約束

かずぅ

第1話 廃墟の出会い

 冷たい雨が東京の空を覆い尽くしていた。高層ビル群は骨組みだけを晒し、まるで何か巨大な生き物の骸骨のように荒廃していた。その中の一つ、崩れかけたエントランスに少年タクマは身を潜めていた。


 彼の年齢は十五歳。かつて学校に通っていたであろう制服のジャケットは擦り切れ、泥と血の跡が消えることなく残っている。頬はこけ、目の下には深い影が刻まれていた。どれだけの時間、こうして生き延びてきたのか、自分でももう分からない。ただ、雨風を凌ぎ、食べられるものを口に入れ、また次の一日を迎える。それだけが彼の生活だった。


 廃墟と化したこの東京は、かつての賑わいを全く感じさせなかった。経済崩壊、環境破壊、感染症の大流行—あらゆる悲劇が連鎖的に都市を飲み込み、そこに住む人々の生活を根こそぎ破壊した。今やこの場所は、法律も秩序も失われた無法地帯となり、生存者たちはそれぞれの方法で日々を生き延びていた。


 タクマは雨音を聞きながら、暗い空を見上げた。灰色の雲は厚く重く、わずかに漏れ出す光さえ希望を感じさせない。乾いた喉を潤す水を求め、持ち物を漁るが、空のペットボトルが一つ転がるだけだった。


「また、探しに行かないとな…」


 小さく呟き、タクマは体を丸めるようにして座り直した。雨が止むのを待つしかなかった。そう思った瞬間、彼の耳に微かな物音が届いた。


 ——カサリ。


 どこか奥の方、崩れた建物の影で何かが動いたようだった。最初は風かとも思ったが、次第にその音が規則的なものだと気づく。人間だ。タクマの心臓が高鳴る。他の生存者と遭遇するのは珍しいことではなかったが、それが敵か味方かは分からない。この世界では、たとえ人間であっても信用できるとは限らないのだ。


 タクマは静かに身を低くし、足音を忍ばせながら音のする方へ近づいていった。雨音に紛れて、自分の動きが相手に気づかれることはないだろう。廃材の山を越え、崩れた壁の陰に身を隠しながら覗き込むと、そこにいたのは一人の年老いた女性だった。


 彼女は薄汚れたコートをまとい、痩せ細った手で何かを漁っていた。目の前には廃材やゴミが積み上がり、彼女はその中から使えそうなものを一つずつ引っ張り出しているようだった。その姿はまるで何かを探し求める亡霊のように見えた。


 タクマはしばらくの間、その様子を観察していた。彼女が何をしているのかはすぐに理解できた。恐らく、雨風を凌ぐための道具や食べ物を探しているのだろう。だが、彼女の動きにはどこか余裕が感じられた。それはタクマ自身にはないものだった。彼女はこの環境に適応し、生き抜く術を身に着けている—そんな印象を与える動きだった。


「どうする…」


 タクマは自問する。このまま何もせずに立ち去るべきか、それとも話しかけるべきか。彼の中で、二つの感情がせめぎ合っていた。一つは、彼女が自分を傷つける可能性があるという恐怖。もう一つは、この荒廃した世界で初めて見た「同じ人間」に対する興味と希望。


 雨音が静かに響く中、タクマは意を決して足を進めた。


「おい…何をしてるんだ?」


 自分でも思った以上に低く、震えた声だった。彼の言葉に女性は驚いたように振り返る。その顔には深い皺が刻まれており、目は鋭さを失ってはいないが、どこか疲れ切った表情をしていた。彼女はタクマをじっと見つめ、しばらくの間沈黙していた。


「…誰だい?」


 低く、しかしはっきりとした声が返ってきた。その声には警戒と好奇心が混じっていた。タクマは一瞬躊躇したが、逃げるのは愚かだと思い直し、もう一歩近づいた。


「俺は…ただの通りすがりだ。雨宿りをしていたら、ここであなたを見かけた。」


「通りすがり、ねぇ。」


 女性はタクマの言葉を疑うように繰り返した。その目がタクマの全身を鋭く観察する。その目には、かつては母親や祖母が持っていたような慈愛の色が僅かに残っていた。しかし、それを覆い隠すように、彼女の顔には厳しさが漂っている。


「名前は?」


「タクマ。」


「タクマか…いい名前だね。」


 女性は少し微笑むと、再び廃材の中を探し始めた。その動きは先ほどよりもわずかに警戒を解いたように見えた。タクマはその様子を見つめながら、どうやってこの場を切り抜けるべきか考えていた。


「ここに来たのは何か理由があるのかい?」


 女性が突然問いかけてきた。その声は冷たくもなく、むしろ穏やかだった。


「いや…ただ雨を凌ぐ場所を探していただけだ。それに、あまり人に会いたくない状況だからな。」


 タクマの言葉に女性は短く笑った。


「それはこっちも同じさ。でも、こういう世界じゃ、人間同士が助け合うことも大事だよ。」


 その言葉はタクマの心に不思議な感覚をもたらした。彼女が言う「助け合う」という考えが、この冷酷な世界でどれだけ通用するのか—それが信じられなかったのだ。


 それでも、この出会いはタクマの心に小さな火を灯していた。廃墟の中での初めての出会い—それが彼のこれからの運命を大きく変えることになるとは、この時の彼には知る由もなかった。

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