第二章 正義の仮面“S”

 ビルの谷間を吹き抜ける夜風が、都心の街を冷たく撫でる頃。

 田原総一朗は、自宅の古びた地下室に佇んでいた。まるで過去の記憶を掘り起こすかのように、薄暗い棚を一つひとつ開いては懐かしそうに見つめる。そこには埃をかぶった古い雑誌や資料が詰まっていたが、彼の目は子どものように輝いていた。


「ここにしまってたはずなんだが。」

田原はカビ臭いダンボールを引っ張り出して、中を探る。書き込みのある漫画の単行本や、少年時代に切り抜いたスクラップ記事がごちゃごちゃと散乱していた。

「田原さん、何を探してるんですか?」

階段の上から顔を覗かせたのは、花村美咲だった。会社でのトラブルがあった夜、田原を心配してついてきたのだ。


「いやな、昔読んだ『ゾロ』の本がこの辺に、あ、あった」

田原は、黄ばんだ表紙の絵本のような薄い本を引き抜いた。表紙には黒いマントと仮面をつけた剣士が勇ましく描かれている。

「ゾロ、ですか? 仮面の剣士が、悪を裁く物語ですよね」

美咲は田原の表情をうかがいながら、懐かしいような面持ちを浮かべる。


「少年の頃、これを読んでワクワクしたのを覚えてる。力なき人々のために、一人で不正と戦う姿に憧れたんだ」

 田原は絵本をパラパラとめくりながら、幼いころに感じた興奮を思い出しているようだった。


「田原さん、今も同じ気持ちですか?」

美咲が尋ねると、田原は少し間を置いて、厳かに口を開く。

「正義のために行動するってのは、単に自分を満足させることじゃない。社会全体にとって必要なことなんだ。だけど、大勢の記者が自分の信念を見失っている。この国が変わっちまう前に、何かをしなきゃいけない」


 彼の声には痛切な思いがにじみ出ていた。会社に押さえつけられ、未知の圧力に晒されてもなお、自分の信念を守り続けようとする姿。その様子を間近で見ている美咲は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


「田原さん、私、さっき家に帰ってからネットを調べました。例の企業と政治家の癒着について、裏で相当の金が動いてるって話がちらほら出てきます。もしそれが本当なら、日本の政治体制を揺るがす大事件です」

「そうだな。それを表に出すには、相手に知られずに動かなきゃいけない」

「でも、オフィスを荒らされただけで、私たちこんなに怯んでちゃダメですよね。もっと強い手段をとらないと、相手に勝てない気がします」


 美咲がそう言うと、田原は微妙に目を伏せ、何かを決意したように絵本をそっと置いた。

 そして地下室の奥、錆びついたスチール棚の扉を開けてみせる。そこには黒い布や工具、裁縫道具などが並んでいた。


「田原さん、それは?」

美咲が目を瞬かせると、田原は真剣な表情で口を開く。

「実はここ数日、考えていた。いまのメディアじゃ、不正を追及するのは難しい。社員という立場では記事を握りつぶされるし、俺の存在はすでにマークされている。だったら、匿名で記事を出すしかない」


「匿名で?」

「そうだ。名乗りを上げたらすぐに潰される。だが、俺が誰だかわからなければ、連中も簡単には手を出せないだろう。ネットを使うんだ」


 田原はその黒い布を手にとって、懐かしそうに眺めながら続ける。

「子供の頃の『ゾロ』のように、不正を暴く仮面のヒーローが今の日本には必要なんだ。だから俺は、仮面を被って立ち上がる。名を、“S”とする」


 美咲は信じられないという面持ちで田原を見つめた。

「仮面を付けてネットに記事を投稿、そんなこと、本当にできるんですか?」

「技術的にはそう難しくない。専門家に相談して匿名のサイトを立ち上げる。こちらの身元を隠しつつ、入手したスクープを立て続けに放出するんだ。公の目に触れれば、やつらも完全には隠し通せない」


 田原の瞳には、少年の頃に戻ったかのような決意と情熱が宿っていた。

 美咲は少し呆気に取られたようだったが、すぐに真剣な表情で応じる。

「私も協力します。今のやり方じゃ、腐敗を止められない。誰かが新しい方法で、真実を届けるべきですから」


 すると田原は、微笑むでもなく、ただ力強くうなずいた。

「ありがとう、美咲。だが、この道は危険だ。お前に不利が及ぶかもしれない」

「かまいません。田原さんに着いて行きます。私もジャーナリストですから」


 そして二人は夜の闇の中、地下室の簡素な作業台の上で、黒い布を手に取りはじめた。田原は裁縫道具を使い、鼻と口を隠すタイプのマスクを試作する。隣に座った美咲は、古いパソコンを立ち上げ、匿名での記事投稿方法を探る。


「これは思っていた以上に簡単なことじゃないわね」

「いつも記事一本に魂を注いでるんだ。仮面を作るぐらいどうってことないさ」

「その意気は好きですよ、田原さん」

美咲の視線が田原の働く手元に注がれる。糸が黒い布を通る音が、小さく静かな地下室に心地よいリズムを刻む。


 仕上がった仮面を顔に当ててみる田原。鏡の前で、やや照れ臭そうにポーズをとる彼の姿は、どこか少年のようだ。

「どうだ? 似合うか?」

「ええ、結構さまになっています。なんだか本当に“S”になれそうな雰囲気です」


 そう言いながら美咲が示すパソコンのモニターには、新しく作ったウェブサイトのトップページが映っていた。背景は夜の都会を切り取ったモノクロの写真。そして、中央には大きく“S”の文字をあしらった仮面のロゴ。まだ骨組みだけだが、これが新たな戦いの舞台になる。


 田原はマスクを外し、改めてパソコン画面を覗き込む。

「ここに、不正の証拠を出していく。何があっても、真実を外に伝え続けるんだ。俺たちが“S”としてな」

「はい。私も全力でサポートします」


 二人は深夜の地下室で、静かに拳を合わせる。倒すべきは、政治家と大手企業が絡んだ巨大な権力。そして沈黙を強いられた弱きメディアの現状。それらを打ち破るために、かつてのヒーロー“ゾロ”にならって、自分たちだけの正義の仮面をつけるのだ。


 そうして始まった“S”の準備は、闇の中にわずかな希望の光を放ちながら、田原と美咲を新たなステージへと誘っていく。その姿は、窓の外に瞬く都会のネオンよりも、ずっと鮮烈に輝いていた。


 深夜の闇に紛れるようにして、田原総一朗と花村美咲は立ち上げたばかりのウェブサイト「S」を起動した。サイトのトップには、黒いマスクが“S”の文字を浮かび上がらせるロゴ。そして記事のカテゴリーには、政治と企業の不正を暴く情報が並ぶ。まだ記事数は少ないが、どれも調査と裏付けに時間をかけた精鋭ネタだ。


「よし、と。これで記事は公開されたな」

田原がパソコンの画面に表示された最新の投稿を確認しながら、ほっと息をつく。

「もう数分で、SNSにリンクが拡散されるはずです。今はまだ誰も知らない“S”の記事ですけど。」

美咲は高鳴る胸を押さえながら画面を見つめる。


「匿名だからこそ、思い切ったことが書ける。今のメディアじゃこれが精一杯だな」

田原の声には、ほんの少し達成感が混じっている。しかし、それだけではない。仮面をまとったからこそ得られる自由と同時に、いつ身バレしてもおかしくないという不安が押し寄せていた。


拡散の嵐

 翌日、美咲は自宅のPC画面を開きながら、広がり続ける“S”記事の反響に目を見張っていた。SNSには「こんな情報が出るなんて」「大手企業とあの政治家にこんなつながりが。」という驚きの声があふれている。

「すごい、まだ始めたばかりなのに、既に何千件もリツイートされてる」

彼女は思わず画面の数値を読み上げる。


 そこに田原から電話がかかってきた。

「美咲、そっちはどうだ?」

「拡散されています。コメントも増えていて、記事の内容を詳しく知りたいって人がどんどん現れてますよ」

「そうか、やはりこういう時代になっているんだな。テレビや新聞が及ばない領域だ。俺たちにとっては追い風かもしれん」


 田原の声は少し硬いが、明らかに希望がにじんでいた。二人が出した“S”名義の記事。それは、大手企業と特定の政治家がパーティ券購入や裏金の授受を行っていたというもので、金額の規模も相当なものだった。すでに一般メディアが触れる話題ではなく、書けば書いたで圧力をかけられることは目に見えている。


「田原さん、アクセス数が急に跳ね上がってます。コメント欄が荒れそうな勢いですよ」

「中にはデマだって言う奴も出てくるだろう。だが、ちゃんと証拠を示せばいい。それがジャーナリズムの戦い方だ」


不意の賞賛と恐怖

翌週、“S”の記事はネット中で話題となり、色んなニュースサイトが取り上げ始めた。まだテレビや新聞は“噂”レベルでしか報じていないが、すでに一部のフリーライターたちが田原のスクープを深掘りし始めている。


「まさか、ここまで早く拡散するとは思わなかったわ」

美咲は自宅の机でスマホをいじりながら、興奮混じりにつぶやく。彼女のSNSアカウントには、同業の若手記者や社会派ブロガーからのメッセージが殺到していた。


「“S”の記事、すごいね!」「これ、本物のスクープだよな?」「次はどんな情報が飛び出すのか」

そんな声が溢れ、“S”は一夜にしてネット界隈のヒーローになっていた。一方で、否定的な意見や誹謗中傷も少なくない。


 その夜、田原のスマホに一通のメッセージが届いた。「S宛」として、サイトの問い合わせフォームから送信されたものだ。

「『感謝とともに、次の情報を待っています』署名は“匿名の協力者”か。どういうことだろう?」

田原は眉をひそめつつも、何かをつかむ可能性に胸が高鳴る。


「田原さん、おめでとうございます。今のところ大きなトラブルは起きていないみたいですね」

美咲が軽い調子で言うが、田原は携帯を見つめたまま、口調を重くする。

「いや、まだ気は抜けん。こういう時ほど、あいつらは裏で動き始めるもんだ。表沙汰にできない手段でな」


 そこには“勝利”の余韻と同時に、新たな恐怖が横たわっていた。“S”という存在を知られるほど、権力者の目にも留まりやすくなる。すでにオフィスを荒らされるなどの警告を受けている二人にとって、その可能性は大いにあり得る。


小さな勝利の味

 この日初めて、田原と美咲は「自分たちの手で事実を世に出した」という小さな成功を噛みしめていた。

「田原さん、もしかするとこれ、私たちが思っていた以上に大きな流れを作れるかもしれません」

「そうだな、メディアが萎縮している今だからこそ、無視できない波が起こせるんじゃないか」


 田原の声はどこか上ずっている。長い間、会社の意向に縛られ、思うように記事を書けなかった彼にとって、匿名という武器を手に入れた“S”としての活動は、自分の記者人生をもう一度奮い立たせる行為だった。

「このままいけば、次の記事はさらに注目を集めるでしょう。企業と政治家のどちらも、これ以上ダメージを受ける前に動いてくると思いますけど」

「わかっている。だからこそ、俺たちは先手を打たないとな。ネットの力も利用しつつ、確実な証拠を積み上げて、次だ。」


 美咲が横でパソコンを操作しながら、ふと思いついたように口を開く。

「そういえば“S”ってサイン、ロゴにするだけじゃもったいないですね。私、SNS投稿用にカッコいい画像を何枚か作ろうと思います」

「いいな。それを使ってさらに拡散するんだ。記事に続いてイメージ戦略も大切だ。といっても、なんだかヒーローごっこしてるみたいで照れるが」

田原は少し照れ笑いを浮かべるが、美咲は真顔で首を振る。

「ヒーローごっこじゃありません。今の社会が必要としているんですよ、“S”を。少なくとも私はそう信じています」


 美咲の力強い言葉に、田原は改めて背筋を伸ばす。

「そうだな、じゃあ遠慮なく、俺も仮面に磨きをかけるとするか」


吹き荒れるさらなる風

 翌日、会社に出社した田原と美咲は、同僚たちが何やらざわついているのを感じ取った。会社のPC画面には、“S”という謎のサイトが取り上げられたネットニュースが映し出されている。同僚がひそひそ声で話し合っていた。

「ここに書かれてる不正の話、結構ヤバいんじゃないか?」「ここまで突っ込んだことを公開して大丈夫なのか。」


 編集長は渋い顔で資料を整理しながら、二人を鋭く見つめた。

「記事が出てるが、まさかお前たちが関わってるわけじゃないだろうな?」

そう詰め寄りたい様子がありありと伝わってくるが、田原は涼しげな表情で言葉をかわす。

「さあ、どうでしょうね。相変わらず推測がお好きなようで」

「ふん。ま、いい。ただ、会社には迷惑をかけるな。わかったな」


 編集長はあからさまに釘を刺すと、ドスドスと重い足音を残して行ってしまう。田原は美咲に小声でささやく。

「気づかれているかもしれん。だが証拠はない。とにかく油断はするな」

「はい。絶対に情報が漏れないように気をつけます」


 仕事をするふりをしてオフィス内で過ごしながらも、二人の脳裏には常に“S”の活動があった。次なる暴露に備え、さらに証拠を固めなければならない。そして、これまで表舞台に出なかった匿名の通報者たちからの声も、次々とサイトに寄せられていた。


 小さな勝利が大きな波紋を呼び、人々の注目が“S”という仮面の記者へと向かう。世の中にはまだまだ多くの闇が渦巻いている。田原と美咲は、その闇を一つひとつ暴いていくためにも、さらなる覚悟を固めた。


“小さな勝利”は確かに手に入れた。だが、その先に立ちはだかるのは、強大な権力と癒着が進む巨大企業の連合軍。それらに挑むため、仮面の奥に燃える田原の瞳はますます鋭くなり、彼を支える美咲の意志もまた揺るぎない光を帯びていた。


 こうして“S”は、社会の裏側でうごめく不正を告発する存在として、初めて世間に強い衝撃を与えた。ネット上で芽生え始めた“新しいジャーナリズム”の風は、やがて誰にも止められない大きな旋風となっていく。

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