かたまり

メンタル弱男

かたまり



「この野菜炒め、なんも味せえへんなぁ」


 暗いテーブルの下、床に落ちているティッシュペーパーのかたまりを、足の指でころころころころ転がしているのが見えた。私は床に座ったまま、淡々と繰り返されるその器用な動きをじっと眺めていた。


「こんなんじゃ、ご飯も減らへんやろ。せっかく忙しい中来てやってんのに、夕飯もろくなもん出されへんのか、ほんまに」


足を辿った先にある太ったお腹と重苦しい声に、濱中の不健康な生活が詰まっているんだなと思った。


「ごめんなさい、ちゃんと味見できてなかったみたいで……」


 お母さんの声は尻すぼみになり、最後の方はよく聞こえなかった。私は二人の顔を見ることができなかった。その代わりに、温度を失った言葉の切れ端が床の上へ静かに落ちるのを見た。


「言い訳なんかいらんねん。はよなんか違うもん持ってこいよ」


 ほんまにまじで腹立つわ、と吐き捨てた濱中が箸をお茶碗に当てる音が聞こえてくる。少しずつ速くなったり強くなったりするその無機質な音が、お母さんの耳にはどんな風に聞こえているのだろう? 


「ごめんなさい、別のものをすぐに作りますから……」


 冷蔵庫の閉まる音と、ラップを切る音、電子レンジの音。キッチンを右往左往するお母さんの忙しない様子が頭に浮かぶ。私は決して立ち上がろうとはしなかった。濱中が帰るまで、じっと息を潜めるように、目を閉じていようと思った。


「あ、そうや」と、声色が少し丸みを帯びて響いたのと同時に、木製の椅子を引くのが見えた。突然立ち上がった濱中の視界に、私はなんとしてでも入らないよう顔を下に向けたが、意味はなかった。


「咲良ちゃん、来月から中学生やろ。部活もそうやし勉強も、色々なもんが変わってくると大変なことも増えてくると思うわ。でもな、一番好きなことを優先しいや」


 私はゆっくり顔を上げる。そして操り人形のように顔の一部に力を入れて無理に笑ってみせた。目の前には、髭を散らかした顎と枯れた蓮のような鼻があった。タバコとお酒のにおいに包まれた不思議な生命体。


「なぁ、咲良ちゃん。元気出してや」


 そして昨日、お母さんの顔を叩いた化物。


「新しいおかず用意できました」


 遅いねんほんまに、とつまらなそうな声をお母さんに向けた後、また不細工な笑顔で私を見下ろしながら「これ、貰っとき」と、三つ折りにしたお札を、私の右手の親指と人差し指の間に挟んだ。


 食卓に座り直す濱中の背中を尻目に、私はじっとそのお札を見つめ、一万円札が三枚あることを確かめた。


「また明日も来るから、ちゃんと晩飯用意しといてな。次味薄かったらほんまに……」


 濱中はまた、ティッシュペーパーのかたまりを器用に転がしている。私は右手の指先に力が入っていることに気がついた。親指の真ん中に集まる熱が、奇妙な湿り気を伴って、私の心に忍び込むような気がした。


 不意に、誰かに何かを悟られるような気がして、私は音もなく立ち上がり隠れるようにドアの方へと歩き出した。


「またね、咲良ちゃん」


 目も合わせないまま頭を下げて、私はリビングを後にした。寝室のベッドに腰掛けて一息つくと、心臓の音が際立って聞こえた。手を伸ばしてカーテンを開けてみると、窓は冷たい雨に濡れている。部屋に詰まった閉塞感から逃げるようにしてお母さんに買ってもらったイヤホンを手にしたが、五分ほど経っても聴きたい曲は見つからなかった。


 ドア越しに響く低い声、かき消されていく私の心臓の音。


 まだ手にしていた三万円をくしゃくしゃにしてしまおうと思ったが、結局できないまま勉強机の上にそっと置いた。


 結局、私は……。

 目尻が濡れているのは、誰のためだろう?

 心の奥底でゆっくりと圧縮されていくような私の思いが、また一つ溜まっていく。私はそれを器用に扱うことなんてできずに、ただ放置している。いつしか私の体はそれに圧迫され蝕まれていた。


 それでも、誰かの声が聞こえる。


「中学生になったら何か変わるから」


 時の流れに身を任せ、誰かが溢した無責任な言葉を護符のように抱きながら、私は眠りについた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

かたまり メンタル弱男 @mizumarukun

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る