11月22日金曜日(2)
おめでとーと全員が唱和して、わたしの目が点になった。目の前に銀色の厚紙の上に乗った生クリームのデコレーションケーキが差し出された。四号サイズの可愛らしい見た目、ぎゅうぎゅうに乗ったいちごにふんわり粉糖が降り積もっている。
ケーキを持っていたのは
「なんでなんで、え……」
「
甘いもの、好きです。毎日食べれる。てか、食べてる。さすがに毎日豪勢にケーキじゃないけど、三百六十五日おやつを欠かしたことはありません。
「奈知、パティシエになったんだ」としゃちょーが言った。
「ほんとに? じゃ、これ、奈知くんの作品ってこと?」
「そうだよ」と奈知くんがちょっと口角を上げる。お、嬉しそう。
「今スーシェフしてて、二十人くらいまとめてる」
「奈知がパティシエなんてなあ、調理実習で前髪燃やしてたやつがよ」
ガヤに奈知くんは不満そうに口を開けた。それについてはわたしも言いたい。
「奈知くんが前髪燃やしたのは理科室のバーナーだよ」
「マジか。そういや」
「調理実習はしゃちょーが包丁落とした方が大事件だったよ」
しゃちょーは自分の失態を棚に上げて言った。「調理実習は佐歌がフライパンのほうれん草をぶちまけたことしか覚えてない」
うそだ、なんてことを言うんだ。今では毎日自炊して、人の分も作っているというのに。食べてもらえないけど。動揺するわたしの背中を親友が、ちょっとマジなの、と涙目で笑いながら叩く。
「覚えてるのは、あのとき佐歌が班長だったからだろ」
「奈知くんもよく覚えてるね」
「それは、まあ、俺は」
周囲がまだ笑いのツボの中、奈知くんは控えめに告げた。
「おまえは燃えた俺の前髪を思いっきり資料集で叩いたんだよ」
「え、え、うそ。そうだっけ」
「結構痛めの消火活動だったからよく覚えてる」
再び背中がばしばし叩かれる。笑い過ぎてひーっと吸い込む声がする。そんな破壊活動は覚えていない。もういやだ。火は消えたんだよね。だとしたらよかったじゃないか。
「それ思い出せないって笑う」
しゃちょーが言うと、奈知くんが「佐歌らしいじゃん」と、たぶんフォローした。
「もう、もう。ケーキ、今みんなで食べるんでしょ。切ってもらおうよ」
「こんな小さいのこの人数で分ける気かよ。家帰って彼氏と食べな」
ひゅっ。
冷たい空気を吸い込んで笑みが引いた。「あ、うん、ありがとう」と、曖昧な返事をした……気付かれないように言えたと思う。
バカ笑いして、ちょっとすっきりした。レストランを出たとき、傘がいらないくらいの霧雨が降っていた。一日雨だったな。男子チームは次のお店に行く。親友は息子が待っているので実家に帰っていったし、わたしは、奈知くんのケーキを持って帰宅することにした。コインパーキングに戻って、助手席に白い箱を乗せた。
選択肢がふたつあることを知っているけれど、二十九歳の誕生日に選べるのは、ひとつだと思っていた。
まだ信号は生きていた。フロントガラスが霞んでワイパーを動かした。二駅向こうのアパートまで車を走らせる、信号待ちに、運転席から視線を遣った角の花屋の前で、飲み屋街が近いからこんな遅くまで花屋が開いているのか、と思って、そこに見覚えのある青色の傘が、傘を持った彼氏が、花束を買っていて、なんでこんなとこに、打ち合わせが終わったのか、それ、花束、もしかしてわたしの、と、瞬く間に思考は流れて行って、彼は。
彼氏は隣に立つ黒のストライプのスーツの女性に、花束を渡した。
一本の傘の下で腕を組んで歩き出すふたりを、見なければいいのに目を逸らせなかった。
———いい夫婦の日の今日は例年より少し高めの気温で一日しとしと雨でしょう。ゆっくり相合傘でお散歩デートも。
つづけますか。
あきらめますか。
選択肢が、両方消えた。
カチャリ、とロックが解除された音に目を覚ました。腕が痺れている。キッチンカウンターでうたた寝をしていたようだ。頭を上げようとしてぼやける視界いっぱいに、白色。
ケーキの箱だった。
彼は始発で帰ってきたらしい。電気を付けて発見した居間の人影に「うお、びっくりした」と言った。
「終電乗れなくて。遅かったし連絡入れなかったのは、わるか……った……」
尻すぼみになった声、視線の先は、真っ白の、四角。中身が何か、どうしてそんなものが家にあるのか、すぐに思い至ったらしい。彼は恐れるように首を縮めた。
「ごめん。昨日だった」
「……なにが」
「おまえの誕生日」
わたしの返事が冷たかったからか、彼の声は硬い。
「仕方なかったんだよ、新しい企画が次々打ち出されて、人手も足りてないし、営業先も待たせられなくて。昨日だって、来週コンペじゃなかったら打合せが入ったりしなかっ」
「綺麗なひとだね」
なんで言い訳を聞かなければいけないの。
「打合せの相手が綺麗な女のひとだって、聞いてなかった」
「仕事相手の性別なんていちいち」
もう結論は揺るがない。
「彼女には花束送るんだ」
彼は、息を止めた。それから絞り出した声は、低く、震えていた。
「おまえ、尾行けたのかよ」
ああ、そこで、怒るんだ。
くそがよ、と毒づいて背中を向けた男を追いかけることはしなかった。たいした言い争いでもなかったけれど、疲労感で座り直した椅子は、不安定に回った。カウンターに倒れ込むと、ほっぺたの肉がべちゃりと板の上に伸びた。
「……わたしの帰り道に、あなたがいたんじゃない」
視線の先には端正な六面体。奈知くんにもらったケーキの箱。
わたしは数回浅く呼吸をした後、がばっと上体を起こし、破るように白い箱を開けた。
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