明影

かずぅ

第1話

会社の飲み会が終わったときには、まだ意識ははっきりしていた。だが、店を出てから不意に酔いが回り始め、今や頭はかなり朦朧としている。ここが都心の繁華街の中であることは理解していたし、目の前で終電を見送った記憶も鮮明だった。もう電車は動いていない。仕方なく、朝までの時間をどう潰そうかと、駅から繁華街へと逆戻りし、無目的に歩き回っていた。


このあたりは、日本でも指折りの危険なエリアとして名を馳せている。特に、夜遅くになればなるほど、そのダーティーさは一層際立つ。三十代を迎えた平凡なサラリーマンの僕に、この街に馴染みの店などあるはずもない。それがさらに、こうした危険地帯であるならなおさらだ。


ふらつく足で歩いていると、やがて寂れたビルが目に入った。古びたネオンサインがいくつか灯っているが、その光すらもどこか色褪せている。ビルの一階には、スナックや小さなクラブが軒を連ねているようだった。どこか陰気で、人気も少なく、街の喧騒から逃れるにはちょうど良さそうに思えた。ビルの正面には螺旋状の階段があり、その裏手には薄暗い空きスペースが見えた。ちょっと腰を下ろして一息つこうかと階段の裏へと足を運んだ。


だが、そこにはすでに先客がいた。若い女性がうずくまるように座り込んでいる。僕と同じように酔い潰れて休憩しているのだろうか。しかし、こんな深夜に、こんな場所で、女性一人というのは明らかに危険だ。見なかったことにして立ち去ろうとしたその瞬間、彼女と目が合った。


女性は何かを言いたげに僕に声をかけたが、その言葉は朦朧とした意識の中で、ほとんど聞き取れなかった。近づいてみると、彼女は薄手のコートを羽織っているだけで、そのコートを手繰り寄せるようにして僕の腕をつかんだ。その瞬間、彼女の肩からコートが滑り落ちた。


驚いたことに、彼女は全裸だった。僕は一瞬うろたえ、思わず後ずさった。だが、彼女は自分が裸であることなどまるで気にする様子もなく、「あなた、かっこいいね。私とセックスしよう」と、たどたどしい日本語で言ってきた。おそらく、彼女はアジア系の外国人だろうと、ぼんやりと思った。


「いやいや、こんなところで大丈夫ですか?」と僕は何とか言葉を絞り出し、落ちたコートを拾い上げて彼女にかけた。ここは階段の陰であり、少しは人目を忍べるかもしれないが、それでもこの状況はあまりにも異常だ。「セック…」と彼女は続けた。僕は酔いが回っている頭で、どうにかしてこの状況を収めるべきだと考えていた。


「誰か呼んできましょうか?」と問いかけても、彼女は「あなた、好き…」とだけ繰り返す。まるで会話がかみ合わない。彼女が酔っているのか、それとも何か薬でもやっているのかはわからない。ただ、お互いにとってこの状況が危険であることだけは、明白だった。


ふと、ビルの奥から年配の女性が慌ただしく出てきた。彼女は僕と座り込んだ若い女性を一瞥し、瞬時に状況を把握したようだった。彼女はためらうことなく若い女性に近寄り、腕を抱き上げると、まるで人形のように力なく引き寄せた。若い女性は反抗する様子もなく、ただ僕のほうをじっと見つめている。彼女の唇が動き、何かを言おうとしているようだったが、その声は小さく、僕には聞こえなかった。


年配の女性は、僕に向かって無言のまま冷たい視線を投げかけた。その目には、怒りとも取れる光が宿っているが、どこか諦めのようなものも感じられた。彼女が何を思っているのかはわからない。ただ、この場から一刻も早く立ち去りたいという気持ちだけが募った。




気がつけば、夜の寒さが肌にしみていた。あまりにも現実離れした出来事に、さっきまでの酔いがすっかり冷めてしまったようだった。何をするべきだったのか。どうするべきだったのか。答えの出ない問いが頭を巡る。


とにかく、この場所から離れたかった。そう思った僕は、再び駅の方向へと足を向けた。歩くたびに、足元のアスファルトがやけに硬く感じられる。駅の入口に着くと、シャッターが降りていることを確認し、無意識のうちにその金属製のシャッターに寄りかかった。見知らぬ他の人々も、同じように始発を待っている。彼らの姿に、自分と同じような境遇の人間がいることに少し安心を覚えた。


朝を待つ数時間が、やけに長く感じられた。


月曜日の朝、オフィスに着くと、会社の後輩が声をかけてきた。「あの後、どこに行ったんですか?」と彼は興味津々な顔で尋ねてきた。


「店を出た後、フラフラと街の奥に行ってしまって…」僕は曖昧に答えた。実際のところ、終電を逃して、駅前で始発を待っていたことくらいしか覚えていない。それに、あの夜の出来事を話す気には到底なれなかった。


「確かに、昇進祝いでたくさん飲まされましたもんね。それにしても、あんなに払わせられるとは…」と後輩は苦笑いを浮かべた。


「まぁ、そうだな…」僕も軽く笑ってみせたが、心の中は重苦しいままだった。あのダーティーな出来事が頭から離れない。あの若い女性は一体誰だったのか。なぜあんな状況で僕の前に現れたのか。そして、あの年配の女性は一体何者だったのか。


すべてが謎に包まれたまま、日常の時間が過ぎていく。仕事に追われながらも、あの夜の出来事が頭の片隅に常に残っていた。そして僕は、次に何が起こるのかを恐れると同時に、どこか期待している自分がいることに気づき始めていた。

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