第9話 危うい夜

 午後6時、定時になるとパソコンの電源を落とし、席を立ちながらまだ仕事をしている平川たちに声をかける。


「それじゃ、お先に」

「お疲れ様~」


 平川と玲奈の見送りを背に受けながら会社を出ると、速足で駅へと向かう。駅に着いて改札へ向かうのではなく、まずはコインロッカーへ向かった。

 ロッカーを開けると、中には紙袋が一つ。これを取り出し、駅前のネットカフェへと足を運ぶ。


 個室のドアを閉めると、手早く上着を脱ぎ、ネクタイを外して着替えを始めた。


 初めて玲奈に飲みに誘われたときは早退して家に戻り、着替えをしてから待ち合わせに向かっていた。しかし、飲みに誘われるたびに早退を繰り返していては怪しまれる可能性がある。そこで、事前に予定があるときはこうして会社帰りに着替える方法を取るようになった。


 今日のコーディネートは、11月下旬の肌寒い季節に合わせて、ダークグリーンのニットに、シンプルな黒のフレアスカート。アウターにはキャメル色のチェスターコートを選んだ。控えめながら、女性らしさを意識した組み合わせだ。


 服を着替え、メイクも整え終わると、一時間弱でネットカフェを出た。そして再び駅のロッカーに立ち寄り、スーツを預けて玲奈との待ち合わせ駅へと向かった。


 駅前で待つこと5分、「遅れて、ごめん」ハイヒールの音を響かせながら玲奈が駆け寄ってきた。


「わ~、今日の菜々美ちゃんのコーデ最高!」

「ありがとう。ネックレス派手かなと思ったけど、大丈夫かな?」


 アクセントにつけたゴールドのチェーンネックレスを触りながら、玲奈に尋ねると目を輝かせて今日のコーデについて語り始めた。


「それぐらい、普通だって。むしろこのチェーンネックレス、シンプルコーデのポイントになってるよね。ダークグリーンのニットって少し重たく見えることもあるけど、ゴールドを合わせたことで華やかさが出ててバランスがいいし。キャメルのコートも肌なじみが良くて、全体的に温かみがある印象。タイツも透け感がちょうどいいし、今の季節にぴったりだと思う!」


 早口でまくし立てる玲奈の言葉に思わず笑顔がこぼれた。

 彼女は自分のセンスを押しつけるわけではなく、どうすればよりよく見えるかを自然にアドバイスしてくれる。そのおかげで、我流だった自分のファッションセンスも少しずつ変わってきた。


 思い返せば最初の頃は、玲奈に教えてもらった服やコーディネートをそのまま真似るのが精一杯だった。それが今では、自分なりに工夫して組み合わせを考えられるようになっている。それでもまだ、玲奈のような洗練されたセンスには及ばないけれど――そんなことを考えながら、ほんの少しだけ誇らしい気持ちになっていた。



 駅から歩いて向かったのは、創作ダイニングの店。

木目調のインテリアと間接照明が温かみを演出し、静かな音楽が流れる落ち着いた雰囲気の中、席同士の間隔も広めに取られている。周囲を気にせず、気軽に会話を楽しめる環境だ。


「肩幅広いのが悩みだけど、何か目立たないコーデあるかな?」


 玲奈がグラスを片手に語りだす。


「ああ、それだったら、Vネックのトップスやドレープのあるデザインがいいかも。縦のラインが強調されるから、肩幅が目立たなくなるよ。あと、ボトムスにボリュームを持たせると全体のバランスが良くなると思う」


「そっか、じゃあAラインのスカートとかもアリだね!」


「うん、絶対似合うと思うよ!」


 ほろ酔いでご機嫌な笑顔でグラスをテーブルに置いた。


「菜々美ちゃん、そうやって何でも聞いてくれるから嬉しいな」


「聞いてばかりで、ごめんね」


「いいのよ。教えるの楽しいから、妹ができたみたいで私も楽しいよ」


 玲奈はニッコリと微笑む。その一言に、正隆の胸の奥が不意にチクリとした。


――妹、か。確かに、今の姿の自分はそう見えるのかもしれない。会社では上司なんだけどなと、心の中でツッコミを入れた。


「菜々美ちゃん?どうしたの?」


 玲奈の声にハッとし、慌てて「ううん、何でもない」と返す。


「ああ、そうだ。まだ喋り足りないから、この後ウチに来ない?明日休みでしょ?飲み明かそうよ」


「えっ!?」


 突然の誘いに動揺を隠せない。ウチに行く――つまり、玲奈の部屋に行くということだ。


「え、でも、そんな……急に……」


「いいじゃん!ウチ、散らかってるけど気にしないで。それに、もっと色々話したいし!」


 玲奈の瞳がキラキラと輝き、その勢いに圧倒される。断る理由を探そうとするものの、言葉が出てこない。


――これ、どうする……いや、むしろ断るべきなのか……?


 頭の中が混乱し、頬が熱くなる。玲奈の笑顔を見ていると、ますます断りづらくなる自分に気づき、焦りを感じた。


 玲奈の部屋は散らかっていると言っていたが、思いのほか片付いていた。


 12畳ほどのワンルームにベッドとソファーが置かれ、シンプルながらも落ち着いた雰囲気だ。ベッドのカバーは明るいパステルカラーで統一されており、部屋のアクセントとして可愛らしいクッションがいくつか並べられている。窓辺には観葉植物が置かれ、小さなランプが柔らかな光を放っていた。


 壁際にはコンパクトな本棚があり、中を何気なく覗いてみると、ファッション誌や美容関連の本が並ぶ中に、「エクセル基本操作」や「これでわかる統計入門」といった実用的なタイトルが目に留まる。


 玲奈の隠れた努力の一面が垣間見れて、思わず口元が緩む。


「改めて、かんぱ~い!」


 アルコール度数3%のチューハイの缶のプルトップを開け、2次会が始まった。玲奈はファッション誌を開きながら、今年の冬のトレンドやメイクについて楽しそうに話し始める。


「それでね、今年は目元をね、アイライナーでくっきり囲うのがまた流行ってるの。何年か前にも流行ったんだけど、今年またきてるの~」


 小さなローテーブルに雑誌を置いて、二人で顔を近づけながら覗き込む。肩が軽く触れ合うほどの距離だが、玲奈は特に気にする様子もなく、親密な雰囲気に心地よさを感じているようだった。


 2本目のレモンハイを半分ほど飲み進めた頃には、玲奈の酔いが回り、だいぶん饒舌になってきた。ふと、雑誌を閉じた玲奈が正隆の肩に手を置き、軽く寄りかかる。


「菜々美ちゃん、意外と体がしっかりしてるよねぇ。なんか、こう……筋肉質って感じ?」


 柔らかく女性らしい体つきの自分とは違う感触に、玲奈が少し不思議そうな表情を浮かべる。その視線に冷や汗を感じながら、咄嗟に答える。


「あ、これ?学生時代に水泳やってて、それで肩幅広いし、筋肉ついちゃってるんだよね。もうコンプレックスでさ……」


 肩幅や体つきに目を向けられるたび、正隆の胸中に焦りが募る。――バレたらどうしよう……いや、玲奈にバレたら、本当に何をされるかわからない。


「そうなんだ~。水泳か~、確かに納得。でも、私が羨ましいくらいのスタイルだと思うよ?」


 玲奈はそう言って笑うが、今度はじっと胸元を見つめている。


「でもさ、菜々美ちゃん……なんか胸が、あんまり……ふっくらしてないよね?」


 悪意のない、酔った勢いの率直な言葉に、正隆の動揺はピークに達する。


「えっ、そ、そうかな?あ、あの……実はBカップなんだけど、見栄張ってパッドでCカップに見えるようにしてるの」


 なんとか切り抜けようとするものの、玲奈は酔いに任せてさらに興味を深めた様子で、手を伸ばしてきた。


「ねぇ、ちょっとだけ触ってみてもいいでしょ?ね、ねっ!」


 その手が胸元に近づいてくるのを見た瞬間、冷や汗が止まらなくなった。触られたら確実にバレる――それだけは絶対に避けなければならない。


「あ、ちょ、ちょっと待っ――」


 慌てて身をよじると、バランスを崩して仰向けに倒れ込んでしまった。


「うわっ……」


 とっさの出来事に息を飲む間もなく、玲奈がそのまま正隆に覆いかぶさる形に。至近距離で見上げる玲奈の顔は、頬がほんのり赤く染まり、潤んだ瞳がきらきらと輝いている。


 ――まずい、この距離は本当にまずい!


 玲奈の柔らかな呼吸が正隆の顔にかかる。アルコールのせいでほのかに甘い香りが混じり、心臓の鼓動が耳元で響くようだった。


「菜々美ちゃん……私ねぇ、酔っ払うとキスしたくなっちゃうんだ~」


 玲奈がぽつりと言いながら、顔をさらに近づけてくる。その瞳は酔いのせいかどこか熱っぽく、理性よりも感情に任せて動いているように見えた。


「ちょっ、ま、待って――」


 言葉を発しようとした瞬間、玲奈の唇が正隆の唇にふれあった。ほんの一瞬のことだったが、柔らかさと温もり、そして唇が重なる感触があまりにも鮮明で、正隆の思考は一瞬で真っ白になった。


 ――ダメだ、こんなこと、ダメだ!


 理性を失いかけながらも、正隆は必死に堪え、玲奈の肩にそっと手をかけて持ち上げた。


「れ、玲奈さん!だ、ダメだよ!酔ってるだけだから!」


 心臓がバクバクと鳴り響き、汗が額を流れる。玲奈は一瞬きょとんとした表情を浮かべるが、酔いで意識が朦朧としているせいか、悪びれる様子もなく「えー、なんでダメなの~?」と甘えた声を出す。


「酔っ払いすぎだから、ほら、もう寝ようね」


 玲奈をそっと抱き上げてベッドに運び、慎重にベッドへと横たえると、玲奈はスヤスヤと寝息を立て始めた。酔いが回っていたせいもあるのだろう。すぐに深い眠りに落ちたようだった。


「……よかった、起きなくて」


 正隆は玲奈の髪が顔にかからないようそっと整えてから、部屋の中を確認した。余計なものを触らないように細心の注意を払いながら、足音を立てずにドアの方へ向かう。


 部屋を抜け出し、廊下を静かに歩きながら、正隆は大きく息を吐いた。


 ――本当にバレなくてよかった……。


 玲奈の酔いの勢いに押されそうになり、何度も正体がバレるのではないかとヒヤヒヤした。もしバレていたら、きっと笑って済まされるようなことではなかっただろう。


 ――いや、それどころか、殺されるかも……。


 タクシーを呼ぶためスマホを取り出しながら、正隆は一人でそうつぶやいた。


 

 

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