(10)
「……別に、ついてこなくていい」
カイはなにもしゃべらず、うしろをついてくるソガリに対し、気まずさから冷たく突き放すように言ってしまう。
先ほどの出来事は、捨てたと思っていた、もう二度と目にすることもないだろうと思っていた過去が、突然カイの前に立ち現れたようなものだった。
短いやり取りではあったが、察しのよい者であれば、あれだけでもカイの過去を推察することは可能だろう。
加えて、こちらからやり返す口実を得るためであったとしても、殴られたところを見られたことに、カイはなんだか恥ずかしい気持ちにもなっていた。
ソガリに、情けない場面を見せたと思った。
「えーっ、体調が急変したりしたら怖いからついて行くよ」
けれどもソガリはいつも通りの態度だ。
能天気にも聞こえる元気な声で、人好きのする顔でカイの心配をする。
カイは、ソガリがまるきりいつも通りなことに、無意識のうちに肩に入っていた力が抜けて行くような気持ちになった。
「胸のあたりをちょっと殴られただけだ」
「心臓の近くは怖いよ!」
そんなことを言い合いながら、職員用休憩室の扉を開ける。
カイに続いて休憩室に入ったソガリは、いの一番に棚から打撲用の軟膏を取り出してカイのもとに戻ってくる。
「はい、これ」
一瞬、以前のようにソガリが手当てをすると言い出すのではないかと思ったカイだったが、さしものソガリも今回はそのようなことは言わなかった。
カイはクッションの効いたソファに腰を下ろすと同時に、ソガリから軟膏を受け取る。
ソガリはそのままカイを注意深く観察するような目で、すぐ隣に座った。
カイはそんなソガリになにか言いたい気持ちになったが、結局はなにも口にはしなかった。
さっそく、服の上から殴られた箇所を軽く押してみれば、多少の痛みを感じた。
服を脱いでみれば胸のあたりには薄っすらと青あざができている。
カイは黙ったまま軟膏の蓋を開ける。
ソガリはカイの手元を見ながら、やにわに言った。
「ねえ、わたしが殺してきてあげようか?」
カイは黙ったまま、ソガリに目だけを向けた。
ソガリはいつも通り、にこにこと人好きのする笑みを浮かべている。
まるで今日の天気を聞くように。
まるで今日の夕食の献立を言うように。
ごく自然な声でソガリはそう言った。
「わたしは
カイはひとを殺したことのある人間を見たことがある。
迷宮内でも、その外の迷宮都市でも。
なんとなくわかるのだ。
そういう人間は、あらゆる場面で「ひとを殺す」という選択肢を常に持って生きているということが。
……カイは、ソガリが「ワケあり」なんだろうということはなんとなく察していた。
ソガリが《六本指》に入ってきてすぐ、カイが起こしたいざこざについてボスがいつものようにお小言を口にしなかった理由。
そしてソガリだけをわざわざ名指しで文面に出してきたわりに、「なにもしなくてもいい」という不可思議な指示を出してきた一件。
ボスとソガリには、なんらかの「繋がり」がある……。
「カイはひと、殺したことないでしょ?」
こともなげに言うソガリに、カイは正体のわからない苛立ちを覚えた。
「……お前だって、ひと殺したことないだろ」
カイはひとを殺したことのある人間を見たことがある。
だから、なんとなくひとを殺したことのある人間は直感でわかる。
けれども、ソガリはそうではないとカイの直感は言う。
ソガリからは「暴力のにおい」はしても、「死のにおい」は感じられなかったからだ。
ソガリはひとを殺していない。殺したことがない。――まだ。
「そうだけど」
ソガリは「ひとを殺したことがない」と言うカイの指摘を否定しなかった。
――ひとを殺したことのない、殺し屋。
矛盾しているが、カイはその事実に内心で不可思議な安堵を覚えた。
だがカイの胸中に生じた正体不明の苛立ちは、まだ消えなかった。
「殺すのに躊躇ねえのかよ」
「残念ながら」
ソガリはあっけらかんと言う。
「それに――カイだったらいいよ」
ここでカイが望めば――ソガリはあの男を殺しに行くのだろう。
カイはその想像を一瞬だけしたが、なんだか口の中いっぱいに油粘土でも放り込まれたような不快感を覚えた。
「あんなカス、殺す価値もねえよ」
カイは吐き捨てるようにそう言って、そのあとはもうソガリの顔を見なかった。
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