第3話
昨夜は遅くまで賑わっていた街も、朝は静かだった。
早くも家の前を掃除している家も多く、そういえば朝に仕事を終え、昼から夕方までは寝て、また夜から明かりを掲げて【夏至祭】が始まると言っていた。
三日間。
ヴェネツィアの街は穏やかな昼下がりを過ごす。
警察沙汰の騒ぎがあれば必ず呼べと言っておいたので、昨夜は賑わいながらも、酷い騒ぎなどは起きなかったようだ。
今夜は夜中、フェルディナントは街を巡回し、どんな雰囲気かを見てみたいと思っている。事件が多発していた西地区も、見張りを多めに配置してあり、今のところ問題は起きていないと報告を受けているが、実際あの地区の者たちがどんな雰囲気でいるかは自分の目で見なければ確認出来ない。
ネーリの涙を思い出した。
この国を離れることが、あの明るい魂を持つネーリにとって、涙を流すほど辛いことなのだと分かった時、フェルディナントは胸を打たれた。彼も故郷の【エルスタル】を想う時、胸は締め付けられるけれど、それは不意にそこが滅ぼされた故郷だったからだ。
そこに在る時、自分は国に対して、冷淡な王子だった、と彼は思う。期待されなかった王子だったということも勿論あるが、国を離れていたし、共に生きようとしていなかった。
夜闇の中、美しく輝き、海の上に浮かぶ水の都を見つめ、ネーリが涙を流しているのを見た時、本当にこの地が、彼に愛されているのだと感じられた。彼は自分と同じように孤独でも、国を愛している。愛せるひとなのだ。
……今更、国を愛し、守れる王子にはなれないけど。
ネーリの愛するヴェネツィアの街は守ってやりたいと思う。
守備隊本部になっている教会に戻ると、トロイが立ち上がって敬礼でフェルディナントを迎える。他の竜騎兵もいた。
「ご苦労。問題はないか?」
「ハッ! 街は、大きな騒ぎは起きておりません」
「そうか。よくやってくれた」
夜を継ぎ、巡回を行った彼らを労う。
トロイは机の上にあった手紙を持って、フェルディナントの元に歩いて行った。
「実はつい先ほど、城から遣いの者が来て、これを将軍にお渡しするようにと。手紙を受け取り次第、城に参城していただきたいとのことでした」
「城から?」
フェルディナントは眉を寄せた。
「王妃の遣いで来られたそうです」
竜騎兵団を毛嫌いしている王妃の顔を思い出した。
あれからも何度か、駐屯地のこと、演習のこと、街の警備のことで城に上がり報告を行ったが、彼女が自分たち、というよりフェルディナントを嫌っているのは明らかで、駐屯地は提供してやったのだからあとは与えられたものの中で出来るだけやれ、余計なことはするな、という意図がいつも伝わって来る。王妃の方から遣いが来るなど、初めてのことだ。
イアンの話では、フランス海軍のラファエル・イーシャを気に入っていて、夜会や茶会などにはしょっちゅう彼を招いてるそうだが、自分に来たとなると、そんな話ではあるまい。手紙には簡潔に、本日中に参城してもらいたい、と王妃の名で書いてあった。
「……一体何の話でしょう。しかも【夏至祭】の最中に……」
「……。まあ俺を呼び出した以上、治安の話だとは思うが」
あまりいい話ではない気がする。しかしいずれにせよ、行かないわけにはいかないのだ。
悩むことは無意味である。
「準備する。」
フェルディナントは軍服に着替えることにした。
「かなり緊急の呼び出しのようですが」
トロイは不安がっている。
「【夏至祭】の期間は停止した警邏隊を再始動させろという命令かもしれんが……だがそれならそういう命令書だけ送りつけて来るだろう。今までそうだったからな」
フェルディナントが城に上げる要望や報告書に対しての返事や命令は、全て駐屯地に手紙で送りつけられた。城に呼ばれたことはない。
「……」
押し黙っているトロイに気付き、フェルディナントは小さく笑い、肩を叩いてやった。
「あまり深刻になるな。トロイ。我々は何も不手際は起こしていない。それなら堂々としていい」
「しかし王妃は竜騎兵団を嫌っています。何か理由を付けて本国に送還させるつもりやもしれません。警邏隊を停止させ、竜騎兵団の巡回で例の仮面の男の襲撃は止みましたが、それまでの警邏隊の事件の責任を押し付ける気かも」
「なるほど。それは一理あるな」
「えっ!」
フェルディナントがそんな風に言ったので、トロイの背が思わずシャキーン! と伸びた。
不思議なことだが、フェルディナントは昨日から、妙に自分の運命を肯定的に受け入れられる気分になっている。
この地にやって来て、最善のことをしてきた。
竜は飛ぶことも出来ず、文句も言わず押し黙っている。
なんの不手際も起こしていない自分たちに帰れと言うなら喜んで帰ってやるし、何なら必ずヴェネトに送り返してやるから一度神聖ローマ帝国にネーリを一緒に連れ帰ってやろうか、という心境だ。
とにかくフェルディナントは今、このヴェネツィアを守ってやりたくて仕方ない気持ちなのだ。こんな俺を大した理由もなく強制送還するような王妃なら、ヴェネトは終わりだ、ともう開き直ってるため、特に不安という不安も感じない。
トロイは大抵こういう時、深刻な表情をするはずのフェルディナントがそう言ったあと、冗談だ、という風に笑って見せたので驚いた。だが、軍服を身に纏っている時は滅多に笑わない彼がそんな風に笑うと、大丈夫なような気になって来た。
「あの王妃なら、『帰れ』と言いたいなら『帰れ』と書くさ」
「確かに、そうですね」
笑ってしまい、ごほん! とトロイは咳払いをして身を整えた。
「行って来る。戻ったばかりで悪いが、街を頼むぞ」
「いえ。お任せください」
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