第6話

 駐屯地の騎士館にある自室で、フェルディナントはヴェネツィアの街の地図を深夜まで眺めていた。彼は着任してから街のことを調べている。ヴェネツィアの街は入り組んでいるため、最初は苦労したが、今では細い路地まですべて頭の中に叩き込んだ。

 悪化している治安を、安定させなければならない。昼夜酒を飲んで遊んでいる警邏隊は一度解散させ、志願する者は王都守備隊に再編するつもりだ。しかしその時に守護職に相応しい者かどうかは十分吟味する。

 王都ヴェネトは街のゴロツキのような人間にも気安く制服を与えていることが判明した。貴族が推薦すれば、素性など関係なく即採用されているらしい。フェルディナントが注目したのは貴族がそんな輩を推薦する利点についてだ。

 トロイに命じて、歓楽街の内情を探らせた。すると、貴族が名を隠し、金だけ出して自らの気に入った娘などを住まわせている娼館があることが判明した。そんなに必死に探ったわけではなく、娼婦が簡単に自分たちに金を払っているのは誰か、喋ったのである。

 ヴェネト貴族の間ではそういう「遊び」が流行っているらしい。つまり、自分の欲望のままに遊べる娼館、そこに物品を運ぶ密輸や、それを守るための私兵団が雇われる。警邏隊はそれを見逃したり、情報が漏れるのを隠すために、賄賂で雇われてるわけだ。

 警邏隊が娼婦を我が物顔で追い回し暴行していた姿が思い浮かぶ。

 ――あの粗暴さは、立場を保証された特権階級の振る舞いだったのだ。

 この図式が明らかになったことにより、警邏隊を解散すれば、表立ってではなくとも貴族たちからの反発があることは必至だった。もっと調べ上げるのだ。名前が明らかになった者たちの中には、まだヴェネトにおいて中流貴族という感じの者が多い。王城に出入りするような、上流貴族の名が、フェルディナントは欲しかった。他の貴族がやっていることを、上流貴族がやっていないはずがない、というのが彼の見立てである。

 貴族というものは横の繋がりも強いが、上下の繋がりも強いのである。

 彼らは金の規模だけが違って、同じ習性を持っていることを、自らも貴族の一人である彼はよく理解していた。何人かの上流貴族の名が上がれば、その人間を脅して他の下位貴族を黙らせることも出来るかもしれない。

 彼らは娼館には、娼婦だけではなく、贔屓の商人や役者や画家なども出入りさせていると聞いた。

 画家……。

 フェルディナントは机の引き出しを開いた。

 ネーリ・バルネチアの絵を取り出す。

 深夜の薄暗い明かりの中でも、朝日の中の干潟は光り輝いていた。

 こんな美しい絵を描く画家が、万が一にもそんな醜悪な人間の習性が結託したような場所に出入りするようなことがあってはいけない、と思った。

 人間の醜い所ばかり見たら、ネーリは美しい絵を描けなくなるかもしれない。

 彼は想像力でも絵を描いているのだから。

(美しい楽園を描ける……あの魂は守られなくては)

 そっと描かれた光に指先を触れさせる。

 足音の気配がして、フェルディナントは絵をしまった。

「将軍」

 扉が鳴る。トロイの声だ。

「入れ」

 副官が現われる。

「どうした?」

「街から情報が……また殺しです」

「警邏隊か?」

 フェルディナントは反射的に聞いていた。トロイは頷く。

「分かった。すぐに街へ向かう。フェリックスの用意を」

「はっ!」

 開いていた窓を閉じて、街の方を見る。

 ここは一応ヴェネツィアの街の外周壁内ではあるが、街の外れだ。少し高台になっていて、街の夜景を外から見たかのように眺められる。ネーリの描いた絵の中では、街はもっと遠い。

 今日、彼は街にいるのだろうか。それともあの景色の中に帰って、穏やかな顔で眠っているだろうか。後者であってほしいとフェルディナントは願った。



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