ナイトステップ後日譚:後編 アカネ

内田ユライ

 


「ねえ、ちょっと話があるの」


 丑三つ時をとうに過ぎ、明け方ともなろうかという時刻。

 さすがに宵っ張りの修哉も、寝静まってだいぶ経つ。アカネとグレが話していても反応しない。


「なんでしょうか」


 アカネは左手を腰に当てて、ベッドの上で毛布にくるまっている修哉の姿に目を向ける。

「ここだとちょっとね……」

 アカネが、右手の人差し指で天井を示す。

「上、いい?」


 真顔でグレがうなずく。「わかりました」


 このふたりには、構造物など障壁にならない。重力にもとらわれず、するりと天井を通り抜けて屋根の上に立つ。


 周囲はまだ夜の闇に包まれている。最近は日中の日差しが強くなり、昼前には汗をかく気温が続くようになった。ただ、夜半ともなれば薄い上着を羽織らないと肌寒いと感じる。

 修哉以外の他者には見えないふたりが、二階建ての住宅最上から周囲を見下ろす。風もなく、ひそやかに静まる世界。


 穏やかな夜のとばりに包まれ、まだ多くが眠りについている。


 夜更けと早朝の狭間にあっても、一部の人間の活動はすでにはじまっている。

 新聞配達のバイクがエンジン音を響かせ、止まっては郵便受けの差し出し口をがたつかせる音がする。ふたたび始動させ、次の家へと進んでいく。


 アカネは屋根の半ばに立つが、足元がぼやけていてはっきりしない。ふわりと浮き上がり、屋根から空いた上空に座る姿勢をとった。

 淡い水色の服の裾が風もないのにひるがえる。明るめの長い髪は、緩い曲線を描いて肩から腰へと流れる。均整のとれたその痩身は、彫像のように見栄えがする。


 グレは、山型となっている屋根の頂点、棟の部分に直立していた。アカネとは対照的に、重量のある体型をしている。

 夜の暗がりでは漆黒の背広姿に見える。流線形のサングラスで両眼を覆い、感情を露わにしない。その風貌は、境内を護る仁王像のような威圧感がある。

 視える者には、生者が屋根の上でたたずむ姿として認識されるに違いない。

 しばらく両者は黙したまま、静止していた。


あねさん、大丈夫なんですか」

 グレの問いかけに、アカネはちらりと振り返った。グレの居場所へと視線を向ける。


「大丈夫って……シュウに聞かれないかってこと?」

「はい」


「大丈夫よ、あの子とのつながりを狭めてるから、しゃべってるのはわかるだろうけど内容までは聞かれないわ」

 いつものことよ、とつぶやく。


 ふたたび正面を向き、眼下を眺める。東の空がわずかに明るい。

 家々に挟まれた道路が続く。等幅で並ぶ街灯が白い光を落とし、円錐の形状に空間を照らす。

 早朝の出立なのか、旅行鞄のカートを転がす音を響かせながら、足早に駅の方角へと歩く者の姿がある。


「それにぐっすり眠ってるから、耳元であたしたちが話したって気がつかないわよ」

「ならばよいのですが」


 グレが神妙な顔つきで、アカネの挙動を凝視する。

 それを知ってか、アカネが振り返り、笑った。


「なによ、別に文句つけようってわけじゃないわ。そんなにびくつかなくたっていいわよ」

「なにかあねさんの気分を害するなにかを、私がしでかしたのかと──こうやって呼び出されるほどの失態を」

「しでかした、ねえ……」


 まあ、そうねと言葉を濁す。「そういう意味では、しでかしてるかしら」


 カラスが鳴いている。細かな光点を散らばせた墨色の空を、どこかへと飛び去る羽ばたきが聞こえる。


「ねえ、あたしね」

 アカネが真顔になった。「あなたにお願いがあるのよ」


「なんでしょう」

「昨晩、料理をしてるとき、あなたシュウを押さえつけたでしょ」

「……」


 間が空いた。グレの表情は変わらない。わずかにサングラスの奥の目が細まる。


「はい」

「いいのよ、状況も分からないまま身体の主導権を明け渡して、あの子が急に動いたら危ないって考えたんだろうし。あのとき、刃物扱ってたものね」

「ええ、そのとおりです」


 グレ、とアカネが呼んだ。でもね、と続ける声音に威圧がこもる。

「あなたは見えてなかったと思うけど、あのときあの子、怯えたのよ」

「……」


 アカネから漂う気配が重くなった。


 修哉を脅かしたという事実。

 修哉はアカネの執着である。アカネがこの世に居残る理由。その過大な執着が、威圧となってグレに届く。


 グレの表情に緊張が走った。両者のあいだに鋭い空気が張り詰める。める目で互いを捉え合う。


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