戦う場所

@JULIA_JULIA

第1話

 イザボア・ガッパはザンビア人のプロサッカー選手である。つい二週間ほど前に二十七歳となった彼は現在、苦境に立たされている。スペインでも屈指の強豪クラブチームに所属して三シーズン目となるのだが、ここ最近は試合に出場する機会があまりないのだ。今シーズンに入って暫くした頃から、出場機会が激減してしまったのだ。


 昨シーズンまでの二シーズンは、それなりに出場機会を得ていた。レギュラーメンバーとまでは言えないものの、ローテーションメンバーには入っていた。二試合に一度くらいの頻度で出場できていたのだ。しかし、この二ヶ月半で試合に出れたのは、たったの四試合のみである。しかも試合開始から出場できたのは、たったの一度のみ。






 一月の三週目、その土曜日。現在スペインのリーグで首位に立っているイザボアのチームは、ホームスタジアムに中位チームを迎えていた。試合開始の時間が訪れたが、今日もイザボアの姿はベンチにある。


 イザボアのポジションは、センターハーフ。彼の特徴は、安定したパス能力としなやかな体を活かした粘着質な守備。スピードや運動量はそれなりにある。そんな彼のライバルは、スペイン人の若手選手である。


 試合は進み、既に前半の二十分すぎ。両チームともに未だ無得点。とはいえ、イザボアのチームが明らかに押している。敵陣でパスを繋ぐ機会が多く、既に四本のシュートを放っている。そのうちの二本はゴールマウスを捉えていたが、敵キーパーの好セーブにより、得点には至らなかった。


 五万人を超える観客が試合の趨勢すうせいを見守り、ホームチームの優れたプレーに拍手を送り、放たれたシュートに響動どよめく。かなりの迫力である。しかしながら、このスタジアムの本領はこんなモノではない。最大で八万人弱の観客を受け入れられるホームスタジアムの客席全てが埋まれば、拍手の音や響動どよめきは、凄まじいモノへと変貌するのだ。


 多くの観客が湧く中、イザボアの視線はピッチ内にいる一人の選手へと向けられていた。それは、ライバルである若手選手だ。彼の特徴は、ピンポイントのミドルパスと強烈なミドルシュート。更には守備も巧い。イザボアの守備は相手選手の体に貼り付くような粘着質なモノだが、ライバル選手の守備はよりスマートなモノである。体は寄せるべきタイミングで寄せ、的確にボールを奪い取る。また、敵選手が出したパスを途中で遮るプレー、いわゆるインターセプトも得意としている。


 そんなライバル選手の一挙手一投足を見て、イザボアは己の成長に繋げようとしている。ボール捌き、立ち位置、どういうときにどこを見ているのか。そういったことを盗み見ているのだ。


 イザボアは既に二十七歳。そしてライバル選手はまだ二十三歳。よって、年下のプレーを盗み見て、年下から学ぼうとしているのだ。しかしながら、プロサッカー選手にとって───、いや、プロアスリートにとって、それは普通のことである。優れた選手から盗む、学ぶというのは、当たり前のことなのだ。そんな当たり前のことをしているイザボアだが、見たからといって簡単に盗めたり、学べたりするワケではない。




 試合は四対一でホームチームの勝利。つまりイザボアのチームが勝った。結局、彼は試合には出場できなかった。とはいえチームの勝利は喜ばしい。しかしながら単純に喜んではいられない。ライバル選手が結果を残したからだ。


 一得点、一アシスト。更には、確実に失点すると思われた決定的なピンチを一度防ぎ、他にも何度かピンチを防いでいた。ピンチになる可能性を孕んでいた予兆に至っては、何度防いだのか数え切れない程だ。ドリブルを仕掛ける敵からボールを奪い、的確な立ち位置で敵チームのパスコースを消していた。


 試合結果に大いに満足した観客たちがホームスタジアムを去りゆく中、イザボアは複雑な心境でロッカールームへと引き上げていった。






 試合から二日後、月曜日。イザボアの携帯電話に着信があった。画面を見ると、『クロルド』という表示。それは、イザボアの代理人の名だ。


 代理人とは、契約に纏わる様々なことを選手に代わって行う人間のこと。今やサッカーは世界でもトップレベルの人気スポーツである。つまり、世界規模の超巨大ビジネスである。中でもヨーロッパはトップレベルの選手たちが集う世界最大のマーケットとなっている。


 そのヨーロッパの強豪チームに所属しているとなれば、選手の契約は多岐にわたり、事細かに記されている。時として契約書の厚みは、分厚い辞書ほどにもなる。そんな契約書の一言一句を選手本人が確認などしていられない。そして、ほぼ全てのサッカー選手は法律に精通していない。よって代理人が契約内容の確認を行い、重要なことを抽出し、それを選手に知らせるのだ。


 そんな代理人であるクロルドからの電話であれば、イザボアが出ないワケにはいかない。如何に陰鬱な気分であったとしても。


「・・・どうした?」


 イザボアの声が少し暗い。そのことに気付いたクロルドだったが、それには触れず、ともかく用件を伝える。


「オファーが来た」


 電話口から届いた言葉に、イザボアは戦慄した。ここでいうオファーとは、『移籍交渉』のこと。つまりは、『引き抜き』である。現在所属しているクラブチーム以外から、必要とされているということである。要するに、イザボアのことを評価してくれているチームが存在しているという証だ。それは光栄なことである。しかしながら、イザボアは戦慄したのだ。


 ヨーロッパのサッカーにおける選手の移籍は、基本的には特定の期間にしか認められていない。その期間は各所によって異なるが、概ね夏の二、三ヶ月と冬の一ヶ月ほどとなっている。そして一月の今は、冬の移籍期間にあたる。


 また、移籍交渉はクラブチーム同士の交渉から始まる。ある選手を欲しているチームが、その選手が所属しているチームへと声を掛ける。声を掛けられたチームは、その選手を手放したくなければ、キッパリと断る。そして交渉決裂となり、その選手に交渉の矛先が向くことはない。様々なケースがあるとはいえ、基本的には所属しているチームを無視して選手本人に直接交渉を持ち掛けることは固く禁じられている。


 つまり、イザボアの耳にオファーの報せが届いたということは、現在所属しているチームが『イザボアを手放しても構わない』と考えていることを示している。しかしながらイザボアは、今のチームでプレーすることを強く望んでいる。そのため、彼は戦慄したのだ。


 イザボアは携帯電話を一旦耳元から離し、ふぅ、と息を吐く。そうして心を落ち着かせようとしたが、中々上手くはいかない。だが、クロルドをいつまでも待たせるワケにもいかないので、蠢く動揺が多少なりとも動きを小さくしたところで携帯電話を再び耳元へと当てる。


「・・・どこからだ?」


「イングランドだ」


 クロルドの説明によると、イングランドの強豪クラブチームがイザボアを求めているらしい。給与も悪くはない。とはいえ、イザボアが現在所属しているのは、人気、実力ともに世界最高峰の一つとして挙げられるほどのクラブチームだ。それを考えれば、確実に『都落ち』である。


「オファーはそれだけか?」


「いや、他にもある」


「いくつだ?」


「・・・二つだ」


「本当はいくつだ?」


 イザボアとクロルドは、それなりに長い付き合いである。初めて知り合ったのは、十年前。それからというもの、イザボアはクロルドを専属の代理人として雇っている。そのため、クロルドが隠し事をしているのを、イザボアは僅かな『』から察知した。


「・・・三つ。・・・いや、四つだ」


 現在のクラブチームに所属してからというもの、これまでイザボアの耳にオファーが届いたことはなかった。それなのに、つい先程クロルドから電話があり、既に合計五つものオファーがあるとなると、これまでにもオファーは届いていたが、現在のチームが全て断っていたということだ。つまり、イザボアを必要としていたということだ。しかしそれは、もう過去のこと。もう必要とはされていないのだ。そんな事実を改めて突き付けられたイザボアは、またも気分を沈める。


「・・・条件が良くないのか?」


 イザボアは沈みゆく気分をなんとか留まらせ、クロルドが隠そうとしていた二つのオファーについて、訊いた。


「給与はそこまで悪くない。だが、多分オマエは行かないだろう」


「どうしてだ?」


 イザボアからの問い掛けに、クロルドは隠そうとしていた二つのオファーについて───そのオファーを出してきた二つのクラブチームについての話を始める。


「一つは、成績が悪すぎる。来期は間違いなく二部に落ちる」


 二部とは、二部リーグのこと。ヨーロッパ各所のリーグは複数のカテゴリーに分かれており、最上位のカテゴリーを一部とし、その下は順に、二部、三部、四部・・・となっている。


 たった今クロルドが説明をしたのは、ドイツの一部リーグに所属しているチームのこと。イザボアの実力を考えれば、ドイツの二部でプレイするなど勿体なさすぎる。


 とはいえ実際には、そうはならないだろう。そんな状況に陥れば、必ずといって良いくらいに、他のチームからのオファーが届くからだ。往々にして、下のカテゴリーへと落ちるチームには食い荒らされる運命が待ち受けている。よって、イザボアがドイツの二部でプレイする可能性は極めて低い。しかしながら所属するチームを短期間でコロコロと変えていては、チームに馴染めない。それは選手にとっては良くないことだ。そのため、クロルドは隠そうとしていたのだ。


「もう一つは、来期の構想が不安定だ。現在の監督は今期一杯で退任することが決まってて、次の監督は未定だ」


 監督が代われば、チームは変わる。急に強くなったり、急に弱くなったりする。また当然のことながら、戦い方や試合に出場する選手も変化する。そういう変化は必ず起きる。よって、クロルドは難色を示したワケだ。その上、次の監督が決まっていないチームに移籍するとなれば、それは暗闇に向かって駆け出すようなモノだ。その先には高い壁があるかもしれないし、大きな穴があるかもしれない。クロルドは、そんな場所へとイザボアを誘導するような真似はしない。


 選手の移籍に際して、基本的には金銭の支払いが発生する。選手は現在所属しているクラブチームと契約を結んでいるワケで、その選手を別のクラブチームが引き抜こうとしても、現在のクラブチームが選手を手放したくなければ、契約によって防がれる。だから移籍させるためには、現在のクラブチームに契約を解除してもらうしかない。そこで発生するのが違約金である。一般的には、移籍金と呼ばれているモノだ。


 移籍金の支払い義務は選手本人にあるのだが、引き抜きたいクラブチームがそれを肩代わりをする。そうして現在所属しているクラブチームに金銭による保証をして、別のクラブチームは選手を引き抜くのだ。そしてヨーロッパにおいては、その移籍金の一部が代理人の報酬となる。それは中々のパーセンテージであり、そのため悪徳な代理人は無理矢理にでも選手を移籍させようとする。それも、より高い移籍金を支払うクラブチームへと。


 しかしクロルドはそういう代理人ではないので、イザボアが活躍できるチームを見極めようとしている。よって、二つのオファーを隠そうとしたのだ。


「なるほど・・・。で、あとの二つは?」


 イザボアから訊かれたクロルドは、再び説明を始める。一つは、またもイングランド。そして残りの一つは、イタリアだった。イングランドのそのチームは歴史こそあれど、強くはない。いや、ハッキリと言ってしまうと、かなり弱い。とはいえ、二部に落ちるほどではない。そしてイタリアのそのチームは中々に強い。優勝争いはできないが、上位争いはできるくらいだ。そのためイザボアが移籍するならば、イングランドの強豪か、イタリアの強豪となるだろう。


「そういうワケだから、身の振り方を考えといてくれ」


 そうして、クロルドからの電話は切れた。さて、どうしたものか。イザボアは自宅のソファーに腰を下ろし、軽く頭を掻いた。






 オファーの内容を聞いた二日後の水曜日、イザボアはピッチ内にいた。ホームスタジアムのピッチ内だ。リーグ戦は基本的には週末の土日に開催される。時折は平日にも開催されるが、今日は違う。リーグ戦は行われない、そんなピッチ内にイザボアは立っている。では練習をしているのかというと、そうではない。試合をするために立っているのだ。練習試合ではなく、本番の試合だ。


 今日開催されるのは、スペイン国内のカップ戦。リーグ戦は全てのチームによる総当たり戦だが、カップ戦は勝ち抜き方式で行われる。その試合のスターティングメンバーに選ばれたのだ。国内のカップ戦は、リーグ戦に比べれば重要度で劣る。とはいえ、イザボアにとっては正念場だ。自身のチカラを、自身の価値を示すべきときなのだ。


 対戦相手は明らかに格下のチーム。現在リーグ戦で全二十チーム中、十七位に低迷しているチームだ。とはいえ、油断はならない。国内のカップ戦では好調で、ベスト十六に残っているのだから。


 リーグ戦で十七位のチームがカップ戦のベスト十六に残っていたところで、それはほぼ順当な結果と思われるかもしれないが、そうではない。事はそう単純ではない。なぜなら、そのチームは格上のチームを既に二度も破っているからだ。


 それに、スペイン国内のカップ戦は中々に厄介な大会である。一部の対戦を除いては、全て一発勝負で結果が決まるからだ。リーグ戦は一年間の積み重ねで順位が決まる。現在のスペイン一部リーグの場合は、全二十チームによる争いで各チームが三十八試合を戦う。その結果により、順位が決まるのだ。よって、一度や二度くらいなら敗戦したところで痛手となることは、そうそうない。しかしながら、カップ戦は違う。一度敗戦すれば、そこで敗退となる。決勝と準決勝を除いては。


 そのため、イザボアは緊張していた。この試合でのミスは大きな痛手となるからだ。更にいえば、久々の試合である。前回試合に出場したのは、もう一ヶ月近くも前のことだ。そしてスターティングメンバーに名を連ねたことに言及するならば、もう二ヶ月以上も前のことになる。その上、現在のチームから評価されていないことも既に分かっている。オファーが届いたことによって。だからイザボアは相当に緊張しているのだ。


 けたたましいホイッスルの音により、試合が開始された。その音を聞き、身震いしたイザボア。程なくするとパスが回ってくる。浮き足立つ体を抑え込み、なんとかトラップ。そして後方にいるセンターバックへとパスを繋ぐ。出だしは良くもなく、悪くもなく。無難なプレーの連続。そうこうしているうちに、二十分ほどが経っていた。


 前半の二十二分、味方の右サイドバックが大きく駆け上がり、パスを受けた。そしてツータッチ目でのセンタリング。その先には味方のセンターフォワードが待っている。しかし敵二人に挟み込まれ、ボールは敢えなく弾かれた。バイタルエリアに落ちたボール。それは、イザボアの約五メートル前方。そのすぐ近くには敵がいる。さて、どうするべきか。


 全力でボールへと向かい、いち早くボール奪取を試みるべきか。それとも距離を保ちつつ、敵の出方を窺うべきか。イザボアが選択したのは、後者であった。


 ボールのすぐ傍には、もう敵がいる。となれば数秒後、ボールは敵チームの支配下にある。そんなボールの位置は、まだ敵陣内の中間よりも向こう側。そんな状況で無闇に突っ込む必要はない。敵がボールをコントロールしたところで、キッチリと守備陣形を整えれば失点する可能性は極めて低い。


 そう判断し、イザボアはその場に留まり、首を左右に振った。敵味方の位置を確認するためだ。しかし、彼の判断は誤りだった。ボールのすぐ近くにいた敵はコントロールを試みず、直接キックした。イザボアの頭上を越えていくボール、ロングパスだ。イザボアが自陣に目をやると、味方のセンターバックと敵のセンターフォワードが徒競走を始めていた。


 敵味方二人による競走の勝者は、敵の方だった。敵のセンターフォワードは足が早く、既に体二つ分は前に出ている。その三メートル先にボールが落ちる。味方キーパーは前に出るには距離があるため、少し下がる。そうしてゴールマウスの備えへと移行した。しかし、そんな行為は徒労に終わる。


 強烈かつ、正確なシュートにより、ゴールネットが揺らされた。敵のセンターフォワードは特に優秀な選手ではない。しかし彼が放ったシュートは格別のモノだった。眼前に落下したボールをワンタッチでコントロールするや、次の瞬間、右足を振り抜いていた。そしてボールはゴールマウスの右上角へと突き刺さっていた。


 全てが一瞬の出来事だった。イザボアがその場に留まる判断をしたのも、敵がロングパスを送る決断をしたのも、見事なまでのシュートの軌道も、そんなシュートを打つ決意を固めたのも。


 サッカーは、瞬間のスポーツである。一瞬で状況を見極め、一瞬で判断をし、一瞬で決断をしなければならない。そうしないと、次の瞬間には状況が大きく動いている。そして、取り返しのつかないことが起きてしまう。それが今、イザボアの身に訪れたのである。


 もし仮に、いち早くボールを奪い取るために前に出ていれば、ロングパスは蹴られなかったかもしれない。パスコースを消されたと感じた敵が、とりあえずはボールをコントロールしたかもしれない。もしくは横パスをしたかもしれない。しかし、それはどれも不確かな未来であり、もはや確かめようなどない。


 そこからというもの、イザボアは完全に萎縮してしまっていた。失敗を引き摺ること、後悔を続けること、それらは更なる失敗を生みやすくしてしまう。反省は試合後にするべきであり、試合中にするべきことではない。創意工夫は常に心掛けなければいけないが、それと反省では意味合いが異なる。


 イザボアは無難なプレーや気弱なプレーに終始し、効果的なプレーをすることは、ほぼなかった。大して意味のない横パスやバックパスを繰り返し、持ち味である粘着質な守備を殆ど見せず、淡白な守備を晒すことになった。その結果、後半の十八分でピッチを去ることになる。失点の責任はイザボアだけにあるのではない。走り負けたセンターバックや、キーパーにも責任はあるだろう。しかしイザボアは自責の念に駆られていた。


 試合の方はというと、イザボアのチームは先制点こそ取られたものの、その後はなんとか持ち応え、追加点は奪われずに済んだ。そして後半の二十九分と三十五分に得点を奪い、逆転勝利を掴むことができた。






 試合後、イザボアはクロルドに電話を掛けていた。イングランドの強豪チームへと移籍する覚悟を決めていたのだ。もう現在のチームでは出場機会は得られないだろう。そう考え、移籍することにしたのだ。そして一週間後、イザボアはイングランドへと旅立った。



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