悠久に響くロックンロール
うたかた
第1話
Ⅰ
「大場先生、いますかー」
抑揚は無いが通る声が、喫煙室に広がった。端から端まで歩くと十分ほどかかる広い大学構内に、唯一の憩いの場だ。休憩時間には各号館から肩身の狭い喫煙者達が、生命の温もりを求めるゾンビのように集まる。その人数に対応する広さに加え、パーテーションの区切りもある為、人探しは面倒だろう。
僕は半分ほど吸った煙草をスタンド灰皿に擦りつけて、声の主を探った。視線が辿り着いた先には、事務員の姫川さんがいた。
一年ほど前から、僕の所属する学科の事務室で働いている派遣職員。小柄で端正な顔立ちをした、二十代前半の女性。空色の上着にミュージシャンの缶バッジをつけて、鳶職が使うような横幅があるズボンを履いていた。髪をかき上げると、隠れた紫のメッシュが出現するらしい。
僕は一定の距離を置いて接していたが、他の若手教員からは「姫」と呼ばれ持て囃されていた。書類のミスをにこやかに指摘するのがサディストっぽくてたまらねえ、と言う者もいる。勤めて長い教授陣は眉をひそめたが、彼女のそつが無く早い事務処理に舌を巻き、何も言わない。
姫川さんは「臭いっ」と団扇のように手を左右に振って、咳き込んでいた。何とも芝居がかった仕草だ。周りの学生達からじろりと白い目で見られているが、意に介する様子はない。
距離はあるが目が合ったように感じた。彼女の口元が少し吊り上がったから、間違いないだろう。
「大場先生ー。専任講師で四十二歳。授業は英語Ⅲを担当している。縁無しの丸眼鏡をかけて、髪型はセンター分け。身長は百七十センチくらい。住所は東京都……どこだったかな。大場先生、いますかー」
おかしい。ここにいると分かっただろう。これ以上、個人情報を学生に漏らされては洒落にならない。
「おーい、ここにいるよ」
僕は顔を引き攣らせながら、手を挙げる。
にやにやする彼女と僕は連れ立って、英文学科の建物へ戻った。姫川さんが僕を呼びに来たのは、研究室の学生が怪我でもしたのか、または事件を起こしたか。それとも子供の悪い成績に、親が苦情をいれたのか。階段を上りながら思いを巡らせる僕に、姫川さんは声をかけた。
「ピンク色の長髪をした卒業生が、先生を訪ねてきていますよ。革のジャケットを着て、穴の開いたジーンズを履いて。ミュージシャンなんですね、彼。面白そうだから会話を盗み聞きしようと思って」
「当人に盗み聞きって事前に言いますかね。やましいことは無いので堂々と聞いてもらって構わないですよ」
事務室の扉を開くと、坂下省吾が受付前の椅子に座っていた。
彼は売れっ子という程ではないが、確かにミュージシャンだ。鬼切と書いてオニギリと読むバンドで、ボーカルとギターをしている。グラムロックが芯にあるのだろうけど、ハードロックやポップスやら音楽性がごちゃ混ぜのバンドだ。レコード会社と契約もしている。聞いた事がない社名ではあるが。
ただ最近は曲を世に出していない。数年前にアルバムを作り終えた後、坂下曰く天から音符が降ってこず、歌詞も口を閉じて沈黙している。だから地面にしゃがみ込んでいる状態だそうだ。「でもね。しゃがむ足に力を溜めているから、きっかけが起こればバネ玩具のように跳躍するんだ」と表現していた。
彼が卒業して六年経つ。前回会ったのはゴールデンウィークの頃だから、半年ほど前だ。洋楽の歌い手の気持ちを理解するために金髪にしていたのが、ショッキングピンクに変わっていた。どんな心境の変化があったのだろうか。今度は洋楽・邦楽を越えた宇宙規模の人になろうと思って、という所かもしれない。
坂下は僕にとって、卒業後も交流のある数少ない学生だ。英文学科の学生でもないのに知り合ったのは、彼が〝アリゾナ州短期留学〟に参加したからだ。僕はその年の引率教員をしていた。
当時、音楽部に所属する三年生だった。教務課から渡航前に参加者の簡易履歴書が送られてくる。その応募理由欄に坂下がでかでかと書き込んでいた『アメリカでロックを知るために!』という文字に、僕は頭を抱えた。三週間の長期留学中に、何件かトラブルが起きることは覚悟した。
研究室に電話をよこした音楽部顧問の教員から「坂下は初めての海外旅行でナーバスになっている。よろしく面倒を見てくれ」と頼まれたのは、イラっとしたものだった。
なんであの志望動機を書いて、ナーバスになっているんだよ。
「教授、久し振り」
「久し振りだな。何度も訂正しているが、教授じゃなくって専任講師だ。お前、来る時は連絡をくれよ」
「人の予定を確保して確実に会うなんて、つまらないじゃん」
「つまる、つまらないの問題じゃない。電話をかけるか、メールをくれればいいだろうが」
「機械を通した言葉じゃ、大事なことは語れない。魂がこもらないんだよ。それに今回はお願い事だし」
僕は坂下の向かいにある椅子に腰かけて、溜息をつく。
「分かったよ。どんな話なんだ」
「ここに車で連れて行って欲しい。千葉県の市原市」
そう言って彼が僕の眼前に出した携帯電話の画面には、チバニアンという文字があった。
この名称はだいぶテレビや雑誌で取り上げられていたから、世事に疎い僕も知っている。歴史の名称にチバニアンが採用された。ジュラ紀や白亜紀に続いて、日本の地名が時代名となったということで快挙らしい。坂下はチバニアンの地層に打ってある、ゴールデンスパイクという金の鋲を見たいという。
「これから俺はミュージシャンとして歴史に名を残す。だから、その前に本物を拝見しておきたいんだ。明日の土曜日に行こうよ」
「金町でお前をピックアップして、市原市田淵まで二時間くらいか。往復で四時間。週末は学生の論文を確認しようと思っていたんだがなあ」
腕を組んで考える。すると、受付で前のめりに話を聞いていた姫川さんが、坂下を援護射撃した。
「大場先生。私が依頼したその作業ね。締切は一週間以上、余裕見ているから大丈夫」
僕は信じられないと、目を剥く。
「正気か。だからこんなタイトなスケジュールなのか。姫川さんは知らないだろうけど、他にもシェイクスピアに関する資料作成だってある」
「それより、ここは坂下君の将来がかかっているんだから。一緒に行ってあげてください。ネットで彼のバンドの曲を聞いた事がありますよ。ケチな私が買うかどうか迷っているくらい良い。私は若いから詳しくないけど、グラムロックですよね。七〇年代イギリスで流行した、グラマラスを語源にした音楽。デビッドボウイが有名。坂下君の歌声、ボウイの透き通った声を彷彿とさせる。いや、マーク・ボランの女性的で高音な方に似ているかな。よく知らないですけど」
嘘つけ、かなり詳しいじゃないか。という言葉を飲み込んで、僕は黙って頷いた。
坂下の顔が明るくなった。子供の無茶なお願いを叶えたような気持ちになる。今後が怖い。坂下は姫川さんに向けてウィンクをした。彼女もウィンクを返す。やれやれ、事前に示し合わせていたんじゃないだろうか。
『大事なことは機械を通さない。対面で口にして伝える』、か。確かな真理だ。こうやって僕が旅行同行を断れなくなった事が、証明している。
坂下と明日の出発時間を決めるために、二人で事務室を出て研究室に向かおうとした。
姫川さんが「お土産は何がいいかな」と呟くのが、耳に入った。業務用パソコンで市原市の名物を調べているだろう彼女は、髪を掻き上げる。紫のメッシュがサイドにのぞいた。
本当に個性的な人だな。何かの申請書について彼女が真剣な説明をする時に、舌ピアスがぎらぎら煌めいても驚きは無いだろう。怖ろしい姫だ。
彼女の「お土産、熟考して後でメールを送りますね」という言葉に、僕の背中はぐいっと押し出された。
Ⅱ
坂下から聞いていた住所に到着したのは、待ち合わせ時間丁度だった。カーナビが「目的地周辺です」と冷たく業務終了を宣言して、僕は途方に暮れた。
以前にも坂下の家を訪ねたことがあるが、ここではない。庭に池がある広い敷地。瓦屋根の邸宅だったはずだ。だが、目の前には二階建ての古ぼけた……いや歴史を感じさせるアパートしかない。
取りあえず、時間だからと坂下に電話してみる。すると一時停止した僕の車のすぐ隣の部屋から、ハードロックのギター音が鳴り響いた。彼の着信音だ。どれだけ壁が薄いんだ、このアパートは。
どたばたと物音がした。部屋の扉が開き、坂下が転がり出て来る。膝の破れたジーンズを上げて外に出ようとしたものの、上手く足が抜けなかったらしい。でんぐり返しをして、文字通り転がった。
僕は車のクラクションを軽く二回鳴らす。車内に駆け込んだロックンローラーはバツが悪そうに、運転席を見詰めた。僕といえば、申し訳ないが大笑いをしていた。
「坂下、もう二十八歳だろ。そんな真似をするのは高校生までと思っていた。これだけ笑ったのは久し振りだ。時代劇に出てくる長袴みたいに、お前のジーンズは引き摺られていたぞ」
「待ち合わせ時間は俺が指定したから、遅刻する訳にいかないよ。そりゃ慌てるでしょ」
「すでに、しっかりと遅刻だよ。朝食、まだだろう。地図を調べながらファミレスで飯を食べよう」
「地図? あらあら。教授、車にナビが付いていないの」
笑ったことへの意趣返しか。坂下は目を大きく見開いて、大仰に驚いたふりをした。
「だから教授じゃないって。ナビは付いているし使う。だけどどんな道を通るのか紙で確認したいんだ。感覚で捉えた上で、ナビの感情のない機械音に従いたい。さもないと、何の実感も感慨も無く目的地に着いちゃうから」
「先生も変わっているな。でも好きだね。良い姿勢だ」
坂下は狭い車内いっぱいに両手を広げて、伸びをした。
「今日は広々とした晴天だ。さっき転んだ時に思った。どこまでも邪魔されない青空。たまにこけるのもいいもんだよ。お勧め、転倒」
坂下は満面の笑みを浮かべながら言う。負け惜しみじゃなくて本当にそう感じたのだろう。パワーウィンドウを下げて、僕も顔を覗かせる。確かに遥か彼方まで飛べるような、透き通った青空だった。
近場のレストランに到着して、広い食卓で千葉県の地図を広げた。僕はシーザーサラダとガーリックトースト。坂下は銀ホイルに包まれたハンバーグを注文する。
地図を指さして坂下と経路を確認し始める。まず目の前の柴又街道を下って千葉方面に向かう。国道十四号を通って高速道路に乗り、市原インターチェンジで降りる。県道八十一号線を通って十分くらいでチバニアンのある駐車場に到着だ。
地図を閉じて鞄に仕舞った。はっきりと目を覚ますため、ドリンクバーでカプチーノを入れて席に戻る。坂下は銀ホイルを破ってハンバーグを突ついていた。蒸気が上がり、油の弾ける音がした。
「朝からハンバーグを食べるのか」
坂下は口を動かしながら
「いずれアメリカをツアーで回るからね。何のために俺が英語で歌っていると思っているの。世界進出するからだよ。ハンバーグ、ステーキとコーラには体を慣らしておかないと」
確かに彼は全曲、英語で歌っている。
アメリカ留学時は最下位クラスで授業を受けて、聞き取れない英語に苦しんでいた。だが目を擦って時差に耐え、必死に授業に臨む姿には感動すら覚えたものだ。
留学後も勉強を続けたのだろう。今の彼の歌は、完璧な文章とイントネーションだ。褒めると、一緒にライブをしている外国人と遊び回っている結果だよ、と素っ気ない。とはいえ、そっぽを向く口元は緩んでいたが。
「いやいや。アメリカでも朝食はシリアルと牛乳だろ」
「それは盲点だった。でもベーコンと卵料理、シロップとバターのたっぷり乗ったパンケーキだぜ。やっぱり日本人には修業が必要だよ」
「そう言えば、お前、前に住んでいた家は豪邸だったよな。何で今はあんな趣のあるアパートに住んでいるんだ」
僕は、坂下の今の住まいに感じた疑問を投げかける。
「そりゃ俺も二十代後半だよ。親元を出たに決まってるじゃない。とは言え曲の売り上げなんてたがが知れているから、バイトを掛け持ちしている。そして住んでいるのが、あの威風堂々としたマイキャッスルなわけ。だから、この朝食は出世払いでお願いします。ご馳走様」
いつの間にか坂下は食事を終えており、両手を合わせてお辞儀をしていた。
Ⅲ
都内の道を越えて千葉の街を抜け、市原インターチェンジを過ぎると、両脇に緑が増えてきた。パワーウィンドウを少し開けて、秋の凛とした空気を味わう。チバニアン近くの県道八十一号付近になると、朱色に紅葉した植物が目に飛び込む。
チバニアンの駐車場に着いたのは正午過ぎだ。パーキングブレーキをかけて後部座席を見ると、坂下は横になって寝ている。僕が黒革のブーツをどけて彼の背中を叩こうとすると、背中を向けたままでぼそぼそと言った。
「先生。さっき家を出たと言ったけど。正確に言うと、親父に絶縁されたんだ。三十歳も近いが定職につくのか、音楽を続けるのかって迫られて。俺も最近は曲が書けてないから、痛いところつかれて腹が立っちゃって。売り言葉に買い言葉で、親父が激高した。そこから転々と友達の家に世話になってる。だからあれは友人のアパートなんだ」
そしておもむろに立ち上がって車外に出た。膀胱がはち切れそうだ、と駐車場の仮設トイレへ足早に向かった。
僕も車から出る。駐車場には他に二台の車があった。カップルが会話をしながら、出発しようとしている軽自動車。家族四人でちょうど乗り込もうとしている車。二台とも出ていく所なので、歩いて来る者がいなければ見学者は僕らだけだろう。
坂下を待っている間、僕はビジターセンター前の掲示板に置いてあった冊子を読んでいた。
「先生、何やってるの。行こう」
トイレから出た坂下が、人差し指で進路方向を指す。
「センターの人に案内をお願いしないのか」
「初回だからね。まずは自分の目で見て、感じたい」
そう言って、僕の手から冊子を取り上げた。二人で並んで歩く。地面に丁寧に設置された鋼板の足場を渡り、坂道を下る。途中、チバニアンの説明掲示板が何か所かあった。
坂下は素通りしたが、僕は掲示に出くわすたびに立ち止まった。すると坂下も足を止めて、周囲の風景を見渡す。
「どう、面白いこと書いてある?」
僕は看板の一部を読み上げる。
「地球の時代の境目は、代表となる生物の絶滅が基準となる。だから地層から掘られる化石の種類が変わる所で分けられる」
「アンモナイトとかティラノサウルスとかだね」
「そう。でもチバニアンの時代は化石の種類が変わらないため、地球の磁気が逆転した時を目安とした」
「そこで、その証拠が地層に残るチバニアンが、時代名として選ばれた訳だ。運命的だな」
坂下はどこから拾ったのか、細長い木の棒を指揮者のように振っていた。どれどれと、彼は次の掲示板で足を止めて文を読む。
「七十七万年前から十二万年前までがチバニアンなんだって。だから六十五万年間の時をチバニアンと呼ぶんだな。途方もない。それだけの長い歳月が千葉の物なんて」
小さな橋を渡って、彼は続けて言う。
「でも地磁気って何なの?」
「方位磁石が北を向くように、地球には磁場がある。これが逆転するそうだ。これから行く地層に、それが特定できる火山灰層がある。
イタリアも南部二ヵ所の地層を申請した。だが、千葉の地層の方がはっきりと地球の磁気逆転を確認出来たので採用された」
坂下の体がぶるっと震えた。
「堪らないね。イタリアはルネサンスから西洋音楽を率いた強国だぜ。グレゴリオ聖歌より日本の雅楽の音が派手で目立った。琵琶の音色が、バイオリンより世界に響き渡った。歌舞伎がオペラより感動的だった。そういうことだろ。最高だよ」
「何十万年前の話だから、近代音楽の例えは違う気がするけど」
坂道を降りて、僕はズレた眼鏡の位置を直す。
「先生は分からないんだよ。外国から来たバンドと共演する大変さが。あいつらは実力を買われて、高い金を払ってわざわざ来てもらうんだから。人気と集客力もあるし、ボーカルの音域はとんでもなく広い。ギターフレーズも何を食ったら、あんなのひらめくのかと思う。ドラム、ベースは力強くて、リズムが正確。普通は太刀打ち出来ない」
目の前に、昼光を白く反射する養老川が広がった。地面を削って木の板と杭で固定した階段を踏み締めて、僕らは降りていく。左手に少し歩くと地層があった。
地層の上部には、四角い銀プレートに固定されたゴールデンスパイクが打ち付けてあった。直径二十センチの黄金の鋲は中央に線が引かれており、上部にチバニアン、下にカリブリアンと記されている。カリブリアン時代があって、その後チバニアン時代が始まったという意味だ。
黄金のメダル脇には赤・黄・緑の杭が打たれている。下の赤杭は磁場が逆だった時代。中ほどの黄色は磁場が不安定。上にある緑杭は現在の磁場と同じ時代の地層らしい。
ほおっと吐息を漏らして、坂下が地べたに座った。それを見て僕は声をかける。
「すぐそこが川なんだから、濡れるし汚れるぞ」
「何十万年の時代の流れを感じているんだから、小さいことは言わない。せいぜい車の後部座席が汚れるくらいだよ」
階段の中腹、ゴールデンスパイクの位置する高さには、人が数人集まれるくらいの空間があった。僕はそこから地層の写真を何枚か撮る。
「世紀の大発見だろうし、イタリアに打ち勝ったんだけど。少し地味だな」
「意外に重要なことって地味でシンプルかもしれないよ。見かけで分からない。先生が大学で恐れをなしていた教授とか、俺にとってはただのお爺さんだもん。イギリス文学の権威だっけ。先生が目をキラキラさせて教えてくれた人」
「そうかもな。一般男性のアイドルは顔の整った、歌って踊れる女性だろう。だけど、イギリス文学の学会アイドルは好々爺だ。歌いも踊れもしない。でもあの教授の知識は宝物だし、話す内容は脳に雷のような刺激を与える」
僕も川べりから地層を眺めようと、階段を降りる。すると坂下が養老川へ数歩入り、両手で水をすくって飛ばしてきた。
「子供か! 冷たいからやめろ」
しかし彼の破顔一笑の表情を見ると、不思議と怒る気にもなれなかった。
「見てろよ。音楽史に名を残すぞ。イギリスはジョン・レノンにミック・ジャガー。アメリカにはカート・コバーンがいる。でも日本には坂下省吾がいるんだ」
いつしか彼は水を、自身の頭上高くに飛ばしていた。まだ歌詞のついていない曲を歌いながら。穏やかな休日に教会で響く賛美歌のような、美しい曲だった。
天から彼に戻る水滴は淡く眩しく、坂下の笑顔を輝かせていた。
Ⅳ
チバニアン鑑賞を終えた帰路で、市原湖畔美術館に寄った。坂下が腹が減ったので昼食にピザを食べたいと言ってきたからだ。
朝食はレストランの洋食だったから、高滝湖の前にある和食屋や屋台などを勧めてみた。湖にある赤く大きな鳥居を見ながら、屋台のラーメンを手繰るのも粋だぞと感情に訴えたりもしてみたが、徒労に終わった。ロックンローラーなのだからと、美術館に隣接するピザ屋を頑として譲らなかった。
店内に入るやいなや、坂下は高滝湖の全景が見下ろせる席に座った。ワカサギ釣りをしているのであろうボートや、美術館の作品である水中彫刻が眼下にある。
僕は粗挽きソーセージと、揚げたポテトを頼んだ。坂下はイノシシ肉のピザと、コーラだ。
「朝にハンバーグで昼はピザか」
「そう。それとコーラは外せない」
彼は目を閉じて、空想のギターを鳴らす仕草をする。地層を前に頭に浮かんだという曲の余韻に浸っているようだ。
僕は料理を待っている間、高滝湖を漠然と眺めた。美術館への道で湖を回った時には、水辺の鳥居が気になった。だが今は、水中彫刻でひときわ巨大なカゲロウに目を奪われている。この離れた距離からはっきりと目や脚と細やかな羽、段々となっている腹が分かるのだから、全長何メートルなのだろうか。どんな材料を使って、どのように製作し、どうやって水の上に設置したのか。
空に向かって直角の形で飛び上がろうとする姿。掲げられた六本脚は神に祈りを捧げているように見える。羽化した後は数日しか生きられないカゲロウ。儚い彼の願いは叶うのだろうか。
さっきまで坂下と何十万年という、無限と思えるような時について話していた後だ。八十年の生涯である人間だって、チバニアンにとっては、カゲロウだ。
しかしあの個体は、広大な高滝湖ですら目立つ特別な生物だ。きっとこのまま天高く飛翔し、神に直談判して望みを叶えるに違いない。
悠久の時の中でも強く願って努力すれば、神は儚い者にも扉を開いてくれるのではないか。その刹那を狙って、坂下もあのカゲロウのように飛び立てばいい。
「親父に勘当されてひもじくても、音楽に噛り付いているんだよな。口ずさんでいる曲、格好いいぞ。書き上げろよ」
「ああ。俺には音楽しかないから。親父も認めざるを得ないくらいの力のあるロックンロールを響かせるよ。間違っているのはどっちか。はっきり分かるくらいの名曲をね」
窯で焼かれたピザが席に運ばれてきた。イノシシ肉が輪切りのソーセージの形で、チーズに乗っている。黒コショウが香った。坂下はカットした一枚を大口に放り込む。熱い、チーズがとろけて、熱い、でもうめえ。呻きながら咀嚼して、コーラをがぶ飲みした。
美術館の駐車場に停めていた車に乗り込んで、都内を目指して走らせる。しばらくして、僕は道路の端に停車した。腕組をして首を傾げる。
「何か忘れたらまずい事があった気がする」
「忘れちゃうなら、大したことじゃないでしょ」
「いや、脳が警告を発している訳だから思い出さないと」
「そう言えば、出発前に先生は梅ちゃんにお願い事をされているかもしれない。そう何度か、ぶつぶつ言ってたじゃん」
「誰だ、梅ちゃんって」
「やだな。先生の事務室で働いている梅ちゃんでしょ」
「まさか、姫川さんか。あの人、梅っていうのか」
笑いそうになり、体が震える。姫川梅。パンクロッカーみたいな身なりで、そんな純和風な名前なのか。目鼻立ちのはっきりした西洋人の顔立ちに、梅という名のミスマッチ。
駄目だ。このまま笑いに火がついたら、運転中にハンドルを九十度回してしまう。ぐっと堪える。
「なんで初見の俺が梅ちゃんの名前を知っていて、一緒に働いている先生が知らないんだよ。梅。短くて外国で覚えてもらいやすいし、ロックで良い名前だ」
携帯電話で職場のメールを確認してみる。やはり彼女から『市原旅行のお土産について(重要)』という件名で、連絡が来ていた。
『大場先生 お世話になっております。事務の姫川です。坂下君との日帰り旅行いかがでしょうか。短い旅でしょうが、先生と彼にとって実りの多いものとなることをお祈りしております。
さて、私へのお土産ですが千葉と言えばマックスコーヒー。あの甘い琥珀色の飲料を支えに、私は日々の過酷な事務業に耐え忍んでおります。その味のクッキーを所望します。市原サービスエリアで購入できるようです。お気を付けてお帰りくださいませ。敬具』
親密ではない人間にこれほどふざけた文章を送れることに僕は感心しつつ、ハンドルをサービスエリアへの道に切り返した。
Ⅴ
市原旅行から数か月たった頃、喫煙室に姫川さんがやってきた。今回はあっさりと僕を見つける。息を切らせながら言う。
「大場先生。ネットニュース見ました? 坂下君が出てます。動画サイトにあげた新曲がアメリカで、アラバマ州を皮切りに人気に火が付いたって。逆輸入ですよ。これから日本で知られていきそう」
僕は口を上に向け、煙草の煙を吐き出す。白い煙は上昇して、天井付近の換気扇に吸い込まれていった。
ああ、坂下は千葉から世界に飛び立ったか。上手く飛行を続けて、音楽史に名前を刻めよ。気が付けば僕は右拳を握って肘を曲げ、姫川さんに向けてガッツポーズをしていた。
【了】
悠久に響くロックンロール うたかた @vianutakata
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