1. 沼に落ちるは蜜の味

「おい、おせぇよ」



カシラは要望が多い。いつも腹が立つ事があると俺を呼び出して乱暴に扱う。それももう慣れたものだった。カシラは俺の髪を撫でながら口を開いた。



「和海 (かずみ)、お前さぁ、藤堂組の坊ちゃんの懐に入り込め」



「……ん?」



上目でカシラの顔を見上げると、カシラは淡々と言葉を続ける。



「派閥争いになったら藤堂組がどっちに付くかが重要になる。今のうちに藤堂組の意向を知っておけば、うちの組もどっちに付くか決められる。そうすりゃぁ、今から手を打って、藤堂の寝首を掻く事もできるよなぁ」



話しは聞いているが、苦しくて口か耳かと集中が偏ってしまう。



「お前、藤堂の坊ちゃんと顔見知りだろ? うちはあっこから組み分けしてもらってるし、藤堂の叔父貴は親父を信じきってる。だが藤堂組が倉松と羽白のどっちに付くかってのは口が裂けても言わねンだと。だからこれは親父からの命令だ、和海。お前、探り入れて来い。分かったな?」



カシラは眉間に皺を寄せて俺の後頭部に手を回した。



「きったねぇなぁ」



苦しさに鼻水も涙も垂れてくる。何度経験しても慣れないもんてのはゴマンとあるし、我慢ならない。腹が立つが逆らったらところで、だから逆らう気力は最初からなかった。



「あの…カシラ、藤堂の件、本当に探り入れるんですか」



「何度も言わせんな」



「すんません…」



藤堂のカシラ、…康之さんの懐か。俺は口を歪めて視線を落とした。俺の微かな感情の揺れを読み取ったカシラは、俺の前髪を鷲掴むと顔を上げさせ、睨みつけるような視線を向けた。



「親父への恩、忘れたわけじゃねぇだろうな」



それを言われたら何も言えないってのを、カシラはよーく知っている。だから俺は不服ながらも承諾せざるを得ず、「やりますよ。やりますけど」と頭を掻いた。カシラは俺から離れるとジャケットを着直した。



「でもどうやって藤堂組に近付くんですか。康之さん、…じゃなくて藤堂のカシラと顔見知りって言っても、俺が昔、組に入る前に少し話した事があるくらいですよ」



「十分だよ。何か接点があればそれだけでな」



「分かりました…」



「丁度、向こうのカシラ補佐がしょっ引かれたろ。藤堂は勢力拡大の為に人員を裂いてるし、藤堂の叔父貴直々に良い人材がいないもんかと親父に嘆いてたって話だ。うちで良ければいつでも力になるって言ったら何て言ったと思う? 藤堂の坊ちゃんのサポートができそうなやつを一時的に貸して欲しい、だってよ。無茶苦茶言いやがるだろ? けど、チャンスだよな?」



「親父が叔父貴の寝首を掻くつもりだなんて知りませんでしたよ。仲良さそうなのに腹の底は見えないもんですね。でもまぁ、そうじゃなきゃ、うちが上に立てないですからね」



「そういうわけだ、頼むよ、和海」



「分かりました。でも藤堂のカシラの懐に上手く入れる気がしないですけどね。アレ、とんでもなく懐疑心強くて堅物でしょう」



「あーいう堅物ほど案外快楽に弱いもんだろ。お前、得意だろ? そーいうやつ、落とすのサ」



カシラは俺の事を知りすぎている。俺の性癖も、快楽に流されやすい事も、そしてここに来る前、何をしていたかも。厄介だった。俺が舌打ちを堪えているとカシラは「あーでも」と顎を撫でる。



「坊ちゃん、浜内組の娘と縁談あるんだったか? じゃ、お前の武器は使えねぇか」



武器って何だよ。今までも交渉の為に使った事ねぇよ、腹立つな。



「ま、どうにかして坊ちゃんからどっちに付くかを聞き出せ。良いな?」



「…はい」



俺が藤堂組へと出向いたのはその翌々日だった。うち、石北会鶴田組は藤堂組から組分けしてもらい独立した。もう10年も前の事になる。力をつけて対等になり直参に昇格し、今では藤堂組と肩を並べて次期石北会を担う組のひとつだった。一見信頼し合い、助け合い、良い関係を築いているように見えるうちと藤堂組だが、親父はきっと昔から藤堂の叔父貴を煙たがっていたのだろう。叔父貴がいる限り、うちはこれ以上の昇格は望めないから。いつまで経っても叔父貴の下になってしまうから。だから親父は叔父貴の寝首を掻きたいのだ。


そうして今、現会長の体調が芳しくなく、次期会長を決めるこのタイミングでふたりの本家若頭、古参の倉松組長と稼ぎの大きい羽白組長が跡目候補で対立し、それを機に親父はどうやら叔父貴に何かを仕掛けるつもりらしい。もし戦争になった場合は藤堂組が付く方が跡目になるだろうと予想されている。


だがカシラが言った通り叔父貴は口を閉ざしたまま。だからこそ、俺がその組に放り込まれる事になったのだ。それも藤堂の坊ちゃんと呼ばれる、藤堂組の若頭の側近として。彼は藤堂の坊ちゃんと呼ばれてはいるが実息ではないらしい。つまり血の繋がりはない。実息は同じ藤堂組にいるまだ20歳の鼻垂れ小僧で、組を任せられる年齢ではないし、カシラ曰く藤堂の馬鹿息子らしい。会った事はないから分からないけど、多分そうなのだろう。



「ご無沙汰しておりました、藤堂のカシラ」



俺が媚びを売るのは馬鹿息子でなく、賢く冷徹な方。表情のない鉄仮面男は俺を見ると口を開く。



「そんなに堅くならないで下さい。うちが無理を言って来て貰っています。あと、ふたりの時は康之で構いません。あなたとはバーで知り合った仲ですから」



「そ、そうですか? では少しラフに接しますね、康之さん」



「えぇ。そうして下さい」



とは言え冷徹男の怖い姿を俺は見た事がなかった。怒ると怖い、ヤクザらしいヤクザ、とはよく聞くが、俺には全く想像が出来なかった。年も座布団も上だがいつもこの調子で敬語だし、笑う事はないが俺に対して怒る事もない。


彼、藤堂組若頭の康之さんは図体がやたらデカくて確かに怖い。身長は190センチくらいあるし、背が高いから目立たないがかなり筋肉質で肉厚な体格だから、色々と圧が凄い。ジャケットを脱げば厚い胸板が窮屈そうだし、腕を曲げれば二の腕がピチピチになる。加えて顔も怖い。にこりとも笑わない顔に銀縁眼鏡。ヤクザ者らしい強面に拍車をかけるような上唇の傷痕。


でもこの人はいつでも誰でも常に敬語だし、ミスを極端に嫌い、何もかもを完璧に熟そうとするから、その振る舞いや性格は全然ヤクザっぽくない、というのが俺の印象。怒るとどうなるかを俺は知らないからヤクザっぽくない、なんて思ってしまってるだけなのだろうけど。


そんな彼とは俺がこの世界に入る前、バーでたまたま会って意気投合した。俺は彼がヤクザだとは知らなかった。ただ、右目の下のホクロが色っぽいなと、銀縁眼鏡に掛かる少し長めの前髪が色っぽいなと思って話しかけただけ。まぁ、今は常に髪を後ろに撫で付けているが、プライベートだと下ろしているらしく、それがとても妖艶な雰囲気を醸し出す。数年後、俺は色々あってこの世界に入り、俺達は奇妙な再会を遂げた。それからの仲だった。


ただ彼はとてもお堅い人間だし、共通趣味でその時は盛り上がったが、それ以外は死ぬ程につまらない人間なんじゃないかと思っている。


だから正直、こんな事をやってられるかって思った。彼を食えるならまだしも、食えもしないのにこんな鉄仮面男の横に無期限で居座り続けるなんてやってられない。出会った時、なんであんなに楽しかったのかぶっちゃけ覚えてないし、酒のお陰で話が弾んだとしか思えない。


だから俺は、鉄仮面の世話が終わると毎日、毎日、楽しくストレスを発散する。楽しい事は大好きで、気持ち良い事はもっと大好き。快楽は何よりもストレス発散になる。



「今日も綺麗だね。本当に可愛い」



「もう可愛いって言われる年じゃないですよ」



「そう? でも、本当に君は可愛いよ。何年経っても変わらないな、本当に格好も良くて、美しくて、可愛くて、全てを持っているね?」



「ふふ、そうですかぁ?」



昔の馴染みと乳繰り合うのは良い小遣い稼ぎになるもので、昔っからの癖は治らずに、この世界に入っても快楽に縋って生きている。でも悲しいかな、体を重ねても満たされた事は一度もない。


久々に会った男には猿のように盛られたが、翌日も仕事はきっちりと熟してみせる。俺が男娼まがいの事を今でもしていると知っているのはカシラだけで、もちろん他の奴らには隠し通す必要があった。当たり前だけど康之さんにも。


だが夜遊びも忙しくなると一切できなくなり、禁欲生活を強いられるようになる。毎日毎日、溜息と舌打ちが宙を漂う。俺の為にも一刻も早く康之さんから情報を得る必要があった。俺は補佐としての仕事をしながら、予め知っていた好みの話題をちらつかせ、康之さんとの距離を縮めようと思った。



「そうだ、ウィスキーの美味い店を見つけたんです。行ってみませんか?」



忙しくて堅物な鉄仮面だから断られると思っていた。それでも繰り返し誘えばいずれは、と。だって噂じゃこの人は夜遊びをしないらしいし、キャバにも風俗にもほとんど行かないと有名だった。ケツモチの店でたまーに引き摺られてお金を落としに行くらしいが、終始無表情で仏頂面だと聞く。女の子達が可哀想である。



「え、良いんですか?」



だからてっきり断られると思っていたが、康之さんの眼鏡越しの瞳が弧を描く。意外だ。



「も、もちろんです。また前みたいに話したいなと思っていたので良ければ」



「えぇ、楽しみに待ってます」



そうして彼とはブルースが流れる雰囲気の良いバーのカウンター席でしっぽりとウィスキーを嗜んだ。康之さんは長い足を窮屈そうにカウンターの下でクロスさせている。デカいと色々と苦労だろうな。



「それにしても、どの組もピリピリしてますよねー」



「していますね。ここ数週間、ずっと」



「康之さんはどっちが跡目になると思います?」



自然な流れで仕掛けたつもりだったが、彼は無表情にウィスキーを飲んで俺の瞳を見つめると、「組の話はやめましょう」と躱される。まるで俺の狙いが分かっているようで一瞬戸惑った。



「確かに。仕事終わりに仕事の話、嫌ですよね。失礼しました」



頭を下げると康之さんは「あ、いえ」とすぐに訂正を入れる。



「ただ俺は仕事の事よりも、和海さんの事を知りたいなと思ったので」



切れ長の瞳が俺を捉えると、トンッと心臓が跳ねる。彼にとってその言葉はそのままの意味で、色恋のそれや夜のお誘いの意図は皆無だろうが、俺は正直少しだけ動揺した。もちろん、顔にも行動にも出さないけれど。



「何を知りたいですか? 康之さんにならなーんでも教えますよ」



好きな体位とか教えましょうか?



「じゃぁ、好きなお酒は何ですか」



なんて、この人は絶対に興味のない話題だ。



「お酒ですか。ウィスキーは好きです。けど最近はジンの方が好きかもしれません」



「そうですか。ジン、ですね」



「康之さんはジン、好きですか?」



「えぇ。今度はジンが美味しい店に行きましょう」



「良いですね! そうしましょう」



なんだこれ。本当にただ飲みに来てるだけじゃねぇの。さっさと派閥の事を探りたいのになぁ。時間掛かりそうだなと俺は心の中で舌打ちをした。しばらくすると康之さんは「あの、」と意を決したように俺を見つめた。



「はい」



「良かったらこの後、うちに来ませんか」



「康之さんの…家?」



なんで? ヤらねぇのに? ヤる事以外で人ン家に行くって何だろ。



「えぇ。ここからタクシーで10分程度です。昔、話してたジャズのレコード、覚えてますか? 和海さんが好きだって前に言ってたMy Funny Valentine 手に入れたんです。聴きながら酒、飲みませんか」



「贅沢ですね! 是非!」



へぇ。俺が好きだった曲なんて覚えてんだ。


 

「まだ和海さんと話したいなと思っていたので断られなくて良かった」



無表情に言われるが言った言葉だけを考えると、うーん、どうもな。思わせぶりな事を言うタイプの人間か。



「嬉しい事を言いますねぇ。浮かれそうです」



「えぇ、浮かれて下さい。浮かれた和海さんを見てみたい」



やっぱ口説かれている? …というわけでは、ないんだよな?



「康之さん、結構酔ってますか」



頬を緩めてそう訊ねると、康之さんは相変わらず表情なしでウィスキーを一口飲むと、「いいえ、まだ」と否定する。酔ってないと否定するあたり、本当はかなり酔ってるのか。それとも本当に全く酔ってないのか。酔ってないなら家に誘って浮かれた和海さんを見てみたいとか言うだろうか。


でも普通に考えれば浜内組のお嬢と縁談があるようなこの男だ。俺を誘ったわけではないのだろう。俺はふっと自嘲した。


彼の家は広かった。窓からロマンチックな夜景が一望できる。ジャズの名盤をレコードで掛けながら、しっぽりとウィスキーを飲む。チェットのMy Funny Valentine のレコードジャケットが、レコードプレーヤーの横に立て掛けられていた。オリジナル版のレコードジャケットの右上には、少し引っ掻いたような傷があるがほぼ完璧な状態である。羨ましい。



「昔、このレコードが欲しいって和海さん言ってましたよね」



俺の視線に気付いて康之さんはそう言った。



「言いました。やっぱり良いですね、格好良い。…それにしてもレコード、たくさんあるんですね」



膝くらいの高さにある棚にはレコードがぎっちりと収納されていた。



「えぇ。収集癖があるのかもしれません」



「あー分かります。俺なんてまだ数枚しかありませんけど、たーくさん買って、壁一面をレコードにしたいですもん。…あ、これなんてプレミアじゃないですか」



「好きなレコード、掛けて良いですよ」



「すみません、はしゃいじゃいました」



「いいえ。和海さんの事をもっと知りたいので、好きなだけはしゃいで下さい」



そう言いながらも康之さんは相変わらずの無表情鉄仮面である。しばらくジャズレコード談義をして、楽しくなって酒も進む。気付けば何が面白いのか俺はケタケタと肩を揺らして笑っていた。一頻り笑って一息ついた後、康之さんがウィスキーを片手に俺を見て、少し首を傾ける。



「和海さん、今日はもう泊まりませんか」



その言葉に俺の片眉は無意識に上がっていた。泊まりか。連日連夜禁欲を強いられて、良い加減、誰かに連絡取ってヤろうかとも思ってたんだけどな。仕方がないか。康之さんの懐に入るには、イエスマンになって気に入られないと始まらないもんな。



「嬉しいお誘いです。正直、帰るの面倒だなとか思ってましたから」



「着替えはこちらで用意しますし、新品の歯ブラシもあります」



「ホテルみたいですね、楽しくなっちゃう」



「シャワー浴びますか」



「はい、ありがたいです」



「もう浴びますか」



「あー…いえ、先、良かったら浴びて来て下さい。俺はまだ酒飲みたいので」



「分かりました。では、お言葉に甘えて」



康之さんはグラスに入っていたウィスキーを飲み干すと、シャワーを浴びに風呂場へ消えた。俺はひとり酒を飲みながら、康之さんがどうしたら口を割るかと考えている。ローテーブルに肘をつき、高そうなジャーキーを口に放り込んでぼーっと考えていた。


でも酒も入り禁欲生活を強いられた頭は若干邪な考えに支配される。うーん。どうしよう。そうこう考えていると「上がりました」とシャワーから上がった彼は、真っ黒な髪は下ろしており、タオルを一枚腰に巻いているだけだった。スーツ越しでも分かってはいたが、体はやっぱり肉厚で男らしく、腹筋は綺麗に6個に割れているし胸板も厚くて全てが好みだった。加えてヤクザらしくしっかり背中一面、胸割五分の墨が入っているのも色っぽい。艶やかな墨は笑顔とは無縁の冷たい顔にとても似合っていた。最高かよ。誘えば乗ってくれないだろうか。ま、無理か。縁談の話があるくらいだ、男には靡かないか。



「俺もシャワー頂きます」



そう言って立ち上がると、ふらっと酔いを感じた。久々に酒を飲んだせいだろう。結構、酔いが回っているのかもしれない。さっさとシャワーを浴びて今日はもう寝よう。早足に脱衣スペースへ逃げ込んだ。



「新品の歯ブラシとタオルは置いてあるので使って下さい」



「すみません、ありがとうございます」



俺はそそくさと浴室に入った。彼を見てちょっとムラッときたのは、禁欲が続きすぎたせい。素直すぎる体ってどーなんだろ。人様の家の風呂場という事はもう頭にはなかった。


よし、明日は絶対に誰かとヤろうと決意をするが、ふと、康之さんの事を思い出してしまう。あの人はどんな風に人を抱くのだろうか。図体はデカいけど、案外不慣れで臆病で奥手な感じがすごくする。まぁ、それはそれで可愛いかもな。そんな風に康之さんを考えながら全身を洗って外に出ると、康之さんはリビングでTシャツとボクサーパンツ一枚のラフな姿でまだ酒を飲んでいた。俺はタオル一枚腰に巻いて康之さんに訊ねる。



「康之さん、着替え、借りても良いですか。あと下着、手洗いしても良いですかね。先に買いに行けば良かったんですけど、すっかり忘れてました」



「ではノーパンで過ごせば良いじゃないですか。パンツは洗濯しておきますので、洗濯機に入れてください」



ノーパンで過ごせ? この人は天然なのかそれともただの冗談なのか、ちょっと分からない。



「えっと…申し訳ないです」



ひとまず洗濯機にパンツを放り込み、再びリビングに戻ると康之さんはまだ動かないようだった。俺の着替えは?



「康之さん…」



「あぁ、下着、俺ので良ければ使って頂いて結構なんですけどデカいでしょうし、嫌ですよね。今、洗濯回します。乾燥付きなんで、すぐ乾きますよ」



「康之さんが良ければ、あの…康之さんの下着、下さい」



下さい、はキモいな。言ってすぐに後悔した。そういうわけではないのだ。たださすがに履いたパンツを返されても嫌だよなと思ったから言ったのだが、勘違いを生みそうだと俺は咄嗟に言い換えた。



「えっと、買います」



余計にキモくなった。康之さんの目が点になっていた。



「ち、違います。そういう事じゃなくて。あの貸して、返されても嫌だろうな思いまして。ね? 嫌ですよね。だから下さるなら、金、払います」



そう畳み掛けるように言うと康之さんはふっと表情を緩めた。初めて笑った顔を見た。なんだか胸がトンと騒がしくなる。良いなぁ、この人。



「良いですよ、そんな事。履いたら返して下さい。気にしませんので」



康之さんはそう言うと寝室から下着を一枚手に取って俺に渡した。あまり履いてないだろう、パリッとした硬い生地のトランクスだった。これならウェストで折って調節できる。受け取って礼を言い、脱衣所でささっとトランクスを履き、濡れたタオルを洗濯機へ放り込む。康之さんはそのタイミングで洗濯を回した。


しかしなんだ。久しぶりにトランクスを履いたがサイズが大きいせいもあり、股が落ち着かない。これ、座ったら横から見えんじゃねぇの。そしていつまで上裸でいさせる気だよ。



「飲みませんか」



だが康之さんは何も気にしていないらしい。



「じゃぁ少しだけ」



そう康之さんの隣に腰を下ろすと、康之さんはグラスにウィスキーを少しだけ注いで手渡した。「乾杯」そう微笑んでグラスを寄せ、一口で飲み干した。なんとも胃を焼いてる気分だ。



「康之さんって結構飲むんですね」



「えぇ、飲みますね」



「全然酔わないですか」



「そう、ですね。強いかもしれません」



「俺も強い方だと思ってたんですけどね。康之さんには敵いません。ちょっと酔ってます」



「顔、少し赤いですね」



「赤いですか。通りで気分良いわけだ」



「気持ちが良いですか?」



何だ、その質問。揶揄ってんのかよ。



「気持ち良いですね」



それなら揶揄い返してやろうと煽るように甘く笑みを浮かべてやる。俺に興味のある奴らならこれでイチコロなんだけど、康之さんはそうじゃない。そう思っていた。


けれどふと視線が下がってしまい気が付いた。康之さんが反応してる。するとその視線に気付いたのか、すっと手が伸びてきた。太い腕が視界に入ったと同時に、康之さんの骨ばった指が顎に引っ掛けられて顔を上げさせられる。瞬間、目がばちりと合った。あれ。変なの。康之さん、すげぇ熱っぽい目を向けてくるじゃねぇの。



「すみません、あまり、見ないで下さい」



康之さんは俺の目をじっと見たままそうぽつりと呟くように言う。恥ずかしそうに、というわけでは全くない。



「あ、え? あぁ、すみません」



「和海さん、…聞いても良いですか」



「はい、」



「和海さんの性的対象は男性というのは本当ですか」



その質問は完全に誘ってンだろ。けどこの人には縁談の話があるんだよなぁ。ってことは酒飲みすぎてついムラッとしたから処理だけしたい、ってそういう事かな。



「本当です。試します?」



微笑みながら内腿に手を寄せた。康之さんは俺の顎に指を掛けたまま、視線を瞳から唇へと移す。眼鏡越しに寄せられる熱い視線に俺の心臓は落ち着きをなくした。



「キス、して良いですか?」



唇に視線が下りてる癖にキスをしない康之さんが焦ったくてそう訊ねると、康之さんの喉仏が上下した。生唾を飲み込んだらしい。へぇ。興奮してんじゃん。



「しましょう、康之さん」



「…嫌、だったら、言って下さい。俺だからって遠慮しないで下さい」



「はい、分かりました」



頷くと柔らかく唇が触れる。あまりにも優しくて、あまりにも甘ったるい。この人は、やっぱり奥手な人なのかなぁ。


揶揄うように甘く唇を噛むと、それを合図にしたように康之さんの目の色が変わった。食われる、そう表現した方が適切な気がした。


でも、その方が好き。すっげぇ、気持ちが良い。


そうやって互いに触れ合って、熱を確かめて、雄々しい康之さんに飲まれて流されて。気付けば、どれくらいか意識を飛ばしていた。俺は裸でベッドの上にいて、とんでもない幸福感と満足感を感じていた。まぁ、腰は痛いけれど。


でもどうなんだろ。これが最初で最後なのかな。この人とまぐわうのは、もうないのだろうな。俺は横で眠りについていた康之さんを見ながら感傷的になっていた。再び目を閉じて目が覚めた時、康之さんの姿はもうなかった。広すぎるベッドは悲しくなるなと思いながら体を起こすと、リビングルームで話し声がした。どうやらどこかへ行ったわけではないらしい。耳を澄ませると康之さんは電話しているらしかった。



「はい、…はい、承知しています。はい…」



小声で話して俺に気を使ってくれているらしい。ヤっちまったなぁ。すげぇ体の相性良かったなぁ。そうぼうっと考えていた俺を、康之さんの言葉が叩き起こす。



「えぇ、…では、うちからもバックアップはさせて頂きますので、倉松の親父に宜しくお伝え下さい。はい、では、失礼致します」



掴んだ。藤堂組は、倉松組の派閥だ。俺は唇を噛んだ。盛って仕事を忘れていたが、俺のやるべき事はひとつだった。


でもこれをカシラに伝えてしまえば、康之さんを追い込む事になるんだよな。うちと対立する可能性だって出てくるんだよな。言いたくねぇな…。


いやしかし、深みにハマる前に離れた方が得策か。さっさとカシラに伝えて組に戻してもらった方が傷は浅くて済む。だって康之さんは女性が好きなわけだし、縁談だってあるわけだし、ただ昨日はちょっとムラムラっと来ただけだろうし。俺に脈はないだろ。であるならば、さっさと報告して終いにするか。


しばらくしてドアが静かにゆっくりと開き、康之さんが寝室に入って来た。目が合うと、康之さんは眼鏡を人差し指でくっと上げた。



「おはようございます。でもまだ寝てて良いですよ」



康之さんは俺の隣に腰を下ろす。



「すみません、俺、気ィ失ってましたよね?」



「それに関しては申し訳ない。…和海さんの体の負担も考えず、自分の欲だけを押し付けてしまい、」



「あ、いえいえ、それは問題ないです。気持ち良すぎて飛んだだけなんで。あの、体拭いてくれたんですね。…何から何まで、すみません」



「謝らないで下さい。飛ばしたの、俺でしょう」



「ふふ、まぁ確かに」



へらへらと笑っていると、康之さんは首を少しだけ傾けながら俺を見下ろした。その瞳はまだ少し熱を帯びている。



「体の相性、良いみたいですね」



心臓がざわついた。途端に顔が熱くなる。この人、どういうつもりで言ってんだろ。俺は口を歪めて視線を逸らし、漏れて出そうな溜息を飲み込んだ。 



「まぁでも、最初で最後、です、かね?」



しどろもどろに言葉を紡ぐと間髪入れずに、「なぜです?」と問い掛けられる。なぜです? ふざけてんのか。



「…なぜって、縁談の話あるんですよね? 康之さんは別に男が好きってわけじゃないでしょう。だったら昨日のアレはちょっと互いに酒が入り過ぎて、」



「…和海さん、」



「はい」



「あなたと再会した時から、あなたの事、好きだったんです」



そんな素振りは何ひとつ無かったろ。開いた口が塞がらず、じっと康之さんを見ていると康之さんは困ったように俺の手を握った。



「付き合いませんか、俺達」



これはこれは。懐に入るどころではない。やばいな、まずいな。すっごく厄介な事になってるよな。



「ほ、本気ですか」



「えぇ。本気です」



「でも俺達、知らない事が互いに多すぎませんか」



「そう、でしょうか。昔、バーで意気投合した時にあなたの好きな事、嫌いな事、たくさん聞きました。それにこれから知っていけば良いかと思います。一応言いますが、断ったとしても仕事には差し支えませんので、素直な気持ちを聞かせて下さい。返事は急ぎませんので」



そんな事、言うのかよ…。俺は項垂れずにはいられなかった。どうしようか。返事は急がないと言われても、俺の状況も心も何ひとつ変わらない。体の相性が最高に良くて、あんたは最高に可愛くて、これからもっとあんたの事を知れるなら本当に嬉しい。これほど欲しいと思った人、今まで生きてきていなかった。そう口をついて出そうになる本音を次から次へと飲み込んだ。だって俺はこの人を裏切る為にここにいるのだから。



「返事する前にひとつ良いですか」



「はい」



「浜内組長のお嬢との縁談、どうするんですか」



「…相手が誰かも耳に入ってましたか」



「はい…。プライベートな事なのに、すみません。カシラから聞いてました」



「一度、向こうにはお断りを入れてます。ただ、政略結婚みたいなもので、お嬢の気持ちも無視しているみたいですし、破談させるしかないと思っています。しかし相手は浜内組、飲み込めという圧は感じます、が、愛のない結婚は彼女も不幸にする。誰も幸せになりません」



「そ、そうでしたか…」



知らなかった。でもそうなると、この人の俺に対する気持ちは本気だろうな…。



「えぇ。なので、ゆっくり考えて頂いて結構です」



参った。俺は考えを巡らせながら頭を掻いた。この人は俺の何が好きなのかは分からないが、俺の過去を知ってもまだ好意的な感情を持ち続けているだろうか。俺は溜息を吐く。それを言って離れるなら仕方がない。


でもそれを言っても俺に愛情を示してくれるなら、俺は覚悟を決めよう。



「…康之さん、俺ね、結構遊んで来た人間です。過去もあまり良いものじゃありません」



「過去、ですか」



「俺は快楽なしじゃ生きていけないんです。昔っからそうで、体を売って、刺激がないと生きていけません。まぁまぁ訳ありなんですよ。康之さんの言葉は素直に嬉しいです。でも、俺はあなたにとって相応しくないかと…」



「快楽なしじゃないと生きていけないのなら、毎日、うんと満足させてあげます。そう言えば、和海さんは俺だけのものになりますか」



やばいな、これは完全に厄介。そんな事を言われてしまえば心底欲しくなるだろうが。



「……毎日、ですよ?」



「えぇ、毎日。昨日は満足出来ました?」



「…はい、とても」



「なら、毎日満足させてあげられる。どうです。俺だけのものになりませんか」



あぁ、本当にどうしよう。どうしよう、どうしよう、どうしよう。この人の事が、あまりにも好き過ぎる。心臓が破裂しそうなくらい興奮してるし歓喜してる。俺は唇を噛み締めて拳を握った。


カシラ、ごめんなさい。俺はやっぱり快楽主義者で遊び人。体を売ってボロボロだった俺をカシラは拾ってくれたし、親父は俺に居場所をくれた。家族だと言ってくれた。それを裏切るのはこの世界では御法度で、死に値するほど罪深い。分かってる。でも俺は、この人がどうしようもなく欲しい。どうしようもなく…。ここまで人に心を奪われた事、今までになかった。俺にとってこの人はきっと生涯で唯一無二になる。だから、俺は…。



「はい、喜んで康之さんのものになります。だからたくさんシましょう」



「えぇ。もちろん」



「康之さんの事、たくさん知りたいです。康之さんってどんな人なんでしょう」



「俺は、…嫉妬深いかと思います」



康之さんの切長の瞳に捉えられて、また胸が高鳴った。嫉妬深いやつなんて面倒極まりないとずっと思ってたのにな。康之さんが嫉妬深いっての、すごく良いな。



「意外ですね。康之さんって嫉妬するんですね」



「えぇ。愛が重いと言われて別れた事もあります」



そのナリで愛が重いという理由で振られる康之さん、最高に可愛いな。俺はついおかしくて、ふふっと笑ってしまった。



「愛が重い…。そうなんですね。どれくらい重いのでしょうね」



「自分では分かりませんが、恋人はなるべく俺の見えるところにいてほしいんです」



「嫉妬心が強くて心配性なんですね。なら、俺は最適かな。康之さんの補佐ですから。基本は一緒にいます」



「えぇ。確かにそうですね」



「ね、康之さんって男性経験はありました?」



「えぇ」



「女性も?」



「えぇ」



ほーう。これまた意外。



「二刀流でしたか」



「そう、ですね。この仕事です、お付き合いした数は決して多いわけではありませんが、経験は両方ともあります」



「へぇ、意外です」



「でもここまで心を動かされた人は本当に初めてなんです。正直、怖い。付き合えば別れがくるかもしれないと考えると、どうしようもなく怖くなります。ここまで人を好きになったのは和海さん、あなただけなんです」



「康之さんって、ちょっとキザなところありますよね」



「嫌でしたか」



「いえ、照れるなぁと」



「すみません。素直に言葉を伝えたくて…」



「そういうところです」



「すみません」



「ふふ、好きです」



康之さんの表情は変わらないから何を考えているのかは正直分からない。でも顔には出ない分、言葉にはたくさん出してくれるらしい。本当に愛おしい。



「和海さん、ひとつ決めても良いですか」



「何ですか?」



「俺は、和海さんとは絶対に別れたくありません」



面食らった。まだ互いに何も知らないと言うのに、どうして断言できるのだろう。もしかしたら俺の事なんて、明日にでも嫌いになるかもしれないのに。



「そんな事を言って良いんですか? 男に二言はありませんよ」



「えぇ。俺はもう和海さんほど好きになる人はいないと思います。ここまで苦しかったり、恋焦がれた事はありませんでしたから。だから和海さん、俺の前から消えないで下さい。俺より先に死なないで下さい。…お願いします」



いつもの鉄仮面が不安そうに歪む。その表情を見て、俺はどうしようもなくなった。愛すべき人だ。もしかしたら口だけで、次から次へと恋人を変えるようないけ好かない男、という可能性だってあるのに、この人はきっと嘘を付いていないと俺は思ってしまう。俺は康之さんの側にいたいと思った。



「確かに愛が重い。毎回、誰にでもそういう事を言ってます?」



ふふっと口に手を当てて笑うと、康之さんの眉間に少しだけ皺が寄った。そう思われた事に不満なのだろう。



「いえ、和海さんが初めてです」



「本当ですかねー? まぁ、死ぬな、に関しては確約出来ないですよ。俺は補佐として、康之さんの盾になるかもしれません」



「……なら、俺も死にます」



「あ、本当に愛が重いです」



「すみません。…軽くなるよう努力します」



「それだけ俺の事、好きなんですよね?」



「えぇ、とても」



「なら、良いです。今のまま、ずっと愛して下さい」



「はい。愛させて下さい」



「俺ね。康之さんの沼にハマって出られなくなる自信あります」



「沼…」



「はい、沼」



「そうですか」



本当にその通りになった。康之さんの近くにいればいるほど、まぐわえばまぐわうほど、深い沼にハマっていくようだった。愛が深くなり、どうしようもなくなった。離れたくないと強く思うほどに。


だから俺は口を閉ざした。相も変わらずカシラには、藤堂組が倉松組を支持しているという報告はせず、のらりくらりとカシラの圧を躱し続け、このままいっそ、忘れてくれないかなと願い続けるが、いつかはバレてしまうのだろうなと覚悟はしていた。覚悟はしていたけれど、やっぱり痛い事は嫌い。


でも親に楯突けば痛い目に遭って当然。どこからか俺と康之さんの関係が漏れて出てカシラの耳に入ってしまった。同時に、俺が康之さんに近付いた理由が康之さんの耳に入ってしまったらしい。俺が康之さんの懐に入った理由は情報を得る為、そしてその情報は藤堂組を壊滅させる為だという事を康之さんは知ってしまったらしい。らしい、というのも俺は康之さんに詰められたわけでも、何かされたわけでもなく、カシラから康之さんの耳にも入ったと聞かされたからだった。


俺はもう、康之さんと連絡を取れる状況ではなかった。カシラに監禁され、殴られ、蹴られ、散々痛め付けられる。鼻血を流し、瞼も頬も切って血でぐだぐだで、蹴られた脇腹は呼吸をするだけも痛みだしていた。ぼうっとする頭で考えた。康之さんは俺の事を聞いて、何を考えているのだろうか、と。俺に対して殺意を向けてもおかしくはなかった。


俺は冷たいコンクリートの床の上で鼻血を流し、至るところに痛みを感じながら康之さんの事だけを考えていた。殺されるならいっそ、康之さんの手で殺されたい…。ぎりりと奥歯を噛み締めると、口の中は血の味でいっぱいだった。


俺は康之さんの事が本気で好きだった。体を丸めて蹲る。体中が痛かった。髪は血でベトつき、床には俺の血がこびり付いている。何発殴られたろう。何発蹴られたろう。途方もない数だった。入れ替わり立ち替わり、カシラの舎弟が部屋に入ってきてはまた殴られる。顔は腫れ上がり、意識が朦朧とし、気を失っては水をかけられ現実に戻される。それを繰り返し、ようやく檻から出してもらえたのは約5日後の事だった。カシラに引き摺られて檻から出され、風呂へ半ば強引に入れられて告げられる。



「親父が藤堂の叔父貴とナシつけた。結論から言おう、お前、絶縁だ」



「絶縁です、か」



広い浴槽に肩まで浸かると、固まった自分の血が湯に溶け、透明だった湯がどんどんと濁っていく。カシラはタバコを咥えながら浴槽の縁に腰を下ろして俺を見下ろしていた。



「ショック受けねぇな? ま、受けねぇか。どうせ街を変えて知らない男に媚び売って、股開いてりゃぁ金になるもんな?」



「……そっか、俺、また前の生活に戻るんだ」



「自業自得だろ。命あるだけでも有り難く思え」



「まぁ、確かに…。親父、叔父貴とは何てナシつけたんですか」



「早い話がぜーんぶの罪を"お前が"被ったんだ」



「…は?」



意味が分からず眉間に皺を寄せてそうカシラを見上げると、カシラは淡々と説明する。



「藤堂組をぶち壊す計画はお前が立て、藤堂の坊ちゃんに近付くキッカケを得た事で、虎視眈々と藤堂組の壊滅を狙った、その罪ぜーんぶお前のものだ。親父は可哀想な組員の為に自分の指で勘弁してくれと叔父貴の前で喚き散らすが、叔父貴が止めるのを分かっててやった事。指は落とさず済み、自分の罪はお前が被っていなくなる。叔父貴は親父に免じてお前の命だけは助けてやると言ってきた。その代わり、お前はこの街から出て行けと。つまり、坊ちゃんと別れる事が条件だ」



これが罰、ね。康之さんにはもう二度と会えねぇな。ひどく腫れ上がった顔でカシラを見上げた。



「お世話になりました」



カシラの眉間に皺が寄った。



「反論しねぇのか」



「しませんよ。罪と罰でしょう。俺は親に逆らった。逆らって康之さんと一緒にいる事を選んだ。だからこれはその罰でしょう。受け入れるしかないですから」



カシラは舌打ちすると、じっと俺を見下ろして少しの沈黙の後に口を開いた。 



「お前、藤堂の坊ちゃんとは本当に別れろよ」



「もしかして心配してくれてます?」



「してねぇよ」



カシラの不機嫌な顔を見上げながら俺は首を傾ける。



「…俺、康之さんといたら厄介な事になりますか」



「厄介どころじゃねぇな。あれは浜内のお嬢と結婚しなきゃならねぇんだ」



「もし、…もし、康之さんが俺を許してくれたら、俺、康之さんを攫っちゃうかもしれません」



「お前さ、脳みそあるなら考えろ。自分を騙して、自分の組を潰そうとした男を許すやつ、どこにいんだ」



そりゃそうだ。俺は自嘲した。俺が計画を立てたわけじゃないのに。俺が藤堂組を潰したいわけじゃないのに。もう全ては無駄な悪足掻き、か。



「ちょっと聞いてみただけですよ」



頭の先まで湯に浸かり、限界まで我慢する。ぷはっと水面から出て空気を目一杯吸う。新しい人生を歩まないとな。カシラに笑い掛けると、何笑ってんだ、と頭を殴られた。


数日後、街を出る支度をしていた。でも本音は街から出て行きたくなどなかった。少しでも康之さんのいる街にいたかった。決心がつくまでに少しの時間はかかったが、もう、康之さんの迷惑にはなりたくなかった。


だから俺は街を出る。街を出る最後に、俺は康之さんと出会ったバーに立ち寄った。あの日飲んだカクテルを一杯だけ飲むつもりだった。飲んだらこの街を出ていくつもりだった。最低限の荷物を詰めたボストンバッグを持って店内に入る。人は少なかった。時間はまだ早く、組関係の人間はいないだろう時間帯だった。俺はカウンターに近付き、マスターに注文をしようと口を開いた、その瞬間だった。



「和海さん、」



腕を掴まれて俺は目を見開く。いつもならこの時間帯にバーなんか来ない男が、いつもの鉄仮面をつけて俺を見下ろした。



「ようやく見つけました」



あぁ、俺は殺されるのだろうか。

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