあるものとは――。
次回、「伝統の煙、革新の火花」――一皿に込められた想いが交差する。
読者へのメッセージ
料理とは、技術だけでなく、作り手の想いが込められたものです。今回のジンギスカンは、炭火の香りとともに職人のこだわりを感じられる一皿でした。次回も、塩見と茜の旅を通して、人と料理が紡ぐ物語をお楽しみください!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます