第01話 『おまえは――』


 青春を謳歌する学校を抜け、放課後と言う名の贅沢タイム。友達と流行りのカフェに行き、ひとしきり目で楽しんだ後に甘いデザートを気持ち一杯に頬張る。勿論、SNSの更新も忘れない。沢山のスイーツで彩られたパンケーキにカフェラテを添えて、『友達×甘い物=最強』なんて文字と共にその写真を全世界へと落とし込む。もっともそんな写真や内容などどうでも良くて、それを画面越しに見ているであろう他の学友に私たちの今をアピールしているだけであった。


 そして、大した目的も無しに辿り着いたカフェを後にした私達は、適当なところで切り上げそれぞれの帰路につく。あの子とあの子は電車通学だから駅前でお別れ。もう一人のあの子もさほど家は遠くは無いが、それでも小学校中学校と学区が別だった程度には距離が離れていた。故に、あれだけ騒がしく言葉を交わしていた彼女たちも、今や私一人だけ。間もなく今日の役目を終えるであろう夕日を尻目に、それらに照らされたビル群をこれでもかと抜けて行った。私の家はここから更に進んだ、繁華街の裏通り。最寄駅から歩いて15分ほどの一軒家に、母方の祖父母との二世帯で住んでいた。


「ふぅ……ただいま~」


 オートロックの玄関を慣れた手つきで開き、私は帰宅を宣言する。一戸建ての癖に外の門と内側の扉両方に鍵が付いていて、安心安全の防犯システムの代わりに中に入るには少々手間が必要な家であった。


「あらちよりちゃん、おかえりなさい。今帰りかい?」


 後ろ手に扉を閉め、朝から履きっぱなしだったローファーを脱ぐ。それを振り返ってからしゃがんで、きちんと並べていると背後からしわがれたそんな声が聞こえた。この人は私、香取千代梨の祖母である。誰に対しても温厚な性格で、年齢以前にちょっぴりトロくさい。けれでも私達孫を何よりも大切にしてくれる、とっても大好きなおばあちゃんだ。


「そーだよおばあちゃん。放課後に友達とちょっと遊んで、今帰ってきたとこ」


「そうかいそうかい。それならちゃんと手洗いうがいをしないとね」


「はーい」


 祖母にそう促されて、私は『わかってる』とでも言いたげに返事を返す。そして綺麗に揃えられた靴の在り方に満足した後、自室へと続く廊下の先の階段に足を進めた。

 この家は両親が結婚し兄を生んだ直ぐの頃、父が成功させた事業の資金を使って建てられたものらしい。よってこのご時世にしては随分と立派な二階建ての家で、広さも祖父・祖母・父・母・兄・私・妹の七人が住んでもあまり窮屈さを感じない程である。所謂大金持ち……という訳でも無いが、それでも義理の両親の面倒を見ながらひとり働きで、更に子供三人を育てられる父には心の底から尊敬と感謝の言葉しか浮かばなかった。おまけに母も年齢の割には若々しいし、本当にいい相手を見つけたと娘ながらに思う。やりおるな、偉大なお父さん。



 と、そんなことを思いつつ私は二階の自室に片足を踏み入れた。しかしそこでは持っていた学校指定のカバンを置くだけにして、直ぐに踵を返す。まずは、何よりも先に先程祖母と交わした約束を果たさねばならない。当然、それは本来自分のためにやるべき事なのだが、それでも私を気遣ってくれた祖母の気持ちも無下にしたくはないのだ。

 そういった殊勝な心持ちの下、私は再度階段を使い一階にある洗面所へと向かう。途中玄関が視界の端に入ったが、その時には既に祖母の姿は無かった。まあいつまでも同じ場所に居たりはしないだろうと特に気に留めず、そのまま目的地の扉を開ける。すると、そこは今誰にも使われていなかったようで、私は流れるように水道の蛇口を開いた。


「……あれ?姉さん、帰ってたの」


 銀色の口から溢れ出す液体に手をかざし、そこに十分な水気を与える。そしてある程度湿ったところで一度水を止め、次に白い泡を手に塗してゆっくりとそれらを揉んで行った。皮膚の表面に残った僅かな水と交差する指の動きとで空気が混ざり合い、徐々にその泡はもくもくと大きくなっていく。……と、そんな両手のコーティングを楽しんでいたところで、私の右側にあった洗面所の入り口からひょっこり誰かが顔を出した。


「あ、うん。さっきね。胡桃くるみも今日は早いじゃん」


「まーねー。部活ももう引退だし、暫く放課後は暇かな」


 『姉さん』と呼ばれる者と同じ明るめの茶髪を留めずに流し、長い髪をこれでもかと主張するこの子は、私の二つ下の実の妹である。名前は香取胡桃、今年で中学三年生となる高校受験を控えた受験生だ。彼女もあと数カ月もしないうちに知ることになるだろう、受験はこの時代においての戦であるということを……とは言いつつ、この子は常に学年内で二桁台の順位を取る私と同程度の学力を持っている。よって、余程のへまをしない限りは試験に落ちたりしないだろう。

 しかし、だからと言って甘やかさないのが姉としての優しさなのだ。


「あんたねー、いくら成績良いからってちょっと舐めすぎじゃないー?わかってる?……受験って、戦争なのよ」


「あーはいはい、知ってる知ってる。姉さんも二年前の今頃死に物狂いだったもんね。私もそれ見てるし、同じ轍を踏まないように普段から勉強してますぅー。……っと、そういえば母さんが呼んでたよ」


 うぐっ……痛いところを突いてくるな、我が妹よ。彼女の言葉に、私は内心渋い顔を浮かべた。というのも、実は私にはこの子と三つ上の兄が居るのだが、二人とも父譲りなのか生まれつき要領がよく頭も良かった。この二人が成績等で悩んでいたところを今までに見たことが無く、加えて兄は高校時代水泳で全国大会に出場し準優勝、胡桃は中学陸上競技大会で優勝を収めた経験があるという運動面も問題無しの万能っぷり。父も昔は似たようなものだったと聞くし、それらの才はやはり親子なのだろうと思われた。


 対し、私はと言うと……特に悪いと言わけでも無く、だからと言って二人みたいに物凄くできるわけでも無かった。先の通り私は学校内でも毎度二桁代の成績を収めてはいるのだが、これは生まれつきの才などでは無く常日頃からの血の滲むような努力の結果である。幸い私には『頑張る』という才能だけはあったらしく、努力をすればするだけ最低限の成果は残せてきた。それは他の分野においても同じであり、兄や妹ほどでは無いにしろそれなりの事をそれなりにこなせている。

 よって二年前当時の私は受験を前にそれなりの猛勉強を積んだのだが、優秀なこの子ならさほど頑張らずとも第一志望だというに行けるのだろうな。


「……って、お母さんが呼んでた?」


「うん。なんかお使い頼みたがってた。本当は私が行くって言ったんだけど、あんたは受験生なんだから自分のことやりなさいって言われちゃって」


「くっ、なるほど。そういうことならあんたには押し付けられないかぁ……しょうがない、ちょっと行ってくるよ」


 お使いと言われ、私は正直頼まれたくなくて仕方が無かった。先程学校から帰って来たばかりであり、ついでにたった今手を洗い終えたばかりなのだ。そうでなくともこの時間にわざわざ他用で外出するのは面倒だというのに、これだけマイナス要素が多いと母の頼みであっても任されたくはない。

 だが、仮に今日必要なものが不足していて、それを買ってくるお使いというならば結局は誰かがしなければいけないことだろう。そして、もし私がそれを拒んだ場合恐らく次の標的は高確率で目の前の妹になるはずだ。そうなると一応受験を控えた身である彼女の貴重な時間を奪ってしまう事になり、その事実を知っている私も後味が悪い。ならば、それを避けるためには私が自ら進んでその役回りを担うしかないということだろう。


「……姉さん、別に私が行ってもいいんだよ?」


「えっ?……あ、いや、大丈夫!確かにちょーっぴりめんどくさいけど、私が行くよ。あんたは気にせず勉強してな」


 私はそう言って、姉を気遣う妹の頭を優しく撫でた。姉妹として同じであるはずの髪は何故かそれ以上にきめ細やかで、するすると間を抜ける私の指を楽しませてくれる。この子は年頃なのか最近少し生意気なところも増えてきたが、根本的には変わらず姉である私を慕ってくれている。それをずっと小さな頃から感じていたこの姉は、彼女に負けないようにと尊敬してもらい続ける為の努力を惜しまなかったのだ。そして今、こうして優秀な妹の頭を姉として撫でられることに、私はこれ以上ない程の幸福を感じている。


「じゃっ、私行ってくるね。その分ちゃんと勉強しとくんだぞー」


「うん、わかった。姉さんも気を付けて」


 一度清めた手を乾いた布で拭き、掛けていたタオルを整える。そして、私は妹にふらふらと手を振ってから洗面所を後にしたのだった。



 ******



 妹と別れ、同じく一階のリビングに居た母の下を訪れる。すると案の定お使いを頼まれ、ついでに明日の買い物も一緒にと随分面倒なお手伝いになってしまった。


「それじゃ、お財布と一緒に買い物のメモもカバンに入れておくわね。車とか危ないんだから、ちゃんと周りを見るのよ」


 家に帰って来たばかりで制服も着替えぬ内に、私はまたしても上に揃えた茶色のローファーに足を通す。すぐそこのスーパーに行くだけだし、まあこのままでも構わないだろう。それよりも文句を言いたいのは、思っていた以上に多い頼みごとの方なのだが……。


「それは分かってるけどさぁ……なんでこんなに買い忘れ多いの。お母さんいつもみたいにボーっとしてたんじゃない?」


「まぁ!失礼な子ね。お母さんだって一生懸命買い物に行ったのに。……ちょっといいお肉が買えて、早くあなた達に食べさせたくてそのまま帰ってきちゃっただけなのよ」


「やっぱりボケてるじゃんっ!!」


 悪びれる様子もなく、のほほんと話す母に私は声を荒げた。お母さんは美人で気前がよく、おまけに優しい理想の母親像のような人であるが、その分とんでもなく天然なところがあるのだ。今回の様に他の買い物をすっぽかすなど日常茶飯事で、酷いときには買い物バッグを丸々やお財布を忘れて帰ってくる始末。しかも本人はそれにすら気付かず、再度買い物に行った時に初めて慌てるようなタイプなのだ。正直直して欲しい部分ではあるし、一人で留守番とかも絶対にさせたくない。訪問販売とか詐欺電話に引っかかってる未来しか見えないからね……。


「……まあ、それでも結局買いに行っちゃうのが私なんだけど」


 何だかんだ思いつつ、私はそう小さく呟きながらバッグを持って立ち上った。少し生意気でそれなのに優しさが垣間見える妹も、天然で抜けてるところがある子供たち想いな母親も、結局私はどちらも大切で仕方ないのだろう。私は家族のことが大好きで、皆も私を大事にしてくれる。そんな関係が只々嬉しくて、私はこの先もこの香取家の長女として生まれたことを一生幸せに思うのだろうな。


「あら?なにか言った?」


「んーん、別に。……それじゃあ行ってきまーす」


「えぇ、行ってらっしゃい」


 買い物バッグを肩から引っ提げて、私は軽く手を振った。それは母に無用な心配をかけまいとする、娘なりの気遣いである。外はもう暗くなっている頃だろうし、高校生とは言え少女が一人うろつくにはあまり良い時間ではない。されど私は大丈夫であると、たった一人の母親を気遣っていたのだ。



 そうして私は玄関を抜け、そのまま止まらず家の敷地内外を隔てる門をくぐる。季節はいま夏の終わりから新秋頃。最近は地球温暖化なんて問題もある中で、今日の夜風はやけに気持ちが良いものだった。私は意外と感傷に浸れるタイプの女子高生なので、こういった心地よい風は全く嫌いではない。人目も気にせず、住宅街の真ん前の通りで軽く両手を広げそれらを全身で堪能するくらいには季節の味というものが分かっていた。


「……ちより?何をしてるんだい?」


「えっ!?……あっ。お、お兄ちゃん……お帰り……」


 決して多くはないものの、それでも確かな人通りのある道を両手を広げて歩く女子高生。本人は住宅の隙間を吹き抜ける風を楽しみながら、まるで大空を羽ばたいているかのようなつもりだったのだが……それは当然、傍から見れば珍妙な光景に見えたことだろう。加えて、肉親である兄にそんな妹の恥ずかしい姿を目撃されてしまっていた。わ、私ってばつい周りが見えなくなっちゃって……。


「うん、ただいま。って言ってもここはまだ厳密には家じゃないけどね。……ところで、ちよりは何で両手を掲げながら歩いていたんだい?」


「え、えーっとね……ちょっと、夜風が気持ちよくて……それを堪能してたって言うか……」


 まさかこのタイミングで帰宅途中の兄と遭遇するとは思わず、変なところを見られてしまった。その事実を理解すると次第に顔が熱く火照っていき、私は更にバツが悪くなる。


「ふっ……なんだ、そう言うことか。僕はてっきりちよりは鳥にでもなりたいのかと思ったよ。偶に不可思議な行動をするところは母さん譲りだね」


「へっ?!ちょ、ちょっとやめてよ!私がお母さんみたいに天然だとか……」


「ん?だいぶそっくりだと思うけど」


 そんな私を見て、兄は心底おかしそうに笑っていた。しかも、私をあのぽけぽけな母と似ていると言い出す始末である。それを私はやめてと言いつつ、強くは反論できなかった。実は内心、私は自分が母に似て天然なんじゃないかという自覚が無いわけじゃないのだ。勿論、親子なのだから色々と似てしまうのは当たり前のことかもしれない。けれど、やはり私はお母さんの唯一直して欲しい部分が自分にも遺伝しているなどということは認めたくなかったのだ。


「もう、お兄ちゃん。からかわないでよ……」


「あはは、ごめんごめん。……って、もしかしなくても買い物に行くところだったよね。いつもの母さんの尻拭いかい?」


 兄に揶揄われたことにより、私は少しばかり項垂れる。しかしそんな妹にはお構いなしで、お兄ちゃんは私の肩に掛かっていた買い物バッグに注目したらしい。いつもの、と繋がるように母の尻拭いが出てくるところが本当に香取家の人間って感じなんだよなぁ。


「そーゆーこと。お母さんまた買い物し忘れちゃったみたいだし、もう一人の標的候補は受験勉強に駆り出しちゃったからさ」


「標的候補……?よくわからないけど、ちより一人で大丈夫かい?もう随分暗いけど」


 兄はそう言つつ、軽く上を見上げた。またそれにつられるように、私も空を見つめる。学校から帰って来た時はまだ西の方角に夕日が顔を覗かせていたというのに、今はもう幾何の猶予も無く真っ暗闇と星の僅かな輝きだけが広がっていた。確かに、色々と話している内にもうすっかり日が落ちてしまったらしい。


「……いやいや、大丈夫だって。私もう高校生だよ?心配しすぎ」


 されど、私はそれを一笑に付してそう言った。私はもう17歳、来年で18歳。近いうちに制定されるらしい新しい法律で見ればもう成人として受け入れられる年齢、謂わば大人に片足を突っ込んだ状態と言えるのだ。そんな私に、皆心配しすぎなのである。


「そうかい?……でも、一応ちゃんと気を付けて」


「はいはーい。わかったから、お兄ちゃんも早く帰りなねー」


 兄からの忠告を軽く流し、私は再び歩き出す。勿論今度は両手を広げたりなどせず、普通に歩いて行った。いや、ちょっとは姿勢とかを意識したかも。別れを告げたとはいえ、未だ背後から兄の視線を感じている。恐らく先程まで奇行に走っていた私を見て、加えて時間帯が時間帯であるのを考慮し出来るだけ見張っていようという無用な気遣いをかけているのだろう。まったく、そんなに妹を心配するなんてお兄ちゃんはホント私の事好きすぎでしょ。まあ当然、私もそんな兄を尊敬しているし慕っている。兄は小さな頃から頭が良く勉強ができたのに、私の構ってほしいを断ったことが記憶上は一度もない。それくらい兄は私を溺愛していて、私自身もブラコンとまではいかずとも兄を好いている。流石に私が大きくなるにつれて一緒に遊ぶ機会など減ってしまったが、代わりに高校受験時代からよく勉強を見てくれるようになった。兄の存在が私の学力向上、ひいては受験合格に一役買てくれたのは疑いようのない事実だろう。であれば、そんな昔から私を気に掛けてくれるお兄ちゃんに免じて、ここは妹である私が立派にお使いくらい果たせるというところを見せなくては――――――



「ッ!!……ちよりっ!!!」



 突然、兄に呼び止められた。

 またまた、一体何事かと私は呆れたようにゆっくりと後ろを振り返る。



「――えっ?」



 しかし、その視線を移す過程で真っ暗な空間を異様に明るく照らす存在があった。



 それは、こちらに迫る大きなから発せられる、前方を輝かすライトのようだ。夜道を走行するのであれば当たり前のことで、必要な現象。



 ……だが、それが今は私に向けられている。

 その意味を、私は理解しようとして――――――。



 ――――――

 ******

 ――――――



 ……私は、ゆっくりと目を覚ます。

 覚ますということは、それまでは寝ていたことを意味するのであるが、そんな記憶はない。けれど失っていた意識を覚醒させ、閉じていた瞼を空ける行為を目を覚ます、或いは起きると言わず何というのか。とにかく、私……は目を覚ました。


「んんっ……ここは……」


 妙に重たくなった上体を無理矢理起こし、寝起きだからかぼやけている視界を何とかする為、私は数度のまばたきを講じる。なんだか頭も以前より少し重い気がするが、何故だろう。……以前っていつの話?胸が重い。


「あっ、いけない……早く買い物に行って帰らないと……家族の皆が待ってるし……」


 ここが何処であるか、そんなことを理解する必要はない。私は今木々が鬱蒼と茂る森の中に居て、これから母から頼まれたお使いを済まさなければいけないのだ。……母って?


「い゛、痛ッ……なに、なんの記憶……母はもう死んだはず……」


 意味の分からない自分の想いや言動に、僅かだが大きな違和感を感じる。またそれに反発するように、頭に鈍い痛みが走った。私はそれに耐えきれず、思わず自身の頭部に触れる。でケガしないように気を付けないと。


「――――は?」


 私は自分の頭に生える硬い何かに手が当たって、初めて違和感に気が付いた。何かがおかしい。こんなものが、私の頭にあるはずがない……けれど、生まれつきあったそれが何故そこに無いはずと言い切れるのかが分からない。


 真意を確かめる為、私は少し辺りを見渡した。すると幸いなことに、直ぐ近くに小さな水溜まりのような池を見つける。木々に隠れてあまり陽の光が差し込んでいないが、もしかしたらと私はそれに駆け寄った。


「――ッ!!これは……どういうこと……!?」


 途中足がもつれそうになりながらも、私は水場のすぐ傍に座り込む。そして恐る恐る中を覗いてみると、僅かに届く光の反射で水面に私の顔が映し出されたいた。――――桃色のふわふわで長い髪に、深紅の瞳。頭部の左右には羊のような角を生やした、私ではない私が。


「はっ?これ誰、え……これ私?!」


 思わず声を上げ、私は驚愕を体験する。しかし何度目を凝らして見ても、そこに移るのは全く見覚えの無い女性。私は……そう、ちより。香取家長女、香取千代梨だ。であれば、今私の眼前の水面に映るワタシは一体誰なのか……!?



 朧げな記憶を振り絞り、彼女は答えを見つけ出す。自身の名前、これまでの境遇、そして今どうしてここに居るのか。私は誰で、ワタシは何者なのか。もう殆ど崩れ去ってしまったその記憶を、彼女は必死にかき集めていた。


 ――故に、彼女は気付かない。実際は視界に入り、言葉の意味は理解している。けれどそれがどういう意味なのか、何故そうなのか、何故そこにあるのか。そんな何もわからぬが故に、彼女の理解は及ばない。


 水面に映える彼女のわきに浮かぶ、その文字列たちに。






 ――――『おまえは、パンドラ・サタナス=エルピス である』

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