重くて甘い蜜の味
Rin
プロローグ: 喫茶店『蜜』
喫茶店『蜜』は大正ロマンを意識した味のある店だった。寂れた街の寂れたアーケードの中にひっそりと佇んでおり、先代からその場所を託された二代目マスターは愛想が良く、愛らしい八重歯が特徴的だった。癖毛な黒髪をいつも無造作に整え、爽やかな印象を与える。ただ右耳にはピアスの痕が3つ並んでおり、昔は派手な人だったのだろうと常連客は思っている。
彼の淹れるコーヒーは美味いがそこは寂れた街の寂れた一角。基本的に人はおらず、常連客がちらほらと気まぐれに店に来るだけだった。
たが最近、毎日のように通う青年がいた。
「マスターの事、教えてくれませんか」
青年は店内に人がいない事を確認してカウンター席に座り、コーヒーを注文して静かに飲んでいたかと思うとその数分後、突然、彼にそう訊ねた。眉間に皺を寄せた彼を見上げて青年は言葉を続ける。
「できれば、あなたの今までの恋路を」
「うーん、ロクなもんじゃないですよ。楽しい話では全くありません」
本当に笑える点が皆無なのだから話して楽しいものではないのだが、とマスターは誤魔化そうとするが青年は「ダメですか」と首を傾げる。
「ダメってわけじゃないですけど…」
「マスターは過去の恋を引き摺るタイプですか」
「ど、どうして?」
マスターが少し動揺したのを青年は見逃さなかった。あぁ、この人で間違いないのだろう、と顎を撫でる。
「時々寂しそうな顔をしてるんで」
「見間違いじゃないの?」
「忘れられませんか、その人のこと」
「確定のように言うね。どうするの、俺に今すっごくベタ惚れしてる恋人がいたら」
「恋人いるんですか?」
「いないですけど」
「ですよね?」
「ですよねって言わないでくれます?」
「で、忘れられませんか、その人のこと」
何度も聞くなよな。マスターは口を尖らせると頭を掻いた。
「まぁ、ね、…忘れられませんよ」
「今でも好きなんですか?」
「あのねぇ…」
良い加減にしろよと言いそうなマスターの表情に本性が垣間見え、青年はにやりと笑う。間違いないな、この人だ。
「会えるとしたら、会いたいですか」
「会っちゃいけない人なの。…さ、終いです。コーヒー飲みます? まだ一杯分、ありますよ」
「今でも惚れてンですね。マスターがそんな風に動揺するくらい」
「動揺してました?」
「はい。その人だけを想い続ける気ですか」
「…まぁ、ね。沼に落ちた、と言うべきか。仏頂面の鉄仮面でしたけど、嫌になるほど甘い人でね。本当に、好きでした。後にも先にも、その人だけなんでしょうね、俺は」
「後にも先にも…か。今でも、そうなんですね?」
「んーまぁ、到底、あの人との思い出に勝てる出会いも関係も築けそうにありませんから」
「なら、ひとりで生きていくつもりですか」
「そうですね。案外ひとりも良いものですよー。気楽で。…さて、満足ですか? こんな未練たらたらの執着男の話は良いの。コーヒー、飲みましょ、コーヒー。冷めちゃうから」
「今でも好きなんだ。へぇ、そっか。それが聞きたかった」
青年はマスターのその言葉を聞くとやけに嬉しそうに頬を緩めた。
あんた、良かったな。今でも愛されてるってさ。青年は一瞬携帯を見ると、戸惑うマスターの顔を見上げた。
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重くて甘い蜜の味 Rin @Rin-Lily-Rin
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