第2話
駐屯地に戻ろうとして、教会に寄ってから戻ることを思いついた。
ミラーコリ教会に行くと、そのあたりもやはり寝静まってる感じだったが、子供たちはワクワクし過ぎて寝ていられないのか、起きていつものように教会の前で飛び跳ねて遊んでいた。
「あーっ! フレディだ!」
すっかりネーリの呼び方が子供たちにも定着してしまった。
「ショーグンだーっ!」
「こら、馬にそんなに近づくと危ないぞ」
すぐに駆け寄って来る。
「馬に乗りたいー」
「また今度だ。私はこれから駐屯地に戻らなくてはいけないんだ」
「神父さまーっ! フレディが来たよーっ!」
子供たちに呼ばれて教会の中にいた神父が外に出て来る。
「これは、フェルディナント殿。おはようございます」
子供たちにまとわりつかれているフェルディナントが神父に一礼した。
「ほら、軍馬にそんなに近づいては危ないですよ。こちらに来なさい。お昼寝の時間ですよ」
神父が子供たちを呼んでくれたが、一人の少年がフェルディナントの服の裾を引っ張ったまま、見上げて来る。
「ネーリが昨日来なかったの。一緒に明かり、水の上に浮かべようって話したから……ぼく浮かべなかったよ」
フェルディナントは少年の頭を撫でてやった。
「きっと今日は来てくれるよ。その時一緒に浮かべればいい」
少年は安心したように頷く。友達が迎えに来て、彼らは教会の中に入って行った。
「神父様、ネーリは駐屯地にいます」
「ああ、そうでしたか。姿を見なかったので心配していたのです。もしや、貴方が保護して下さったのですか?」
「……保護……」
その言葉を呟くと同時に、船の中に仰向けに寝転んでいたネーリと、それから、彼に導かれるように小舟に乗ったこと、彼の涙や、その後、微笑ってくれた顔、愛しく思って口づけてしまったことまで全部思い出して、フェルディナントは赤面した。
「いや、……そんな大層なことはしていません」
フェルディナントのその様子に神父は目を丸くしてから、朗らかに笑った。
「いえ。無事ならばいいのですよ。貴方ならご存じだと思いますが、彼には何かあった時、帰る場所や、心配してくれる家族がない。勿論ここの人々はあの子を慕っていますし、この辺りはみな家族のように付き合ってはいますが……」
陽射しが強いので、神父はフェルディナントを涼しい聖堂の中へと招いた。
「……ネーリと神父様は、長い付き合いなのですか?」
ふと尋ねてみる。
「そうですね……、長いというわけではありません。三年前くらいに、ある時気付いたら聖堂の隅でずっと聖母子像を描いていたのですよ。非常に上手でしたが、アトリエを持っておらず、山ほどのスケッチを背負っていたので、奥の部屋を使うといいと声を掛けてやったのです」
三年……。確かにそれほど昔ではない。
確かネーリは十五歳だった。とすると十二歳……、祖父の貿易船に乗っていたというのはもっと前の幼い頃だろう。その祖父が亡くなったから、ヴェネトに戻って来たのだろうか?
「神父様は、ネーリの祖父をご存じですか? よく話に聞くのですが」
「亡くなったおじい様ですね。残念ながら存じ上げないのです。しかし、かなり裕福な貿易商だったようですが」
「亡くなったのは、ではかなり前ですか?」
「彼が六歳くらいの時だと言っていたような気がします」
約十年前。
そうすると、この教会に身を寄せるようになった三年前以前の七年間。彼はどこで何をしていたのだろうか。あれだけの絵を描くのだから、きっと昔から上手かったのだろうけど、もしかしたらどこかで技術を学んだのだろうか?
「ネーリは。とても魅力的な子でしょう」
どき、としたが聖職の穏やかな表情で語り掛けられ、小さくフェルディナントは頷いた。
「あの子に人が会うと、最初に絵に驚き――次に人柄に驚きます。あれほどの才能を持っていても、彼は自分が特別だと少しも思っていない」
それは、よく分かる表現だった。
「ネーリに干潟の絵を一枚もらいました。友好の証だと贈られて、嬉しかったのですが、次に会った時にまた好きなのがあれば持って行っていいよ、と言われて、思わず『そんなに簡単に人に譲らず、きちんと売るべきだ』と口を出してしまったんです」
ああ、それで……、と神父は頷く。
「貴方がネーリの絵を買って下さるようだと聞きましたよ」
「そうするつもりです」
「とても喜んでいました」
「ネーリは今まで絵を一度も売ったことがないのですか?」
「競売に出したことはあると聞きましたが、売れなかったそうです」
「理由を聞きましたか?」
「聞きませんでしたが……。実は、ネーリの絵を買いたいという方はいらっしゃるんですよ。私はヴェネツィアの別の教区にも呼ばれて礼拝をしていますが、そちらの信徒の方がどこかから噂を聞き付けてぜひ買いたいと。でも、ネーリに話すと、売りたくないようだったので、教会に寄付して下さるものなのですと理由づけてお断りしました」
売りたくないというのは、嘘だろう。フェルディナントが買うと言った時、あんなに子供のように喜んでいて、嬉しそうだった。
(……売る相手を選んでる?)
フェルディナントが買う時に、名前のことを言っていた。書かずに伏せてもいいかと。
(もしくは、【ネーリ・バルネチア】という名を知られたくない……素性を知られないということか?)
そう聞くと犯罪の匂いがしたが、フェルディナントはすぐに否定した。
別に惚れているからそう言うつもりはないが。
(違う。あの人は醜い犯罪なんか、犯せる人じゃない)
祖父は曰くありげな大貿易商だった。もしかしたら何か、その辺りで、孫のネーリが自分の素性を知られたくない相手がいるのかもしれない。その点、フェルディナントはサインなどしないでもいいと言ったし、ネーリの過去を全く知らない。だから絵を売れる相手だし、あんなに喜んだのかもしれない。初めてフェルディナントはそんな風に考えた。
……その七年間。
ヴェネトにいたと聞いているが。
「貴方に会うまではヴェネトに?」
「そのようですね。ヴェネト全域を彷徨い歩いていたようですよ。その様子が、彼の絵に現われています。そうだ、思い出しました。いいものが」
神父が二階に上がって行く。二階には倉庫があった。古いワインセラーのようだが、今はワインはない。だがその代わりに古い本がびしりと並べられている。
「これは……?」
入って来て、フェルディナントが尋ねる。
書庫のように、すごい量だ。
「画材の在庫もありますが、大半がネーリのスケッチですよ」
驚いて、一つ取ってみる。すると確かに、よく見ると本ではなく、板に挟まれた大量のスケッチだった。
「これ全部……」
圧倒される。
「あの子は筆が早い。この三年の量です。ああ、これです」
神父がひと際重そうな本を取ろうとしたので、フェルディナントが代わりに取る。
「ありがとうございます。どうぞご覧になって下さい」
開くと、これもスケッチで、何ページが開くと、ヴェネトの街だということが分かる。
水路。海。教会。
多角的に見える、島の様子。
「古い聖典に挟んで持ち歩いていたようなので、所々字が移ってしまっていますが……でも美しいでしょう」
色がついていない、木炭だけの絵だ。
それでも、やはり凄かった。
(綺麗だ)
フェルディナントは王都ヴェネツィアしか知らない。
これは周辺諸島の絵もある。
美しい、水の都。
「ここに来た時、あの子が背負っていた五冊の聖典です」
非常に重いものだ。一冊でも大人が抱えるほどである。だが、それだけ、絵を挟んでおけるページがある。凄い量だ。
「五冊にびっしりと。驚きました。あの子は当時十二歳です。家もなく、どうやらヴェネト中の教会を手伝ったりして少しの食料をもらい、また移動して、食料がなくなったらまたどこかに立ち寄って少しの保存食をもらい、という暮らしをずっと続けていたようです」
何でだろう。
感動する。でもそれ以上に、ここにある絵を見て、フェルディナントは胸が苦しくなった。ここにある絵は、下のアトリエにある絵と、何かが違う……。ネーリの涙を、昨日見ていたせいだろうか。
ここにある絵も間違いなく美しい。同時に、ネーリの感情を感じた。
絵を描くことが好きで好きで、堪らなくて、その為にどんな苦しい孤独な生活でも構わない、ただ自分一人の責任と覚悟でひたすら書き続けている、痛みを感じた。そしてその痛みを遥かに勝る、集中して描かれた世界の美しさ。描き上げられた時の、彼の喜び。
拠り所もない十二歳のネーリが、明かりもない軒下で、貧しい身なりでも大切そうにこの聖典を抱きしめて、蹲って眠っている姿が何故か脳裏に浮かんだ。
不思議だ。そんな姿見たわけじゃないのに。
「フェルディナント殿」
「すみません、」
フェルディナントは涙が絵を汚したので、慌てて閉じた。
絵を見て泣くような人間じゃないはずなのに、涙が溢れてきて、優秀な軍人である彼は泣いた自分を恥じ、顔を背けた。
どうしてネーリの絵は、これほど自分の胸を打つのだろう。
この五冊の聖典を抱えて、夏の夜も冬の夜も。
――七年も一人で。
あのアトリエにある楽園の絵。
ただ優しく美しい、あのエデンの光……。
どんな神から与えられた才能があればあんなものが描けるのかと、ずっとそう思っていた。でも違う。あれは才能で描かれたものじゃない。技術ではない。
情熱と、追い求める、意志。
あそこにはネーリの追い求める理想が、過去の苦労や、痛みから解き放たれて描かれている。だからあれほど美しいのだ。光り輝いている。
あの絵を見た時、どんな人間が描いた絵なのかフェルディナントには全く分からなかった。イメージすら出来なかった。
でもこの絵を見た今は、分かる。
この両手に重くのしかかる聖典の重さだけ、苦しみや寂しさと向き合った彼だから描ける絵なのだ。
紛れもなく、ネーリ・バルネチアはあの美しい天上の園を描くことが出来る、特別な人間だ。
……彼の孤独な七年は、あの絵を描くためにきっとあった。
気を遣い、神父は場を外してくれた。
跪いて挟まれた膨大な量のスケッチを見ながら、フェルディナントは考えた。
多分、この胸の痛みが無くても彼の絵には惹かれたと思う。絵を見なくても、教会で子供たちと過ごしている彼を見たら、画家だと知らなくてもきっと惹かれた。でも、そうだとしてもこんなに惹かれる以上に感情を掴み上げられるのは、きっと自分が今、孤独を強く感じているからなのだ。
(多分、俺は強さに惹かれた)
一瞬にして滅ぼされた母国【エルスタル】。
孤独を知った。思い知らされた。別に家族に依存して生きてきたわけじゃない自分だったが、それでも彼らがいてくれることの安心感を、いつも感じていた。
我が国、我が民。独りじゃないと思えた。
それが、手の届かない所で奪われた時、孤独を思い知らされて……この地でネーリのあの絵に出会った。彼という人間にも。
孤独に棲みつかれたこの心が、孤独を飼い慣らし、その暗鬱な色よりももっと遥かに鮮やかで美しい光を見失わず、見つけ出したあの強い魂に惹かれた。自分の痛みや嘆きを少しも外に見せず、絵にも、そうと見える形では出していない、彼の強さに。
苦しいものを、
辛いものを、
その同じものではなく、
別の美しいものや、
優しいものに変容させて紡ぎ出せるその強さに惹かれたのだ。
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