豚肉

@0024eve

豚肉

 わたしが生まれた地域は、所謂、田舎と呼ばれるような所だった。人や家より、虫や緑、それから豚。隣の家(隣と言っても田舎なので500mほど離れているが)にもやはり豚が居て当時、小学2年生のわたしはそこへ毎日通っていた。

 

 わたしは学校という空間に、辟易していた。その頃の私は「辟易」という言葉を知らなかったが、今思えば、正しく「辟易」だった。クラスメイトが話す昨日のテレビの話より、給食の献立より、空に流れる雲が、揺れる木々が鳴らす音が、重要だった。

 大きな土地にある、小さな小学校はわたしを楽しませるにはあまりにちっぽけで、道草を食って学校に遅刻するなんてことはよくあった。

 学校に行かず、豚小屋に毎日通うわたしを周りの大人は「そういう子」と呼んでいた。「そういう子」ではない子供たちに、それはそれは穏やかな口調で「関わってはいけないよ」とも言っていた。

 

 豚小屋にはいつも怒った顔をしたおじさんが居る。いつも怒ったような顔をしているけど、おしゃべりできない豚に話しかけては笑っていた。豚も、おじさんが来るとフーフーと何か言っていた。私にはなんて言っているか分からなかった。当時のわたしはもしかしたら、おじさんと豚は本当におしゃべり出来るのかもしれないと思った。おじさんに「わたしに、豚語をおしえてくれる?」と言ったらおじさんはフーフー笑っていた。おじさんは「毎日一緒にいたら分かるよ」と言った。それから、わたしは毎日豚小屋に行くようになった。

 

 「わたし小珠ってゆうの。これから毎日来るからね。覚えてね。」

 

 「今日の給食は、ソフト麺だったよ。わたしあれ嫌い。麺なのに、ビニールの匂いがするの。」

 

 「今日はすごい入道雲だよ。あの上で寝たら、気持ちいいんだろうなぁ。ねぇ、わたしのはなし聞いてる?」

 

 「今日は暑いね。お前、アイス食べたことある?冷たくて、あんまくて、美味しいんだよ。」

 

 「今日は、同じクラスの男子にキモイって言われたよ。突き飛ばしたら先生に怒られた。なんで。」

 

 「ねぇ、そろそろお前もなにか話してよ。わたしばっかり話してつまらないじゃない。」

 

 「ほら、これみて。すごく綺麗なもみじでしょ。あげないよ。」

 

 「おっかあがマフラー編んでくれたんだ。わたしもやってみたけど、全然上手く出来ないの。お前にも何か作ってあげようか。」

 

 フーフーフー。相変わらず豚の言葉は分からなかったし、わたしも、皆みたいに毎日学校には行っていなかった。

 その日も、わたしは豚とにらめっこをしてた。そして急にひらめいた! 豚について、もっと知ったら豚の話してることが分かるかもしれないと思った。おじさんに豚のことを教えて欲しいと言ったら「自分で調べなさい、学校の図書室にでも行きなさい」と怒られた。その後もおじさんは喋っていたけど、聞こえないふりをした。だっておじさんは、いつも怒った顔をしていたけど、そのとき初めて、本当に怒ったからちょっとだけ、可笑しくなって、悲しくなって、そのまま走って学校の図書館に向かった。

 

 冬の空気は張り詰めて、すぐにわたしの耳たぶはちぎれた。吐く息は間違いなく白かったが、走るわたしには追いつけないようで、すぐにどこかへ消えていった。わたしのふくらはぎは、すでにビリビリと叫んでいたが、止まらなかった。もしかしたら、このまま止まれないんじゃないか、と微かな不安が過ったが、図書館の扉を前にすると、ピタリと止まった。乱れた呼吸を整えて、図書館の扉に手をかけた。

 わたしは、図書館の扉が嫌いだった。というのも開ける時に、ほんの少しだけ頑張らなければならなかった。立て付けの悪い引き戸は、どうしたって音が鳴る。扉を開けていざ、入ろうと顔を上げると「よくも、音を立ててくれたな」とでも言いたげな人が必ず、いるのだ。わたしはその目に遭遇すると、身体がヒリヒリ傷んだ。数秒後の冷ややかな目を、想像して、既に身体がヒリヒリとした。しかし、扉を開けてもそこには誰もいなかった。なーんだ!誰もいないじゃん。なんて思っていたら、司書室の扉が開いた。

 はじめて見た人だったけど、エプロンに「司書:葉子」と書いた名札をつけていて、司書さんの葉子さんなんだ、と思った。

 「あら、授業はどうしたの」

 と聞かれて、わたしはすぐにでも豚について調べたかったからちょっとだけ怒った顔になった。毎日、豚小屋に行っていたから、豚小屋のおじさんがうつったのかもしれない。

 

 「今すぐ、豚について調べなきゃいけないです。授業では豚のことは教えてくれないです。」

 葉子さんは「そう」と言って、本を読みだした。わたしは怒った顔のままだったけど、びっくりしていた。他の先生みたいに手を引っ張って「黙って座ってなさい」って教室にはりつけにしなかったから。図書室にある、豚について載っている本を全部見たかったけれど、図書室には本が沢山あったので、不服だったが、葉子さんに手伝ってもらうことにした。

 

 「すみません。豚の本、一緒に探してもらっていいですか」

 

 「どうして豚について調べるの?」

 

 「豚とおしゃべりがしたいから。豚小屋のおじさんに、毎日一緒にいたら分かるって言われたけど、まだ、ちっとも分からないから。早く豚とおしゃべりできるようにならないと、」

 

 その続きは、上手くいえなくて、黙っていたら葉子さんは

 

 「そうなの」

 

 と言って、葉子さんは豚について載っている本を教えてくれた。本は全部で6冊あった。それから、わたしは図鑑に載ってる豚の情報をたくさんノートに書いた。1日じゃ書ききれなくて、それから私は毎日図書室に行った。豚に会いに行くことも忘れて、豚について、しらべて、しらべて、しらべた。

 葉子さんは

 「あら、来たの」

 と言って、またすぐに本を読み始めていた。6冊の本を全部書き写すのに6日かかった。わたしが全てをノートに書き写した達成感で豚のような声を出していたら、葉子さんが本を読むのをやめてこちらを見ていた。

 

 「私も豚のことなら、一つだけ知ってるよ。聞きたい?」

 

 なんだか、すごく嫌な感じがした。

 からだの、ちょうど真ん中の、1番奥んとこが、ざらざらした。聞きたくない。きっと、聞いちゃ駄目だ。そう思ったけど、わたしの口は、言葉は、勝手にポロポロこぼれて言った。

 

 「うん、ききたい」

 

 「豚ってね、空を見あげられないの。」

 

 「え?」

 

 「からだの「構造」ってわかる?創り的に、上を見上げられないんだって。」

 

 豚は、あいつらは、空を見あげられない。わたしは、給食の献立より、みんなが話すテレビの話より、空の色が、雲が、日に焼けた葉っぱの色が、重要なのに。あいつらは其れを一生、見ることが出来ない。

 わたしを映した、濁った黒目は、空の色を映さない。耳が熱くなった。鼻の奥がツンと痛くなって、それから、たまらなく豚に会いたくなった。行かなきゃと思って、走った。たくさん走った。相変わらず、わたしのふくらはぎはビリビリと叫んでいた。豚小屋に着いた時、また嫌な感じがした。

 信じられなかった。信じたくなかった。けど、本当は全部分かってた。今日が、豚小屋の豚たちが連れていかれることも。おじさんが怒った日。おじさんの話を聞こえないふりをした時。おじさんは、

 「来週は絶対に来ちゃダメだ」

 と言っていた。

 今日は、豚が出荷される日だから。豚が、豚肉になる日だから。おじさんに、来ちゃダメだと言われた時から、それよりずっと前から、本当は気がついてた。本当は豚に、会いに行くことを忘れてたわけじゃない。豚が、豚肉になるのが、嫌だった。怖かった。悲しかった。豚小屋の、あの豚たちは食べられる為にいるのが嫌だった。おじさんがあげるごはんをフーフー言いながら食べて、食べて、食べられる為に、食べていた。豚は、もうフーフー言っていなかった。豚小屋が、ぐらぐらと揺れていた。正確には、豚が暴れて、揺らしていた。いつものフーフーという声じゃなくて、耳の奥と頭がピリピリする高い声で喋っていた。

 「痛い」「こわい」「どうして」

 はじめて豚の喋っている言葉がわかった。おじさんが、私に気がついて、はじめて、怒った顔じゃなくて、泣いてるみたいな顔をしていた。

 

 「今日は、絶対に来ちゃダメだって言っただろう」

 

 わたしは泣いていた。鼻水で、フーフー言って、これじゃ、わたしが豚みたいだと思った。おじさんはわたしが来たことを怒らなかった。おじさんは、他の作業員の人に

 「ちょっと頼む」

 と言って、それから、豚を載せたトラックが見えなくなるまで、ずっとわたしの手を握ってくれた。

 

 「おじさん。豚は、空を見あげられないんだって。空の色を知らないまま、死んでいくのかな」

 

 「そんなことは、無いよ」

 

 「どうして、そう言えるの」

 

 「豚は、食べられたら、その人の血となり肉となるから。あいつらを食べた人が空を見上げれば、きっとあの豚たちも、空の色を知れるよ」

 

 「そっか、良かった。」

 

 それから私はまた泣いた。沢山泣いて、沢山食べた。豚も、牛も、鶏も、魚も、沢山食べて私になって、みんな私の中で生きていた。私の中の豚の目が、私を貫通して、空を見上げた。雲に夕日が焼き付いていた。濁った桃色、あの豚みたいな色の、夕焼けだった。

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