スキヨおばあちゃん
塔
前編
これは私が社会人1年目の話です。
私はその春、専門学校を卒業して、実家から2駅ほど離れた街にある老人ホームへ介護福祉士として就職したばかりでした。一人暮らしも始め、新しい生活に胸を躍らせていました。
最初の1週間は研修も兼ねていて、仕事を教えてもらいながら専門学校では教えてもらえなかった現場でのルールや注意事項なんかを叩き込まれました。その1週間は本当に忙しく感じて、毎日が慌ただしく過ぎていきました。ですがこの仕事に向いていたのか、有り難いことに2週目には早くも仕事にも職場にも慣れてきました。先輩方が優しかったおかげでもありますが、入居者さん達に穏やかな人が多かったことも大きかったと思います。
だからその時にはまさか、自分の身にあんなことが起きるなど、考えてもいませんでした。
その日のお昼休み。私は指導係の先輩に、気になっていたことをひとつ尋ねました。
「先輩、ひとつ聞いてもいいですか?」
「んー? なに?」
先輩のカタオカさんは私より一回りほど年上でしたが、何だか妙に気が合い、まだ出会って1週間ちょっとしか経っていないのに、まるで姉妹のように仲良くなっていました。
「あの、キタガワさん、っているじゃないですか」
「キタガワ……ああ『スキヨおばあちゃん』のこと?」
「そう、それですそれ! キタガワさんって『キタガワ・ユキ』でしたよね。なんで皆さん裏では『ユキおばあちゃん』じゃなくって『スキヨおばあちゃん』って呼ばれてるんですか?」
「ああ……そのこと」
「それに、初日に主任から『キタガワさんには優しくしないでね』って指示されたんです。確かに、皆さん他の入居者さんへはとっても優しいのに、キタガワさんにだけ塩対応というか……冷たいですよね。それもスゴい不思議だなって」
「まあ、それは……何というか……」
「……何か聞いちゃまずかったですか?」
「ううん。いや、そりゃ気になるよねー。でも……うーん……そうだなあ……」
この時、これ以上聞かずにいれば……。私はこの時の自分の浅はかさを今でも後悔しています。ですが過去の恋愛の話など私が聞くとどんなことでも気さくに話してくれるカタオカ先輩が珍しく言い淀んだため、私は余計に気になってしまったのです。
「イガワちゃんさあ、オカルトとか、苦手?」
「オカルト……ですか?」
「うん」
「ホラー映画とか、けっこう好きで観ます」
「……私から聞いたって言わないでね?」
そう言って、先輩は話し始めました。
「あのね、これは噂……いや、噂でもないんだけど……。キタガワさん──スキヨおばあちゃんにね『好き』って言われた人は死ぬ、って話があって」
「なんですか……それ」
「これは入居当時、本人から聞いた話なんだけど。小さい頃はご両親と妹さんと、4人で幸せに暮らしていたそうなの。でもね、おばあちゃんが10歳くらいの頃に妹さんが亡くなって……それから後を追うようにご両親も亡くなってしまったらしくて」
「戦争とかですか?」
「やだ、違うわよ。あのおばあちゃん、ああ見えてまだ60代後半なのよ」
「えっ?」
「老けて見えるわよね。色々苦労したんだと思う……。ああ、それでね、おばあちゃんが初めにそのことに気がついたのは、学生の頃。その頃好きだった人に告白したらしいんだけど……数日後、その男の人、亡くなってしまったんだって」
「どうして……?」
「自殺だったらしいわ。その人は生前、友人に『毎晩、女が枕元に立って俺に「好きよ」って言ってくるんだ』って話していたそうなの……」
「その女の人って……」
「スキヨおばあちゃんにそっくりだったそうよ。そんなことが……その後でもう一度、あったんだって。それでおばあちゃんは誰にも『好き』って言わないようになったんだって」
「そう、だったんですね……」
「それで、20代半ばでお見合い結婚したらしいんだけど」
「えっ、でも──」
「引き取った親戚もおばあちゃんのこと気味悪がっていたみたいで、早く家から出て行ってほしかったんでしょうね。おばあちゃんは何度もお見合いを断ったらしいんだけど、根負けして、それで」
「それで? その人は大丈夫だったんですか?」
「おばあちゃんは旦那さんに『好き』って言わないように気をつけていたそうよ。一回り近く年上の男性で、結婚を焦っていたそうだから。子供を作りたくないっておばあちゃんの気持ちも、受け入れてくれたそうよ」
「それで、その人は──?」
「……でもね、やっぱり何十年も一緒に暮らしていると、愛情も湧いてくるわよね」
「まさか……!?」
「おばあちゃんもね、もう大丈夫だろうって思ったみたい。ポロっと口にしてしまったんだって。『好きよ』って。そうしたらその晩から……」
「で、でも。そんなの、作り話、ですよね? おばあちゃんが私達を怖がらせようと思って……」
先輩はそこで、ふうっ、と大きく溜め息を吐きました。今思えば、先輩にはつらい話をさせてしまいました。
「もちろん、私達も最初そう思ったわ。最初のうちはね。でも……スキヨおばあちゃんが入居して2年ほど経った頃、おばあちゃんの認知症が始まったのよ。そしてある日、おばあちゃんに一番優しくしていた当時の主任にね……おばあちゃんが……」
「『好き』って……?」
「『いつもありがとうね。私、あなた大好きよ』って……私その時、隣にいたんだけど……おばあちゃんは自分で言ったことに気がついていないみたいだった。主任は一瞬驚いた顔をしていたけれど『ありがとう』って返してたわ」
「それで、その主任は!?」
「……その夜を境に、主任はみるみるやつれていったの。私達みんな心配していたんだけれど、何を聞いても『大丈夫』って。責任感の強い人だったから……。でも1週間を過ぎた頃、私に教えてくれた。『毎晩キタガワさんが枕元に立って「好きよ」って囁くの』って。それで……次の日、自宅で首を吊って亡くなったわ……」
私は、あまりにも現実離れした話に、言葉を返すことすら出来ませんでした。先輩が私を怖がらせようと、作り話をしてるんじゃないか、とも考えました。ですが、先輩の真剣な表情や、おばあちゃんに対する皆さんの態度などを思うと、それが嘘だとは思えなかったのです。とはいえ、こんな話を聞いたからといって、皆さんに倣っておばあちゃんに冷たい態度を見せることは、新人の私には出来なかったのです。
それから1週間ほど経ったある日のことです。
私がキタガワさんの食事のお手伝いをしていた時でした。
「ごめんなさいね、あなた……お名前なんだったかしら」
「イガワです」
「ああ、そうそう。イガワさん……あなた新人さんよね?」
「はい。まだ入って半月です」
「あらそう……。まだ半月……」
「はい。何か至らぬ点がありましたらおっしゃって下さいね」
「そんな、至らぬ点だなんて……。あなた本当に優しいわねえ」
「いえ、そんな」
「私、あなた好きよ」
一瞬、身体が凍りつきました。ですが、ここで失礼な態度をとるのも申し訳なく思い、必死に引き攣った笑顔を作りました。
その夜のことでした。
私が自宅のベッドで寝ていた深夜に、それは起こったのです。
「……う、ん……」
妙な寝苦しさを感じ、私は目を覚ましました。
スマホで時間を確認すると深夜2時。
異様に喉が渇いていたので、水を飲みに行くために起き上がろうとしたのですが……突然、身体が凍りついたように動かなくなったのです。金縛りになるのは、初めてでした。昼間の出来事が一瞬頭を過ぎりましたが、金縛りは疲れていてもなると聞いたことがあったので、仕事の疲れが原因だろうと考えたのですが──。
「……よ」
何処からか、声が聞こえてきたのです。
「……きよ」
一人暮らしの家です。私以外の声がするはずがありません。
「好きよ」
今度はハッキリと、耳元で囁く声がしました。
「好きよ」
「好きよ」
その『誰か』は、壊れた人形のように、同じ言葉を繰り返すのです。
「好きよ」
「好きよ」
「好きよ」
私は声の主の正体を確かめようと、必死に首を動かそうとしました。しかし、首はおろか指先ひとつ動かすことが出来ません。そこで私は、唯一動かせた眼球を神経が千切れるのではないかと思うくらいに上へ上へと動かしたのです。
すると、視界の端に人影が映りました。
それは私を見下ろすように立っています。
「好きよ」
その顔は、確かにキタガワさんのものでした。
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