第12話:追憶Ⅰ

 真正面から昇る朝日。

 陽光を受け止めるように腕を広げたまま、黒衣の旅僧は私に気付いたのでした。


「……聖女殿か、おはよう」

「おはよう、ございます」


 上るだけでも大変な岩壁の頂上。半足ほどしかない足場に立ち、微動だにしない後ろ姿からは、かすかに白い呼気がこぼれて見えます。


「フー・スリ様、その昨夜は……」

「思ったんだがなぁ」


 食事の席での非礼を詫びようとした私を制して彼が口を開きました。


「やはり聖女殿のような女性にょしょうに、名前に様付けされるというのはよ。拙僧のことはそう、ただ沙門しゃもんと呼んでくだされ」

「はあ、では沙門様。ですが、イリスガーデもあなたをお名前で呼んでいます」


 がはは、と青年僧は涼やかな見た目に合わず野太く笑います。


「そこはそれ、惚れた女の呼ぶ名だからのう。おもゆさよりも愉快さが勝ってしまうのは人情であろう」

「……、惚れ、えっ?」


 のみ込めなかったのも当然。彼と私たちは昨日あったばかりでしたから。


「あれは良い女だぞ、聖女殿」

「……そうでしょうか」


 彼女のしたことといえば。

 近隣の村人が決して近寄らない禁足地。

 そこに棲む魔獣を調伏ちょうぶくしてしんぜようと大口を叩いた旅の僧。彼から、


『よい所に行き会うた。お主らは見届け人ぞ』


などと巻き込まれ、あげく魔獣に殺されかけた彼を助けたことくらい。


「アホだと思います」

「うむぅ、酒の席でさんざ聴いたわ。それに輪をかけて阿呆なのが俺だと言うのだろう。いやはや、聖女の説法とはこうも痛いものかと感心したぞ」

「……ご無礼をお許しください」

「よいよい、礼講れいこうというであろう。それにな、まさにそこなのだ」


 朝日に顔を向けたまま、青年僧は続けました。


「我らが宗門は、魔をぎょするための術を長く伝えてきた。聖教会のたん狩りで寺はほとんど焼かれたがな。世に魔王あればこれを滅することがその宿命。でなければ、にんの時代に教えをつないだご先代せんだいがたに申し訳が立たんゆえな」


 はぁ、と白い呼気がひときわ大きく揺らぎます。


「だが、俺の実力はあの通りだ。宗門を継ぐ者に、そういつも傑物けつぶつがおるとは限らん。魔王とて、待ってはくれん。宿命とは得てしてそんなものでな」


 ついうなずきそうになったのを、長いまばたきに替えました。背中越しにも見られているような気がして。

 彼は生気オドの修練者独特の、低く長い息を吐きました。


蔵六ぞうろく魔行まぎょう、という、僧が力を得るためのほうがある。六つの魔獣を調伏し、その力を我が身に宿す荒行あらぎょうだが、修めればあまねく魔を滅する力を得るという」


 まあ、糸のごとき希望というやつさ、と自嘲して彼は振り向きます。


「そこで先の話に戻るわけだ。聖女殿、この話をきいてなお、俺をアホだと笑うか?」

「笑いませんが、アホだと思います」

「俺もそう思う。だがなぁ、あのひとはおくびにもそれを出さんかった。今もそうだ」


 うつむいた彼は、寂しげな笑みを浮かべました。


「阿呆に阿呆なりの事情があることを、察してくれているのだと思う。

 義侠心ぎきょうしんというやつだ。他人の決心をわが事のように重んじられる心。あれはなぁ……きよいよ。清冽せいれつすぎて、目を合わせられん」


 腕を組んでうなずくと、半歩引いて私を見ます。


「聖女殿はどうだ? あのとらわれのない瞳と向き合ったとき、己のしがらみの多さにうんざりすることはないか?」


 どきりとしました。悟られないよう小首をかしげます。


「……さあ、私は女神ミコリスの奉仕者。隣人との連帯れんたいをこそ喜びとする者ですから」

「聖教会ができてより、たび繰り返された勇者の魔王討伐。それらはすべて、派遣された監督役の裏切りで終わっている」


 畳みかけられる言葉。それは私でさえ知らなかったことで、ゆえに完全に動揺を抑えることは困難でした。


「聞き方を変えよう。聖女殿、あのひとに並び立つ己に、何一つ後ろめたいところはないか?」

「それは……っ」


 そのとき。痺れるようなかんが私の体を駆け抜けます。思考が塗り替えられ、首から上が、他の誰かにとって代わられる感覚。魂縛印こんばくいん


「はい、誓って」


 次の瞬間に私は、私でない私は、清廉潔白せいれんけっぱくを絵に描いたように言いきっていました。

 沙門様は、おぞましいものを前にしたように顔をしかめます。


「……むごいな、これでは人というより聖具そのものではないか」


 察された。

 印のことは知られてはならない。

 ゆきずりの他人は、とくのための殺傷を禁じられていない。


 即座にわきあがる物騒な思考。その一切に関与できない私はただおののくことしかできなくて。

 音もなく不可視の霊刃が指先から伸びました。自分で使うよりも鋭く長い、何かの動作に見せかけて腕を振るうだけで相手の動脈を切断できる代物。

 ぼりぼりと胸ぐらを掻いて沙門様はうなだれます。

 

「ふぅむ、人知れず修行の道へ戻るつもりであったが。どうやらその前に、憎まれ役をせねばならんらしい」


 逃げて、と叫ぶ代わりに私の口から出たのは、無垢むくそのものな小さなあくびでした。


「ふぁ」


 丸く開いた口。それを恥じらい、隠すように口元へかざされる手のひらが、寸前でひるがえって。

 ぶつん、と。


「っ、ぁ、か……ッ」


 衝撃、寸断する意識。私ではない私が、混乱の中で赤く詰まった息を吐きます。

 いつ間合いを詰めたのか、私の胸へを打ち当てた沙門様が、


「――すまんな。俺はそういった駆け引きでは負けたことがないのだ」


静かに告げました。

 崩れる膝。周りから黒く塗りつぶされる視界の端で、節立った指が肩を支えます。


「もし聞こえておるなら聞け、哀れな娘よ。俺は今、お前を打ち殺すこともできた」


 戻ってきたのは一人分の思考。私の中身が、私だけだというあん感。


「お前へかけられた呪いは難解だ。そんなややこしい者が勇者殿のかたわらにあっては、大義のさまたげにもなろうからな」


 同時に恐怖します。これまでも印が起動したことはありましたが、あくまで連絡役と会ったり手紙を書いたりといった、監督者としての役目を漏れなく行わせるに過ぎませんでした。まさかあんな、得体のしれない何かが潜んでいるとは思いもしなかったのです。


「だが殺せば、俺があのひとに感じた輝きを否定することになる。彼女の義の内側にあるものを、俺は殺せん」


 言って沙門様は、私の身を岩肌へ横たえました。


「ゆえにその命、預けておこう。今日、お前を生かしたものが何なのか、よく考えることだ」


 次に会うまでにな、と言い添えて、墨染すみぞめの衣を翻します。私が気を失うよりも早く、その気配は消え去っていました。


 その後。

 私と彼が会うことは何年もありませんでした。

 ただ、行く先々の村で私たちは歓迎されるようになり、同時にいくらかの頼みごとをされるようになりました。

 実はそれが、ちまたで勇者の活躍をいてまわる旅の僧のせいだとわかるのは、それから少し後の話になります。


 だから今の私は、彼に感謝をしてもしきれなくて。

 情けなく、詫びても詫びきれなくて。

 同時に、いつか私は。

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