海に沈むジグラート 第3話【ミラーコリ教会】
七海ポルカ
第1話 ミラーコリ教会
その日はヴェネト王国の周辺域を視察することにしていた。
ヴェネト王妃が竜を毛嫌いしていたので、フェルディナントは竜の部隊飛行は今のところ控えている。何か有事の時は容赦なく飛んでやろうとは思っているが、敢えて睨まれることはない。それに王妃は竜の飛行能力も強く警戒していた。だから視察は、フェルディナント単独で、人目のつかない夜中に行った。ヴェネト王国の周辺の地形、街、有事の際の拠点に出来そうな場所を確認するのである。
うっすらと夜が明け始めた朝方、フェルディナントは駐屯地に戻った。これは本国にも送るものだから、一度眠ってから報告書にまとめようと考える。寝よう、と思ったその時、ネーリの顔が過った。彼がいるか分からないが、少し散歩がてら教会を見に行こうと思い立った。
フェリックスがついて行きたそうな顔をして、宿舎の入り口に待っていたが、もう明るくなったのでお前は連れて行けないんだよ、という風に額を押さえてやると、残念そうだったが首を下げて聞き分けたようだった。
丁度朝日が差し込んだ頃、ヴェネツィアの街の通りを抜け、すでに馬も道を覚えたような感じの、教会へと向かう。絵が見たいのもあったが、少し気掛かりになったのもあった。
というのも、あの警邏隊殺しの仮面の男が、最近頻繁に街に出没しているのだ。
この前は娼館が燃える事件があったのだが、その現場に現われて、娼館の護衛兵数人と斬り合い、これを殺している。店の人間に聴取をすると、仮面の男が火を放った、と言っていた。中にいた客や娼婦は幸い死なず、逃げ出したが、娼館は全焼したのである。
他にも、貴族、警邏隊が夜の街で殺される連続殺人事件が起こっていた。これは目撃者がいないが、遺体に、以前フェルディナントが受けた特殊な武器が突き刺さっていたので、これも仮面の男の襲撃である可能性が高かった。多発している事件に夜警の強化を命じたが、同時にフェルディナントは被害者の素性もトロイに調べさせている。
最初の事件で殺された警邏隊は、徒党を組み、私刑で娼婦を躊躇いなく殺そうとしていた連中なので、他の事件も被害者が気になったのである。まだ報告は上がってきていないが、とにかく殺す方も殺される方も、フェルディナントは気になるのだ。
そういうことが最近立て続けに起こっているので、城下町が少し心配だった。
(……いや。城下町というか……)
鍵も掛けずに夜じゅう明かりを灯す教会。その奥で、夢中で絵を描く青年。
……眠る姿。
どんな危険にも冒されずに過ごせているといいが……。
角を曲がると、教会が見えてきた。
この辺りは、朝は本当に、夜の不穏を感じさせないほどに穏やかだ。
――と。
バシャン……!
濡れた石畳に朝の光が反射して、弾けた雫がキラキラと輝いた。
膝上まで捲り上げたズボンから、覗く伸びやかな白い足。
まるでどこぞの神殿の女神像から盗んで来たような、美しい足をしているのだ。
惜しげもなく外気に晒し、裸足で水の石畳を踏みしめる。桶に溜まっていた水を捨てると、彼は気持ち良さそうに朝日の中で思い切り伸びをした。
戻ろうとして、思わずそこで立ち尽くしていたフェルディナントに気付く。
「フレディ」
ヘリオドールの瞳が輝く。
「おはようー!」
彼は手を振って微笑ってくれた。
◇ ◇ ◇
教会に入ろうとすると、わーっ! とはしゃぎながら子供たちが飛び出して来た。
思わず道を譲り、子供たちの足に引っ掛かりそうだった、自分の腰の剣を押さえて後ろにやった。彼らはネーリと同じように桶をそれぞれに持って、表に水を撒いている。それから、出来た水たまりの中で飛び跳ねて遊んでいた。無邪気なものだ。
ネーリを見ると、そんな子供たちの様子を楽しそうに笑いながら見ていたので、何か、フェルディナントは心がホッとした。
中ではまだ子供たちが何人もいて、教会の床や、椅子を水拭きしている。
「今日は……大掃除の日かな?」
「そう。もうすぐ夏至祭だから。その前に綺麗にしてるの」
ふと見ると、教会の二階の通路にネーリの絵が並べてあった。
どうやら奥の部屋も掃除しているらしい。
「神父様。フレディが」
ネーリが軽い足取りで祭壇の方に向かって歩いて行くと、祭壇の女神像を丁寧に磨いていた神父が振り返った。
「これは、フェルディナント殿。おはようございます」
「おはようございます」
「朝のお勤めでしょうか?」
「あ……いえ……私は夜勤で……、駐屯地に戻る前に少し街を歩こうかと思って。最近物騒な事件が多発していますから……」
「ああ、聞きました。本当に恐ろしい事件ですね」
「神父様、ぼく、ステンドグラス拭いてきますね」
「ネーリ、一人で大丈夫ですか?」
「平気です。ステンドグラス拭くの好きだから。フレディ、ごめんね。今手が離せなくて。今日は夕方から礼拝もあるから、お昼までに掃除しなきゃいけないんだ。午後は乾かさないと、礼拝で来る人達がびしょ濡れになっちゃうし」
「あ、いやいいんだ。気にしないでくれ」
ありがとう。
ネーリは桶と高い脚立を両腕で抱えると、二階の階段へと上がって行った。
神父は布を桶に入れ、綺麗な水で手を洗うと、一旦掃除の手を止めた。
「事件のことは街の人にも聞きました。フェルディナント殿。貴方は神聖ローマ帝国から王都の守りの為に着任された方だったのですね。この教区の司教に聞いて驚きました。ネーリが『フレディ』などと友達のように呼んでいるから、てっきりどこかの貴族の若者かなと思っていたのですが。将軍職にある方に、説法などしてしまい、申し訳ありません」
フェルディナントは首を振った。
「いや……ここに来た以上は、ヴェネト王宮の方々が私が従うべき相手です。皇帝陛下も王都の治安を第一に優先するようにと仰いましたので……何か不安がある場合は、遠慮なく私にも仰ってください。まだ着任して間もないですが、善処します」
「これは、ご丁寧に……。この辺りで殺しなど、昔は無かったのですが。ヴェネツィアの街も平和で長閑だったのですけれど、街とは変わっていくものなのでしょうか」
「時代によって、変化することは否定はしませんが、殺しは容認されるべきではありません。街の平和は、いついかなる場合も守られるべきです。その為に我々のような守護職がいる。街が変化するならば、守護職はそれに対応して行かなければならないと私は考えます」
神父は祭壇の上の窓から差し込む光の中で、そんな風に言ったフェルディナントを少し眩しそうにみて、微笑んだ。
「……あなたのお噂は、私も聞いたことがあります。フェルディナント将軍。特にフランス戦線にいらっしゃった折りのことです。貴方の竜騎兵団は難攻不落と謳われたブザンソン城塞都市をたった一日で陥落させてしまったとか。ブザンソンがまさか一日で攻略されると思っていなかった周辺諸侯は次々と無血開城を行ったそうですが、城塞戦の激しさとは異なり、貴方が侵攻なさった街では、市民は一切危害を加えられなかったと。戦は悲しむべきものですが、人の世である限り争いも尽きぬのも真理です。
守るために戦わねばならないこともありますから。しかし、一旦戦が始まってしまえば、人の慈悲でしか残虐は止められません。貴方は武人として、罪のない市民の命は守って下さった。そのことは、聖職として感謝しています」
「……。無駄な殺戮は、我が皇帝陛下の名を悪戯に貶めるだけです。それは私の望むものではありません」
「こうして平服を身に纏っておられると、本当にお若く見えるのに、しっかりとした信仰を持っていらっしゃる。将軍は、何歳におなりですか」
「次の冬に十九歳になります」
神父はさすがに驚いた顔をした。
「戦の神童とは聞きましたが、驚きました。思っていたよりもずっとお若い」
フェルディナントは苦笑する。
「将軍が若くて未熟でも何の得にも、兵の慰めにもなりませんよ」
「そうでしょうか……。仕えるべき方が若く才能ある上官だというのは、きっと彼らの誇りになりましょう」
フェルディナントはそうだ、と思った。
一度聞いてみたかったのだ。
「神父様。……答えにくい話かもしれませんが……」
「なんでしょうか?」
フェルディナントは側に床を拭いている子供がいたので、少し、祭壇の奥に移動し、声を小さくした。
「……神父様はヴェネツィア聖教会に属していらっしゃいますね?」
ヴェネト王国の国教である。
「ええ」
「ヴェネツィア聖教会では【シビュラの塔】をどのように認識していらっしゃいますか?」
神父の表情がさすがに、少し曇った。
「……ヴェネツィア聖教会の聖典にも、【シビュラの塔】の記述は出て来ます。
古の王が作った、天魔の塔。かつて地上が精霊の楽園だった頃に作られ、あれは精霊王の玉座だった、とされています。ヴェネトの民の信仰の一つです」
フェルディナントが聞きたいのは、そういうことではなかった。
しかし、神父の表情が、明らかにこれ以上のことを聞いてくれるな、と困っているようだったので、それ以上の追及をするのは止めた。
彼は自分の正しい素性を知っている。
神聖ローマ帝国の人間がシビュラの塔の仔細を探っているなどと、聖教会の本拠地に報告されては危険だった。
しかし、各国が【シビュラの塔】の攻撃を受けて、ヴェネトに帰順を示す為に集結しているのは周知の事実である。他国の人間があれは何だろうと思わない方がおかしいので、この程度の質問までは許されるはずだ。
「……そうですか。噂には聞いていたのですが、実際見て巨大さに驚きました。ですが、いつもあの辺りは霧に包まれているのですね」
これには神父も、ああ、と笑顔を見せた。
「そうなのですよ。ヴェネト本土が晴天の時でもあの塔の付近はいつもあの通り厚い霧に覆われております。地形が関係しているそうですが、何にせよ、不思議なことです」
鐘が鳴った。
「すみません。忙しい所を。ネーリは二階ですか?」
「二階から上がった屋根裏にいるはずです」
礼を言って、フェルディナントは一礼すると、二階の方に上がって行った。
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