海に沈むジグラート⑨

七海ポルカ

第1話

 光の船がゆったりと水路を進んでいく。

 浮かんだー! と少年が手を叩いて喜んでいる。

 ネーリは彼を抱きあげて、水路の向こうまで見えるようにしてやった。

 はしゃいでいる少年に、優しく笑いかけてやっている彼を見て、フェルディナントも穏やかな気持ちになったが、ふと、生まれてから一度だけ再会した、幼い妹のことを思い出した。

 数日間のことだったけど、生まれた時から離れ離れになっていたため、初対面の時は距離感が分からず、妹は兄としてフェルディナントを慕って、親しみを持ってくれていたのに、自分は戸惑って、幼くても初めて会う小さなレディだと思って、妹と言えども気安く抱き上げたりしてはいけないと、そんなことばかり考えていた。

 何度かだけ握ってやった小さな手の感触を覚えている。

 本当は彼女も、あんな風に抱き上げたら喜んでくれたのだろうか。

 それとも女の子だから、そんなのは恥ずかしいと顔を伏せてしまっただろうか。


 光を浮かべ、花びらを水路に降らせて、ヴェネトに古くから伝わる歌を歌い……。

 穏やかな夏の夜だった。


 やがて鐘が鳴った。

 そろそろ守備隊本部の教会に戻る、とネーリに告げると、彼は送ると言ってついて来た。

 危ないからいいと断わったが、こんなに賑やかなんだから危なくないよ、と笑いながらついて来る。

 確かに家にも店にも、通りにも明かりがついて、人がたくさん出歩いていて、暗い夜道というわけではない。ネーリと一緒にいたかったので、強くはフェルディナントは止めなかった。

「飛行演習許可が出て本当に良かったね、フレディ。駐屯地のみんなも喜んでた」

「ああ、本当にな……。人間の不満より、竜の状態が心配だったから良かったよ。本国では基本毎日騎竜は飛ばして飛行演習を行うから」

「そうなんだ。それじゃ、あの子たちもすごく飛びたかっただろうね」

「そうだな……」

「騎竜は愛玩動物じゃないから、気安く撫でたりしちゃダメだってフレディ言ってたけど、あの子たち僕にはすごく可愛く見えるなあ。ちゃんと躾けられてて、お利口さんだから。

身体を洗ってもらったり、防具を付けてもらう時、あの子たちってちゃんと世話をしてる人の顔を見るんだね。じっと見てるんだよ。一度顔を見たら忘れないって言ってたけど、なんか分かったよ。確かにあれだけじっと見てたら覚えるよね。竜って視覚からの情報ってすごく大切なんだ」

「そう言われてるな。人間の何倍も優れた視力を持っているとされるから。聴力も、嗅覚も、全ての生き物の頂点に立つと言われている」

「野生の竜は、見つけ次第捕まえなきゃいけないって言ってたよね? 結構いるの?」

「いや。滅多にいないよ。さっき話していた飛行演習の話があっただろ? あれは実は、野生の竜を探す任務も兼ねてる。でもそこが難しい所で、実際どれくらい神聖ローマ帝国に野生の竜がいるかは分からないんだ。当然野生の竜も優れた能力を備えているから、奴らは騎竜を非常に警戒してる。毎日ルートを変えつつ竜騎兵団が国中を飛行するから、野生の竜は警戒し、洞窟などに身を隠してることが多い。建国されてからのことだ。だから何百年も生きてる奴は、多くが翼が退化して、飛べない状態になって地に潜んでると考えられてる」

「じゃあ、神聖ローマ帝国の地下にはいっぱい野生の竜がいるかもしれないの?」

 そんな風にネーリが素直に首を傾げたので、地下に竜がいっぱい……と想像したフェルディナントは笑いながら答える。

「分からないが……そうかもしれないな。そういう隠れ住んでる竜が時折卵を産んで、奇跡的に雛が孵る。そういう奴らはまだ騎竜を警戒してないから、外に出てきて飛んだりするんだよ」

「フレディも見つけたことある?」

「一匹だけ見つけたことがある。フェリックスがな」

「それでも一匹なんだ。本当に稀なんだね」

「うん」

「その子捕まえたの?」

「フェリックスに対して素直に服従を示したから、戦闘にはならなかった。捕まえて、調教したら人を乗せられるようになったよ。騎竜になってる」

「そうなの。良かったね」

 攻撃的過ぎると処分されることもあると聞いていたので、ネーリはホッとしたようだ。

「竜が好きか」

 優しい声で尋ねてみる。

「今日で大好きになったよ」

 ネーリがそんな風に言ったので、フェルディナントが声を出して笑った。

「けど……お前も画家にしては度胸があるよな」

「?」

「フェリックスは確かに最初からお前に懐いていたけど、それでも竜は容貌があんなだから、普通人間は怖がる。でもお前は最初から竜の顔とか爪を触りに行ってた。普通はああいう所は触りに行かない。行っても恐る恐る胴とかだ。なかなかだぞ」

 ネーリは目を瞬かせてから、吹き出した。

「そこまで考えてなかった。爪とかどうなってるんだろう、って気になって。気になると見たくなっちゃうんだ。絵に集中すると周りが見えなくなるってこういうことだね」

「職業病ってやつか」

「でも騎竜はどれも賢そうで可愛かったけど、一番可愛いのはやっぱりフェリックスだよね。僕が絵を描いてると、ふと気付くと側でお行儀よく座ってるんだよ。絵を見てるみたいだった。フレディの騎竜だから、フェリックスも絵が好きなのかな」

 そんなことはないと思うが、フェルディナントはそんな風に言ってるネーリを優しい表情で見ている。怖いとか、立派だとか、そんなことは竜に対して言われたことはあるが、彼らを「可愛い」とか「絵が好きなのかな」とかそんな表現をした人間は初めてだった。

「副官さんが駐屯地を案内してくれた時もね、最初いなかったのに気付いたら後ろについて来てたの。歩いて来て、僕が説明受けてると、ちょっと離れたところで座って待ってるの。あの子本当に好奇心旺盛だねえ」

「騎竜としては、あんまり誉められた素質じゃあないんだけどな」

 確かに、フェリックスは元々好奇心は旺盛だった。言われて思い出したが、騎竜として選んで調教し始めた時は、そういうことをフェルディナントに対してもよくしていた。しかし無駄にウロウロするな、と教育したので、徐々にそういう子供っぽい所は減って行き、風格と落ち着きが出てきた。

 ネーリに会ってから見せたあの反応は、まだ成熟していない時のフェリックスがよく見せていた仕草だったのだ。これは本当に、刷り込みの可能性が強くなっている。いずれにせよ、不思議な縁だったけれど。

「そうなの。でもあんまり……叱らないであげて」

 ネーリは優しい声で笑った。

「あの子にはあのままでいてほしいよ」

「……。ネーリ」

 水路の側で、フェルディナントが立ち止まった。

「これはその、単なる提案なんだが……」

 ネーリがフェルディナントの方を振り返る。

 最近理解し始めた。フェルディナントは若いが、生粋の軍人として生きてきて、己の感情を上手く押し隠す術を心得ている青年だった。それでもフェリックスのことを彼が叱れないのは、彼自身本当は、とても感受性豊かな性格をしているからなのだ。

 犬は飼い主に似るというけれど……。

 竜も、もしかしたらそうなのかもしれない。

 本当のフェルディナントは、もっと感情が豊かなのだ。それを使命という殻に普段押し込んでいる。だから時々、こうやって素の彼の感情や行動が見えると、ネーリは嬉しくなった。本当の彼に触れられてるみたいで、うれしい。

 フェルディナント自身は、すごく難しい任務をするような顔をしているけれど、彼がこんな顔をして、次に何かを言おうとして来る時、思いがけないことを言って来ることが多くて、ネーリは何だろうと密かに楽しみにするようになって来ている。

「よ、良かったら、駐屯地の騎士館に住まないか」

「えっ?」

「いや、その……、お前を泊めるための理由で、話したんだ。あいつらに。襲撃事件が収まるまでは危険だから、駐屯地で保護するって……。確かに、咄嗟の説明だったけど……半分は本気だ。勿論お前を保護したからもう安心だとか、そんな風には考えてない。あの仮面の男は、必ず俺が捕まえて王都には平穏を取り戻すつもりだけど、その……。たしかに、少しだけ時々、お前が心配になることがあるんだ。お前はよく夜にも絵を描きに行くし、教会は開けっ放しだし、干潟の家にも鍵なんかないし……、今まで平和でやって来れたからこそなんだろうけど、俺はまだヴェネトに慣れてないから、今頃大丈夫かなって夜よく……」

「……眠れなくなる?」

「ね、眠るけど。平気かなあと考えることはある……」

「フレディがそんなに僕のこと心配してくれてるなんて知らなかった」

 ネーリは軽く笑ったが、フェルディナントは驚いた表情をする。

「してるに決まってるだろ……!」

 思わず強めに言ってしまった。フェルディナントは額を押さえる。

 ああ、違う。

 責めてるみたいな言い方になってしまった。そんなんじゃない。心配してると、伝えたかっただけだ。平穏に、幸せに過ごしていて欲しいから。

 でも、今、ネーリは本当に言われて驚いたみたいな顔をした。

 自分が、心配されてるってことは、彼にとってそんな驚くくらい、経験のないことなのか、と思い知る。

 フェルディナントは言葉が上手く出て来なくなって、自分の金髪をくしゃくしゃと煮詰まったように掻き回すと、すぐそこにあった細い路地にネーリの手を引いて、曲がった。

彼の身体を路地の壁に立たせると、両手で頬を包み込み、唇を重ねる。ネーリの肩が一瞬竦んだが、すぐに、ゆっくりと、肩が下がった。数秒唇を這わせて、ゆっくりと放すと、目を伏せていたネーリがそっと開き、瞳を上げた。

 鼻先に目が合い、視線が絡み合うと、刹那のあと、もう一度唇が重なって、今度は余程素直に、感情が出た。ネーリの柔らかい唇を夢中で探る。彼の手がフェルディナントの手首を掴み、だが、拒まず、キスに応えてくれた。それを理解するともう、戸惑いとか恐怖とか、遠慮とかが消えて、止まらなくなる。

 水路の明かりがほのかに届く薄明りの中、目を閉じて夢中で唇を合わせていると、しばらくして、側を人が通り、冷やかすような口笛が吹かれた。

 はっ、とフェルディナントは我に返って、ネーリの唇を放す。

「ご、ごめん」

 思わず口にしていた。

 ネーリは少し俯いて、濡れた唇を指の背でそっと押さえるような仕草を見せた。一瞬の仕草だったが、ひどく美しく見えて、フェルディナントは言葉を失う。

「……ううん、へいき……」

 彼が小さくそんな風に言ってくれたから、ゆっくり腕を伸ばして、ネーリの身体を抱きしめた。

「…………言い訳がましかったな、おれ……」

 フェルディナントは呟いた。自分に呆れる。

「……そんな理由でも、ただ、お前に側にいて欲しかったんだ」

 ネーリは俯いた。

 世界で誰も自分に言ってくれなかった言葉。

 多分、それは特別な言葉で、祖父が亡くなって、遺言が正しく守られた結果、お前には何もないのよと、とあの人に言われた時、ただそうなのかと思っただけだった。

 祖父は自分を色んな世界に連れ出してくれた。その時の記憶が、今、絵を描くための糧になっているから、きっとそれを残してくれたのだと思ったから、感謝した。

 祖父が自分と一緒にいてくれる、それ自体が贈物だと思ったから。不幸にも亡くなった時、時々どうだったのかなと思い起こすことがある。祖父はあの時亡くならなかったら、生きていれば、自分とずっと一緒にいてくれたのだろうか? それともいつかは、生きていても離れるつもりだったのか。

 それが分からなくて、ヴェネツィアはお前の街だという、あの幻想のような言葉が気になって、離れられなかった。

 大好きな街だったのもある。

 祖父のあの不思議な言葉と、幼い頃の不思議な思い出が、自分がここを離れては行けないんじゃないかと思わせていたが、壊れていくヴェネツィアに対して何も出来なくて、きっとあの言葉は何かの間違いだったのだと思うようになった。

 自分の街なんかじゃない。ここはヴェネト王宮にいる兄のもので、自分には何の所縁も無かった。好きだというのは自分だけの想いで、ヴェネツィアも別に自分を求めていないと感じたら、徐々に、ここにはいるべきじゃないのかな……という気持ちになって行った。

 それが、不意に現われた男が突然、自分が一番欲しかった言葉を与え出して、……正直な所戸惑っている。折角諦めて歩き出したのに、空から降りてきて「離れたくないなら離れないでいい」と言って。

 今度はこれだ。

 ただ側にいて欲しいなんて。

 一番誰かに言って欲しかった言葉が心に無造作に投げ込まれる。

 どう答えればいいかなんて、分からないよ。


「ネーリ」


 フェルディナントはそっと頬に触れてきた。

「……また、その顔をする」

 どうしてなんだ。

 彼は才能があって、こんなに温かな人柄をしてて、愛されることの出来る人なのに、フェルディナントにはネーリが時々、自分は誰にも必要とされていないと思い込んでるように思える。

 自分の絵も、

 自分の名前も、

 誰も必要とされてないかのように無造作に彼は置くから。

 俯いたネーリの額に、もう一度覗き込むようにキスをした。

「なんでそんな……困惑したみたいな顔するんだ。予想もしなかったこと言われたみたいな」

 フェルディナントは確かに、置かれた立場や身分を考えると、その割には色恋沙汰を避けてきた所はあった。両親がそもそも愛し合って寄り添うような生活をしていなかったので、愛というものが分かりにくかったというのもあるけれど。だからといって何も恋愛が何も分からない朴念仁というわけではないのだ。

 士官学校時代も、宮廷でも、女性から「声を掛けて欲しいのに」という視線を向けられていることもちゃんと気付いていたし、多分彼女達が自分に何を求めているかも分かっていた。それでも一切応えなかったのは、今自分が色恋などに時間を割くことは出来ないのだという想いからで、エルスタルが滅んでからは一層その想いは強くなったけど、気付いていなかったわけじゃない。

 ――だからそれを考えれば、フェルディナントはネーリには最初から、自分でも信じられないほど、積極的に想いを伝えていると思っている。

 好きだし、大切だし、君は素晴らしい人だと言葉に出しても伝えてるのに、ネーリはいつも、一番最初は驚いた顔をする。そんなことを言われると思いもしなかった顔だ。

 彼がそうすることと、孤独に彷徨っていた七年のことが、もしくは、『ネーリ・バルネチア』という名を、絵に刻みたくない理由が繋がっているのか、知りたくて堪らない。

 何を聞いたって、事実が何であれ、聞けば、絶対に「そんなの関わりない。君が好きだ」と言ってみせるのに。

「ネーリ。

 俺はお前が好きだ。

 ……だから、側にいてほしいんだ。

 勿論教会のアトリエや干潟の家のアトリエや、他のアトリエで描きたい時は自由にそうしていい。でもそれ以外の時は、俺の側にいてくれないか」

 相手の理由も分からず、ただ恋心を打ち明けて訴えることしか出来ない。こんな情けないことはないけど、でも何もしないよりはましだ。フェルディナントの気持ちはそうだった。

「俺の側で、絵を描いて欲しいんだ」

 黄柱石の瞳が自分を見てくれた。

「……嫌か?」

 視線が一瞬逸らされ、フェルディナントが自分に失望するより早く、ネーリが首を横に振った。

「本当に?」

 うん、と頷く。

「本当か? 今日からだぞ。今日これから、眠る時は駐屯地に戻って欲しいってことだぞ」

 本当に伝わってるのか不安になって、再度確認してしまう。

「うん……分かってる。フレディがそうしていいって言ってくれるならそうする。僕、どうせいつも今日はどこのアトリエで寝ようかなって考えてるから……」

「そう……なのか?」

 うん、とネーリは頷いた。

「アトリエっていうほどじゃないけど、描きたい時に使っていいよって言ってもらってる倉庫とか、場所とか、幾つかあるんだ。ほとんどは今手掛けてる絵のところに行くけど、夜中までスケッチして歩いてる時は、一番近い所に行って仮眠を取ったりしてる」

 一体どこで寝泊まりしてるんだろうと思っていたけど。

「だから、嫌なんかじゃないよ。フレディ。晴れた時しか使えない場所もある。だから、僕にとっては騎士館に泊っていいなんて、すごく有り難い話なんだ」

「有り難い話だと思ってくれるなら、もっと嬉しそうに言ってくれ」

 フェルディナントはネーリの額に、額を寄せた。

 安堵の溜息をつく。

「全然嬉しそうじゃないから、迷惑なのかと思った……」

「ごめんね、そうじゃないんだ。すごく嬉しかった。驚いたけど……、そんなこと、言ってもらえると思わなかったから」

「言うよ」

 もはやちょっと怒った声になってしまった。怒ってないことを伝えたくて、声は怒ったが、優しくネーリを腕で包み込む。

「……頼むから、…………もう少しだけでいい、俺を信じてくれ」

 縁も所縁も無い所から現われた男なんだから、それは、簡単にそうも行かないのは分かっているけど、言わずにはいられなかった。

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