第7話 スープに込める情熱

店を出た塩見と茜は、静かな夜の街道を歩いていた。街灯がぽつぽつと続き、冷たい風が二人の頬をかすめる。遠くの空には星が散りばめられ、茜はその美しさに見とれながら歩いている。


「塩見さん、さっきのラーメン、私は本当に美味しかったと思うんですけど……。」

茜が少しためらいながら言葉を選ぶ。


「美味い。それは間違いない。」

塩見は淡々と答えた。


「でも、何がそんなに足りなかったんですか?確かに言われてみれば“温かさ”とか“想い”とか、そういうものかもしれないけど……そんな曖昧なものでラーメンの味が変わるんですか?」


茜の問いに、塩見は足を止め、夜空を見上げた。


「料理ってのは、人の心を満たすものだ。味覚を満たすだけじゃ足りない。人の記憶に残る一杯には、作り手の想いが溶け込んでいる。だが、あのラーメンは技術の頂点にいるようで、どこか冷たい。」


「冷たい……」

茜は呟くように繰り返した。


「高田はフレンチの世界で評価されることを捨て、自由を求めたと言った。だが、まだ評価を恐れている。あのラーメンからは、過去の縛りを完全に断ち切れない彼の迷いが見える。」


茜は少し考え込むように黙り、ぽつりと言った。

「じゃあ、あの人が本当に自由になれたら、もっとすごいラーメンが作れるんですか?」


塩見は再び歩き出しながら、小さく頷いた。

「そうだ。料理人が自由になると、料理も自由になる。」


その頃、高田は静まり返った店内で一人鍋の前に立っていた。先ほど二人が去ったあとも、鍋の中でスープが湯気を立てている。高田は無言でスープをかき混ぜ、その底に沈む鶏の骨や魚介の出汁を見つめていた。


「俺のラーメンに、俺自身がない……か。」

塩見の言葉が頭を離れない。彼は何度もその言葉を反芻していた。


フレンチの厨房で働いていた頃の記憶が蘇る。星付きレストランの厳格なキッチン。秒単位の正確さ、盛り付けの美しさ、シェフの指示に従うだけの自分。評価を得るために、完璧な料理を作る。それが全てだった。


「俺は、あの世界を捨てたはずだったのに……。」

高田は目を閉じ、深く息を吐いた。


フレンチから離れたことで自由を手に入れたつもりだった。だが、気がつけば自分のラーメンにも、その頃の“正解”を押し付けていたのではないか。自由でありたいと願うほど、自分自身を縛りつけていることに気づいてしまった。


高田は冷蔵庫を開け、仕込み用の食材を取り出した。再びスープを温め直し、同じようにラーメンを作り始める。今度は、塩見の指摘を受けて少しだけ手を加えた。オイルの量を調整し、鴨肉にもう少し火を入れ、トマトの炙り方を変えた。


「これでどうだ……。」

高田は自分でスープを口に運ぶ。だが、それはどこか自分の中で“正解”とは言えない味だった。


「……まだ何かが足りない。」

高田は無意識に呟く。自分で作りながら、その一杯に対して満足感を得られない自分に気づく。


ふと、厨房の片隅に置かれた古い包丁が目に入った。それは、父親から譲り受けたものだった。高田が料理人を目指した頃、父親がいつも使っていた包丁だ。彼はその包丁を手に取り、思わず手のひらでその重みを感じた。


「……俺が初めてラーメンを作ったのは、親父のためだったな。」

高田は独り言のように呟いた。


彼が初めて作った料理は、父親に食べてもらうためのラーメンだった。家庭用の鍋で出汁を取り、醤油で味付けした簡単な一杯。だが、それを父親は「美味い」と笑顔で食べてくれた。


「いつから、俺は誰かに笑顔を届けることを忘れたんだろう……。」

高田の目の奥に一筋の光が差し込むようだった。


翌朝、高田は早くから仕入れに出ていた。魚介の鮮度を確かめ、鶏ガラの質を見極める。その目には、いつもの迷いではなく、何か新しいものを探そうとする力強さが宿っていた。


「料理人として、俺はもう一度やり直せるのかもしれない。」

彼は自分に言い聞かせるように呟いた。


スープの仕込みに入る高田の手つきは、これまでのルーティンとは違っていた。そこには、自分自身と向き合おうとする姿勢が見え隠れしている。


「塩見……あいつの言葉が正しかったかどうかは分からない。でも、俺が変わらなきゃ、この店も、この一杯も変わらない。」


高田は新しいスープを仕上げるため、鍋の中に一つ一つの材料を丁寧に加えていった。その手元には、かつてのフレンチ技術だけでなく、彼自身の記憶や想いが少しずつ混ざり始めている。


その頃、塩見と茜は次の目的地へ向かう車に乗っていた。窓の外には広大な牧草地と青い空が広がっている。


「塩見さん、次はどんなお店に行くんですか?」

茜がスマホを弄りながら聞いた。


「北海道の北部に、ジンギスカンを極めた店がある。」

塩見が短く答えた。


「ジンギスカン!やっぱり北海道といえばそれですよね!でも、そのお店もまた厳しい評価するんでしょ?」

茜が笑いながら言う。


「店を厳しく見るんじゃない。料理を真剣に見るだけだ。」

塩見が静かに答える。


車は広大な北海道の風景の中を進み続けていた。どこかで再び、高田の一杯に出会う日を期待しながら。


次回予告


迷いを捨て、新たな一歩を踏み出した高田。そのラーメンがどのように変わるのかは、まだ誰にも分からない。一方、塩見と茜が次に訪れるのは、ジンギスカンを極めた一軒の店。そこでは、また新たな物語が待ち受けている。


次回、「肉と煙の交差点」――北海道の大地が育んだ一皿が描く、人と人のつながり。


読者へのメッセージ


料理は、作り手の過去や想い、そして未来への願いを映し出す鏡です。高田が自分自身と向き合い始めたように、この物語を通じて料理の本質に触れていただければ幸いです。次回も、美味しさと人間ドラマをお楽しみに!

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