権威なき選別者

朽木 堕葉

人間でも化け物でも、ましてや神様でもなくて。

 神様がいるなんて嘘だ。

 いたとしても、ろくなもんじゃない――青年は、ソイツの手であったものからロザリオを無理やり引きちぎった。それは造作もないことだった。なにより特別、意味がある行為ではない。

 そうしてしまったあとで、僕は苛立っているのか? といぶかった。

 カラン。

 ロザリオから離れて床に転がった十字架が、乾いた音を響かせる。回転して靴先にぶつかったそれを青年は一瞥いちべつした。くすんでない銀の十字架に、自分自身の姿が妙にくっきり見えた。

 童顔には似つかわしくない深紅色クリムゾンレッドの冷めた目。

 短く整えた緋色スカーレッドの髪。

 戦闘服に包まれているのは痩躯そうくだったが、脆さは感じさせない。

 青年が笑いをこぼした。単なる思い出し笑いだった。

 この戦闘服に袖を通して、今日で丸一年だということ。今日で十七歳を迎えたということ。やつれたはずなのに、今の方が多少は屈強に見えたことが、殊更ことさらおかしかった。

 そして、あの日・・・から一年であるということも。

 青年は十字架により目を凝らした。疑問を込めた目つきで。

これが天矢 時久あまや ときひさという人間だ。神様に選ばれなかった・・・・・・・者の姿だ。

「わた……私は神にエラばれたのダ!」

 廃教会の奥でソイツが叫んだ。

 探照灯サーチライトの数が増し、崩れた外壁を通して四方八方から姿が照らし出される。

 ソイツは見るからに、重傷だった。そしてどう見ても、人間ではなかった。

 援軍のご到着か、と思いながら撃ち尽くした短機関銃サブマシンガンを放り捨てると、時久は穴だらけにしたソイツをまじまじと眺めた。

 全身の銃創じゅうそうから流れる血は青く、古びた絨毯を変色させてゆく。

 上半身は雄牛おうしとも熊ともつかない獣の様相のくせに、手足はイカの数だけ存在して形状もそれにそっくりだった。もはやなんとも形容し難い姿形すがたかたち

 今はもう、“化物”やら“異形”やら――“人でなし”とも、時久は呼ばなくなっていた。口は冷淡にソイツの正式名称を呼んでいる。

人ならざる者ニヒト=メンシュリッヒB2型の致命的損傷を確認。ならびに包囲完了」

 右耳内部に埋め込まれた複合型電子機器である猟犬の耳ハウンズイヤーが、時久の報告を遠く離れた司令室に運んでいる。

 実のところ、先ほどからずっと、ひっきりなしに基地司令のガミガミ声は聞こえていたのだが、無視していた。率いる小隊をバックアップにして、無理やり単独突入したことについてのお𠮟りも、時久がようやく応答したことで静かになった。

 時久は基地司令から撃滅の命令を受信する前から、腰のホルスターから取り出した拳銃の銃口をB2型の顔面に寄せていった。もはや両目くらいしか人間らしい名残りが見出だせないB2型が、叫んだ。確信めいた響きを伴い。

「滅びルのはおまエたちダ! 神に選ばれもしなかったおまエ――」

 時久が口内にねじ込んだ銃口が、その言葉を遮った。

 五十口径の回転式拳銃。確実に仕留めるため、決まって最後に使うと決めてきたもの。

選ばれし者に死をトート・デン・アウスヴェーレン

 常套句をつぶやき、時久は撃鉄を上げた。

 重々しい銃声は一発だけしか鳴らなかった。毎度ながら、破裂した敵の返り血を浴びることになったが。

 何年も放置した水槽のほうがマシと思えるくらいの汚臭に顔をしかめながら、司令室へ時久は告げた。

「……任務完遂にんむかんすい。今日は長めのシャワーを浴びたい」

 事後処理に駆け回る隊員たちを横目に、自分はもう、お役御免と判断する。帰り際、奥の台座から、こちらを見下ろす神の彫像を見上げた。

 その厳めしい神の顔に、時久は銃口を向けていた。先ほど人ならざる者ニヒト=メンシュリッヒにお見舞いした苛烈な一発を撃ち放つ寸前に気づいた。幾人かの隊員たちが、たたらを踏んだようになって立ち止まり、目を丸くしていることに。

「ばーん」

 彼らへ愛嬌たっぷりに時久はおどけてみせた。拳銃を仕舞い、

「あとはよろしくー」

 と今度こそ、その場をあとにした。



 化け物が神様気取りをしているだけじゃないか。

 時久はシャワーを浴びながら、毒づいていた。

 どうしてこうなってしまった? と疑問が頭をもたげることもある。けれどもそれは時久の生まれる前の話であって、考えるだけ野暮なものだ。

 人類がただただ愚かだったのか。

 寄生生物がずるかしこかったというべきか。

 いずれにしても、人類が後手に回ったのは事実で、人に寄生して素知らぬ顔で歩き回る寄生生物が、人ならざる者ニヒト=メンシュリッヒと呼称されるようになったのも、ずいぶんあとのことだったらしい。

 各国の政府要人や軍上層部を寄生された状態では、さもありなんというところだろうか。

 もっとも解せないのは、寄生された者が神に選ばれたと自負する傾向にあることだ。宗教的価値観で正当性を流布しようというのは、昔からよくあると、時久は聞いていた。

 ――神様が憎いの?

 不意に囁くような女性の声がした。その宗教的価値観について、語ってくれた人のものだった。時久は眉を寄せた。

 シャワールームじゅうを視線が一周したが、ほかに誰もいない。それに共同のシャワールームとはいえ、ここは男性用だ。女性の声が聞こえるわけがない。

 警戒の眼差しを保ったまま、時久はシャワーを止めた。手短に体を拭いて着替え、そこから立ち去る前に、こう応じていた。

「神様なんて、いないよ」

 自室に戻ると、ベッドに腰掛けた人影があった。赤い長髪の後ろ姿が。また、声が聞こえた。

 ――人類に進化を促す偉大なことなのよ。

「呪いの間違いだよ」

 時久は手を腰のホルスターに当てながら応じた。

 ――どうして?

「勝手な都合や理由で、醜い化け物にされたメデューサ姉妹の話……それもあなたが聞かせてくれたんじゃないか」

 ――そうだったかしら?

 とぼけるような笑い声がクスクス響く。

「それを打倒したのが、半神であるペルセウスだ。そして、メドゥーサ姉妹も元々は神の血筋だった。……馬鹿馬鹿しいって思ったよ」

 ――時には試練もお与えになるわ。だって、神様ですもの。

「試練のために神様が化け物を創造するって?」

 ――ええ、そうとも言えるわ。

 時久は戦慄わなないた。ゆっくりと腰から拳銃を抜いて、長い赤髪に銃口を向けてゆく。震え声が口をついて出ていった。

「救済は、いつになったらしてくれるのさ」

 彼女は答えない。鼻歌なんぞ歌っている。かと思えば、 

 ――神のみぞ知るかしらね。

 急に振り返って言った。異形の顔で。表情などもはや読み取れないが、鼻歌を楽しそうにつづけている。

 時久はたまらず発砲した。大口径によって、一度ならず三度も弾丸を叩き込まれたベッドは、かろうじて枕元の周囲だけが取り残されたように傾いでいる。

 そこからキラキラしたものが、床に滑り落ちていった。金色の十字架が、窓辺から差し入る月明かりにかすかに煌めいている。

「僕が殺したあなたは、そんなことばかり言っていた……」

 時久の視界が涙で乱れた。眼前を揺蕩たゆたう彼女は、本来の美貌に微笑みを湛えている。時久を見守るように。

「だけど……」涙を拭わずに、彼女の言葉を諳んじた。

「“人はそれ以上になれない――もしそうでなくなったのなら、もうそれは人と呼べなくなるわ”と、僕がよく知る真尋まひろ姉さんは、そう言っていたんだ……」

 時久は力が抜けたようになって、両膝を床につけた。

「噓っぱちだよ、なにもかも……」

『噓っぱち⁉ なにを言っている! なにがあった?』

 右耳の猟犬の耳ハウンズイヤーが喚き散らす声に、時久は気づいた。

「うるさいな……僕は僕の役目を果たしただけだよ」

 直属の上官である基地司令は、時久の礼儀知らずの物言いは気にしたふうでもなく、

『……オーライ。天矢 時久あまや ときひさ。明日から三日間、休息を命ずる。以上だ』

 安堵の色を帯びた声を寄こした。やや遅れていつの間にかやかましく鳴り響いていた警報がふっと途絶えた。

 それから時久は室内を見回した。肉親の姿は影も形もなかった。

「当たり前だ……僕が殺したんだから」

 苦笑していた。そしてそれが、凄惨せいさんに歪んだ笑みと変じた。

「神様なんていやしない。いるのは化け物か人間だけ」

 自らに言い聞かせるようにつぶやき、時久は頭を抱えた。

「そして――殺すか殺されるかだけ。これまでも、これからも、ね」


     ※



姉弟きょうだい揃って狂うのはよしてくれよ」

 時久との通信を切った直後、副官が冗談めかした発言をし、強面こわもての基地司令はそちらに目だけを動かした。

「化け物には化け物を……」副官はさらにボソッと言った。

 皮肉屋の副官は司令の視線を受けているのに気づくと、ヘラヘラ笑いを引っ込め、ぎょっとなる。

天矢 時久あまや ときひさを欠いては、戦闘継続に大きな支障が生じることになります……そう、申したかっただけであります」

 如何にも取り繕った言葉だ。しかし間違ったことは言っていないことから、基地司令は相手にせずお調子者から視線を外した。

 天矢 時久あまや ときひさに施された処置――

 遺伝子操作。

 後天的な肉体改造の施術。

 急遽、合法とされた薬物の継続投与。

 倫理・論理はもはや議論するに値せず、人類は平然と人ならざる者ニヒト=メンシュリッヒへの対抗手段を講じてきた。

 基地司令はしばしの物思いのあと、司令室にいくつか設置されたモニターのひとつを見つめた。筒抜けである天矢 時久あまや ときひさの部屋の様子を。

 泣きじゃくる彼の様子は、少なくとも人間的に見えていた。

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