月をください

明日和 鰊

月をください

「月を譲っていただけませんか?」

 駅前の交差点で信号待ちをしている時、突然背後から声を掛けられた私は、意味が分からず、

「あの、夜に見える月?」と空を指さして聞き返した。

 相手は深くうなずくと、

「今のあなたにとって月は必要でしょうか?太陽であればこの地球に熱という恩恵を与えてもくれます。しかし月はどうでしょう、あなたは月に恩義を感じたことはございますでしょうか」

 その声は交通量の多い市街地の駅前でもよく耳に届き、まるで吸い込まれるように、私は通勤中だというのに立ち止まって聞き入ってしまった。


「恩義ねえ。よく分からないけど、夜空に月が無いというのは少し寂しいなあ」

「いやいや、それは感傷というものですよ。太陽と比べれば月はそれほど珍しいということもなく、数多ある宇宙に浮かぶ天体の一つにすぎません。ただ近くに見えるというだけで、特別だと感じているのではありませんか?」

「そういえば、たしか月は地球にとって唯一の衛星だと聞いたことがある。やっぱり私たちにとっては特別なんじゃないかなあ」


 相手はその言葉に頬を緩める。

「いえいえ、そう謙遜なさらなくてもよろしいではありませんか。あなたがたはすでに自分たちの力だけで衛星を飛ばしていらっしゃる」

 言葉を発するたびに、相手の口の端がどんどんつり上がっていく。

 ザワッとした嫌悪が心の中に湧いてくる。それでも、その言葉から耳を離すことが出来ない。

「なるほど、たしかに人工的に作られたものより、自然に出来たものの方が価値があるという考え方もあります。ですが養殖の魚は天然物に味が劣るでしょうか?あなた自身はどちらでも構わないのではありませんか?」

「あんた、私を味オンチだと馬鹿にして……」

「これは失礼をいたしました。しかし、あなたの味覚を疑っているのではないのです。お伝えしたかった事は、物の価値とは希少性ではなく、その効果に重きを置くべきだと申し上げたかったのです」


 私が反論をしようとすると、相手はすぐに非礼を詫びてその反論をさえぎった。

 慇懃無礼な態度に腹がたったが、すでに二度も信号は赤を終えているというのに、私はこの場所を離れることが出来なかった。

「街の雑貨屋で売っているバッグも、ブランド店の高級バッグも、物を運ぶという機能は何ら変わりはありません。むしろその差額であなたの生活を充実させた方が、人生においては価値があるのではないかと考えていまして」

「しかしなあ、ブランド品にはブランド品の良いところも……」

「何も希少品の美点を否定しているわけではないのです。人によっては社会的成功の証明や努力の証として持たれる方もおります。それはそれで意味のあることだとは思いますが、それらはより多くの人々にとって、御自身の生活よりも優先すべき事でしょうか?」


「あんたは何を言いたいんだ?それが月を譲ってくれって話と、どう関係するんだよ」

 相手の遠回しな物言いに、つい苛立って私は相手を怒鳴ってしまう。

「もし月を譲って頂けるのであれば我々は、月の代わりと平和と飢餓に苦しむことの無い世界をご提供できる技術の準備があると申し上げたかったのです」

 相手からかけられる圧力が、私を押しつぶしそうなほど増したことが、知らず知らずの内に後ずさりしていた事に気付いた時わかった。

「わ、わたしひとりで決められる事じゃ……」

「あなたひとりで決めるのではありません。この星の住民の全てからアンケートうかがっております。あなたの勇気ある御判断によって、あなた自身が誰かから責められるというような事はございません」

 相手に何か言い返そうと頭をめぐらしたが、そもそも月は夜空にあるのが当たり前で、特にその存在について考えたことも無い私は、反論する言葉を持っていなかった。


「あなたにとって価値を見いだせない月と、世界中の問題を解決できる技術、どちらが大事だと御思いですか。これはどちらにとっても意義のある取引なのですよ」

 圧力に屈して私はとうとう地べたに膝をつく。

「もし譲っても良いと思ってくださるのでしたら、」

 相手は私に合わせかがむと、優しい声音で語りかけて指輪のような物を差し出す。

「このリングに指を通して頂ければ、賛同の御意志をしめすことができます」

 相手は私の右手首を、そのゴツゴツとした三本の指で軽く掴んだ。

 抵抗する気力も失い、私は相手の言うがままにリングに指を通してしまう。


「おお!あなたの回答でやっと承認に必要な数が揃ったようです。感謝します」

 相手は深々と頭を下げると、消えていった。人混みにという意味ではなく、徐々に身体が透けていき、風景の中に溶け込んでいったのだ。


 私はしばらくその場に呆然としていた。

 しかしだんだんと時間が経ってくると、相手の顔が頭の中で焦点をむすびはじめて、私はナニと会話をしていたのかわからなくなった。


 その日の夕方、パピル星という星に月が譲渡される契約がなされた事が、世界中で報道された。


 十年の準備期間の後、月が正式にパピル星に譲渡される日がやって来た。

 たしかにこの十年間で、パピル星人の言うとおりに、戦争と飢餓は彼等の技術力により無くなった。

 地球人の中でパピル星人への不満が上がると、契約を盾に地球に介入し、契約違反と難癖を付けては、その圧倒的技術力によって、全ての国家を解体し武器を没収した。

 食料問題も、パピル星の繁殖力の強い植物を植えると即座に解決した。

 ただ、それらの植物は総じて地球人の口に合わず、その繁殖力により地球の在来植物はほぼ全滅をしてしまった。


 そして今日、最後の砦とも言える月が、パピル星人の手に渡ってしまう。

 譲渡契約が発表された直後、一部の学者たちがメディアで訴えていたのが月の重要性だった。

 月の引力が今の生物や地球にとってどれだけ重要であるかを。

 しかしそれらの学者は、一人また一人と表舞台から消えていった。

 パピル星人の技術によって、その代用品は同じ機能を果たしてはいるが、それらの管理は彼らが行うことで、地球の生物は命綱を握られているのだろう。


 空中モニターには、パピル星人の宇宙船によって牽引されていく月が映し出されている。

 月の裏側が映像に映し出された。

 初めて見るクレーターだらけのその背中に、私は涙を流していた。

 大事なものは失ってから初めてその大きさに気付く。

 私は自分の深く考えず選んだ結果の重さを、やっと実感する。

 嗚咽をもらしながら泣いている私に、隣の部屋からも同じように泣いている声が厚い壁越しにも聞こえてくる。

 いや、隣人だけでなく地球上の生物全てが、今この時 同じように泣いているのだ。

 その涙が大波となってうねりをあげる音が、私には聞こえた様な気がした。

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